太陽と、土と、それから
酒、エーテル、エーテル、酒、酒、そして酒。一体何本空けたのか数えるのも馬鹿らしいほど乱立した空き瓶の林の先、当代の英雄殿がカウンターに突っ伏して見事に酔い潰れていた。
暢気なものだ。当代の英雄殿に何度抱いたか分からない呆れが深い溜め息となってこぼれる。
大方、ひび割れた魂が訴える飢餓感を酒とエーテルで薄めようとした結果というところか。傍から見ても無茶な飲み方だったことは、散々酔い潰れた客を見てきた店主が狼狽えていることからも明白に分かる。何よりこいつの周りに漂うきつい酒精のにおい。さっさと手放せばこんな自傷まがいをせずに済むものを。
「おい、起きないか。こんなところで寝首を掻かれてもいいのか」
一体どんな酷い顔になっているか拝んでやろう、と肩を揺すってやれば、重たそうな目蓋が開いた。それでもまだ半分以上微睡んでいるのか、薄目のままだが。
「……エメ、ト、セルク……?」
「寝るなら部屋へ戻れ。見ろ、水晶公のお友達が酔い潰れている、と笑われているぞ」
「……公が笑われるのは嫌だな……」
笑われているのはお前だ、と言ったところで今は耳に入らないだろう。英雄殿は机にへばりついた頬を必死に持ち上げようとしているが、酔いと急激に摂ったエーテルが回りきった体に力が入るはずもない。じわじわと蠢いていたが、無様にも椅子から転げ落ちそうになる酔っ払いの二の腕を掴んでなんとか立たせる。
抗議のつもりか、じとりとした視線と何やら呻き声を上げてくる英雄殿を無理矢理引きずって持ち上げ、肩に担ぐ。しばらくじたばたと往生際悪く手足を藻掻かせていたが、それも無駄だと気付いたらしく、すぐに物言わぬ屍のように大人しくなった。ガレアン族、それも軍属の体であればエオルゼア人など子どもを相手にするのに等しい。怪訝な目を向ける店主を尻目に上着のポケットを漁って、財布の中から目についた金貨をカウンターに置いた。
「店主、釣りは取っておけ」
「えっ、いや、でも旦那」
「なぁに、獲って食いやしないさ。それに、悪酔いした客が一人店からいなくなるのは、お前にとっても悪い話ではないだろう?」
「そりゃ助かるが……でも、その人は水晶公の」
「はあ、面倒だな……その水晶公かその仲間が来たら伝えろ。こいつは男に担がれて部屋に戻された、と。ではな、頼んだぞ」
「あっ、ちょっと待ってくれ旦那!」
ならば、と慌てて店主がカウンター奥の棚から引っ張り出して寄越した一本は、この街──否、この世界と言った方が正確か──で手に入るものとしてはなかなか上等な果実酒らしい。大切な客人をよろしく、と先に報酬を渡すことで私に役割を果たすよう釘を刺したわけだ。盛況な酒場を回しながらなかなか気が利く。
英雄殿を肩にぶらつかせて一歩ずつ進む度、喧騒がさざなみのように遠のいていく。酒場からこいつの部屋まではそう遠くない。一瞬で移動してもよかったが、今夜は夜風に当たりながら歩きたい気分だ。どうせなら『水晶公の同郷の客人』が無様に酔い潰れて、謎の男に担がれている事実を街中の噂にしてやろう。きっとあの白髪の男やシャーレアンの双子あたりは目を剥いて怒ることだろう、今から楽しみだ。
明日の朝に向かっていた思考が背を叩く微弱な振動で引き戻される。背中側から呻き声に混じって、何かを訴えるような切羽詰まった色が見えた。
「エメ、腹……辛い……」
「……流石、英雄殿はただ運ばれているだけだというのに注文が多いな」
肩に担がれて腹が圧迫されていると確かに辛いだろう、特に飲んだ後なら。大きく、深く溜め息を吐いて、一度歩みを止める。そして、英雄殿の体を振り回して背負い直してやった。肩口から酒精のかおりが近くなって少し後悔したが、まさに背に腹は代えられない。どこぞの淑女を抱き上げるように運んでやるのも一興だが、生憎そこまで私の興も乗っていない。
