Shall We A Brew, Dear?

※暁月、及びオメガ番外編のネタバレがあります。

とこしえの時を経てもなお、楽園への回帰を求めて郷愁を謳い続けていた声が止んだ。たっぷりと湛えていた揺り籠の中身がかの来訪者によって星海に導かれるのを見守り、ふと何かが足りないことに気付く。

少し考えて自覚したそれは終ぞ涸れることがなかった、同胞たちの声たちだ。なくなって初めて、月とは静かな場所なのだと知るなんて。再現体の奥底にも響く歌は存外、佳き隣人になっていたのかもしれない。

最近はその空白を埋めるように、微睡む時間が増えた気がする。うつらうつら。船を漕いでいるといつかの記憶を夢に見る。
「やっぱり! ここにいたのね」

彼がまだアカデミアの職員であった頃のある日、アカデミアの書架の間で愛しい探求の旅に耽っていた彼の前にひょっこりとその人は姿を現した。黒いローブのフードには収まりきらない豊かな白銀の髪と、役目を帯びた者にのみ許される仮面。本来なら敬意をもってその座の名で呼ぶべき人へ、彼はあえて懐かしい名で語りかける。
「よく来たね、ヴェーネス」

呼ばれる機会が減って久しい真の名を彼がわざと使うと、来訪者──ヴェーネスはにこりと心底嬉しそうに微笑み、手に持っていた小包みを掲げてみせた。カサカサと揺れるその中身は彼らにとっての日常であり、かけがえのないものの象徴と言える。
「美味しいお茶もありますよ」

ヴェーネスの言葉の意味するところを得た彼は、くすりと一つ微笑む。何度目か数えることすら止めた合図で以てどちらともなく二人は本棚の間から抜け出し──途中、ヴェーネスは目についたイデアの結晶を引き抜いていた──、彼に与えられた研究室へと歩いていく。歩幅も歩き方も異なる二人だが不思議と歩調は合っていたことを彼は密かに好ましく思っていたのだった。
「つい先日までは北の雪原にいたと聞いたのに、もう戻ってきたのかい?」
「実は旅の途中でとても面白いものを見つけたのです。それで居ても立ってもいられなくって!」
「貴殿にそこまで言わせるなんて……一体何を見つけたのだろう。エーテルの本質の手がかり? それとも星の心核への道?」
「ふふ、それも見つけられたら素敵でしょうね」

丁度振り返った今のように、彼女が眉尻をゆるやかに下げて笑む時、彼は言葉にし難い喜びと同時に出処の分からない寂しさを感じていた。それは離れていた間、溜め込んだ知識の奔流で互いを洗い流す途中にすら、時折どこかへ想いを馳せるように遠くへ向けるやさしい眼差しに似ている。
「きっと、世界中に満ちる未知と同じくらい素敵なものですよ」

タン、タン、とご機嫌なステップで一歩先に出て、彼を導くように遊び歩くヴェーネスのローブの裾が波のようになびく。

世界を駆け回る彼女はたおやかな見た目からは想像出来ないほど、しかして帯びた役目には相応しくあらゆる武芸に達者だ。今の体捌きもその片鱗といえる。彼女が彼の友人であり共に世界の理を探求する学者仲間であるヴェーネスである限り、アゼムという座を戴かなくとも星を歩み続ける。

私たちにとって母星アーテリスは師そのもの。歩む道も、ふれる空気も、出会う未知も何もかもから学んで血肉とする。そうして長い間、私たちは世界の答えへ至る道を探していたのだ。

イデアのクリスタルを抱えて跳ねるヴェーネスを追っていく廊下の途中、差し掛かった窓の前で立ち止まった彼女につられて外の空を見上げると、一等輝く星が瞬いていた。

強い星の眩しさに思わず目を閉じて次に目蓋を上げると、随分長い時間を過ごした青き館を背景にあの時と同じくらい、否、少しばかり暗いものの確かな灯が私を見上げている。用事があって来ただろうに、微睡む私を起こすまいと静かに待っていたのだろうやさしい客人は私の覚醒に気付いて人懐っこい笑みを向けてくれた。
「すまない、少し眠っていたようだ……ようこそ、貴殿のお陰か懐かしい夢を見た」

こてん、と首を傾げつつも、何かに納得したように来訪者は頷く。時折、館を訪れては懐かしい時代の話をする私たちの間には、オリジナルの彼とハイデリンとなる前のヴェーネスのような親しみが生まれていた。

好奇心旺盛な星の英雄は私の発した言葉の端にも気になることがあったのか、〈懐かしい夢〉とはどんなものを見たのかと問うてくる。
「夢の話? ああ、アニドラスへ務めていた頃、ヴェーネスが訪ねてきた時の記憶だ」

ヴェーネス、という名にキラリと目が輝く。英雄殿は夢の内容を聞かせてほしい、とたちまち座り込んで聞く体勢に入ってしまった。私たちが待っていた時間を思えばまたたきほどの間しか共に過ごしていなくても、一度言い出したら利かないこの人の〈悪癖〉が出てきていることが分かる。
「貴殿の冒険譚と比べれば些か刺激に欠けるかもしれないが……それでも良ければ」

素早く首を縦に振る来訪者にふと笑みがこぼれた。きっと物語は一つきりで終わることはないだろう。なら、懐かしい夢になぞらえてみるのも良い。
「とっておきのおやつとお茶を用意しよう。きっと貴殿も気に入るはずだ」