「おんぶなんて、いつぶり……かな……」
「知らん」
文句が出ないところを見るに、もう惨事の波は去ったようだ。英雄殿も世話が焼けるが、私自身の気まぐれにも困ったものだ。
もうじきこいつの豪勢な居室のある建物にたどり着くというところ、対になった居住館の合間には時折強い風が吹く。今夜も服が体にまとわりつくほどの風が吹いていた。
一陣の風が私とその背で暢気に眠っている英雄に吹きつけると、ひどく懐かしい匂いが鼻孔をかすめていく。
それは、もう今日の役目を終えて眠りについた太陽。
目いっぱい駆け回って頬や髪についた土。
通り雨にしとど濡らされた豊かな緑。
それから。
「……あれ、部屋だ……?」
夢現の英雄殿が少しこちら側に顔を出したらしい。靴と一緒に落ちた呟きがいつかに引き込まれそうになっていた私の意識をも連れ帰る。
断じて同じではない。たとえ同じ色と根源を持っていても、似た香りをまとっていても、同じと認めるわけにはいかない。あいつは宿願の先にしか存在しない。
沼地から足を引き抜くような心地で階段を上り、居住館に踏み入る。吹き抜けの下を通る水路を横切った風は外よりも冷えていて、頬に当たると少しばかり心地よく感じた。
さっさとこいつを寝床に放り込んで、報酬を味わおう。こんな夜は飲むに限る。そう決めてからは足取りも少し軽く、早くなったがすぐにこちらを見つけたエレゼン族──こちらではエルフ族だったか──の男が血相を変えてカウンターから飛び出してきた。何度かこいつと親しげに話している姿を見たことがある。
「いかがされましたか、まさかお怪我を?」
「……お前が管理人か。ただの酔っ払いだ、気にするな。こいつは私が部屋まで運ぶ、いいな?」
「そ、れは問題ございませんが……では、後ほど、お水などお持ちします」
「好きにするといい。ではな」
管理人に背を向けて階段に向き直る。確かこいつの部屋は居住館の中でもかなりの上層にあったはずだ。興が冷める音を自らの中に聞いた瞬間、すでに私は転移魔法を発動させて、一人で使うには広すぎる居室の中にいた。
「着いたぞ。さっさと寝てしまえ」
寝台に放り出してやれば弱々しく呻く。今日はこいつの呻き声ばかり聞いている気がする。時折、思い出したように親しい友と話すような気安さで話しかけてくるものとは違う種類のそれは、何故か新鮮に聞こえた。
いつの時代でも光の加護を受けた者たちが私たちアシエン向ける声音は怒号、悲鳴、敵意の色を帯びたものばかり。むしろ呻き声こそ親しんだものだ。
だが、否、だからこそと言うべきか。こいつの声を聞く度、私の語る世界の理を聞いている無防備な姿を見る度。友や同胞たち、あいつは一体どんな声で話していたのだろう、と褪せかけた記憶を振り返らずにはいられない。
「……ありが、とう……」
そう、こんな風に語っていたのだったか。
更に手繰りかけた記憶の糸を手放し、代わりに英雄殿に毛布を被せて視界から消す。今は視たくもない淡い色には全く効果がないが、それでも。
何度目かの溜め息をついて、引っ提げたままだった酒瓶と適当なグラスを拝借して窓際の椅子に腰掛ける。
油断すれば隙間から溢れかけている、壊れかけの器に密着したせいだろう。体のあちこちにひりつき痺れる感覚が残っていて不愉快だ。こんなものはさっさと飲んで薄めるに限る。
指先を軽く振って瓶のコルクを抜くと、さあっと芳しい葡萄の薫りと強い酒精の気配が喉奥に残っていた遠い日の名残りを押し流していく。グラスに注ぐと更に強く香り、存外この瓶が上等な品だと教えてくれた。英雄殿の間抜けな寝顔が驚愕に染まるまで、共に永い夜を過ごす供としては申し分ないだろう。