ある冒険者と碧い石

参った。

天気が良ければ気分も良くなって気まぐれに横道へ入ったら最後、行き先も来た道も見失うほどの深緑に囲まれてしまったらしい。一挙手一投足、体力と気力が削られる感覚。ギルドに名前を登録したての新人でもあるまいに随分と初歩的なミスをしてしまったものだ。

参った。

顎を伝う汗は疲労からくるものか、それとも冷や汗なのかも分からない。とにかく心身共に追い詰められていることは確かだ。こんなことならやたらときれいな声の吟遊詩人の言うことを聞いて、森に入るのを一日待てばよかった。嗚呼、と空を仰げば木々の合間から差し込む陽光に色がつき始めている。このまま人里に出会えず夜になれば、森育ちでもなければ大して腕が立つわけでもない一介の冒険者なんて明日の朝日を拝める保証はない。

本当に参った。
「ん?」

自分の足音の他には森とここに住む者たちの息遣い以外の音はしばらく聞こえていなかったからか、微かに鉄の擦れる音がした気がする。気のせいか、と目を閉じて息を潜めて辺りに気を巡らせるともう一度確かに鉄同士がふれあう、よく親しんだ音が聞こえた。もしかして人里が近くにあるのだろうか。藁をも縋る想いで木々や林を越えて駆けていく。

自分の背丈より高い草地を抜けると夕陽が目に飛び込んできて、あまりにも強烈な光に視界が一瞬で焼かれた。どうやら拓けた場所に出られたらしい。思わず閉じた目蓋を恐るおそる薄く開くと、イシュガルド風の外灯と看板、そして木造の小屋がある小さな広場に出ていた。
「おや、冒険者かな? 珍しいね、こんなところまで」

まさか声をかけられるとは思っていなくて肩が大袈裟に跳ねる。少し頬が熱くなるのを感じながら声が来た小屋の方向を見ると、くつくつと噛みしめるように笑う男がいた。手には彫金師が遣う道具が握られている。どうやら鉄の音はこの人の作業音だったようだ。
「ごめん、まさかそんなに驚くとは……ふふ、あんまり人が来ないものだからつい話しかけてしまった」
「いえ、こちらこそ……?」

窓際から声をかけたらしい男は話しながら外へ出て来る。一瞬、頭から爪先まで視線が走ったかと思えば、何かを察したように一つ頷いてまた一層楽しそうに笑っていた。
「見たところ、森で迷ったのかな。街の近くまで送っていこうか」
「本当ですか!?」

男は人好きのする柔和な笑みで頷いてくれた。良い人に出会えたようでよかった。
「さあ、疲れているだろう? 少し休んでから出発しよう」

広場の中でも小屋の近くに置かれたベンチを勧めてくれた彼の好意に甘えて、敷地内に足を踏み入れる。すると、森に入ってからざわついていた耳元がすっと静かに落ち着いたような心地がした。人に会えて助かる可能性を掴めたことへの安堵だろうか。

ベンチに腰を落ち着けて、改めて周りを観察する。軒先には小屋と似た色の木で作られた棚や箱がずらりと置かれていて、そのどれもに所狭しと物と値段の書かれた札が並べられていた。
「お店、ですか?」
「そう、雑貨屋。たまにしか開けないけどね。本職が、まあ……別にあるから」

外灯の近くに置かれていた看板を下げてきた男に声をかけると答えは得たものの、少し引っかかる物言いで返ってきた。冒険者になって見えるようになった深煎りしてはいけない線の前で踏み止まる。人にはそれぞれ事情があるものだ。
「元は木こり小屋だったものを借り受けていてね。辺鄙な場所だし、本業も忙しいから普段はここにいないんだ」

そこまで言い残して男は小屋の中に引っ込んでしまった、再び視線を戻した店先に並ぶ物はとりわけ武具が多いが、植物や鉱石、本など、ありとあらゆるものが乱雑に置かれていた。少なくとも自分の知る中で『雑貨屋』という言葉が一番似合う店構えだと言える。そういえば別に本業があると言っていたが、一体何をしているのだろう。店の品揃えの雑多加減から見ると商人か好事家、あるいは冒険者だったりして。
「今日迷い込んだ君は運が良い。きっとどこで迷子になってしまっても帰りつける、イイ冒険者になれるよ」

耳が熱くなるのを感じながら男を見遣るとその人はくつくつ、いたずらっぽく笑っていた。少し、いや、かなりお茶目な人なのかもしれない。

湯気の上がるマグカップを持たせてくれた手を見送ると、手の甲には年輪のような皺に切り傷や火傷痕のようなものが混じっていた。あたたかいお茶をすすりながら、よくよく男を観察していると身のこなしもどうやら素人のそれではなさそうな気がする。もしかしたら過去には戦場に立つ人だったのかもしれない、と考えたところで冒険譚や英雄譚の読み過ぎだなと自分の子ども心を窘めた。
「気になる物があった?」

出かける仕度をしてくれている背中をぼうっと見ていたら、視線に気付いたのか気を遣ってなのか男は声をかけてくれた。

あなたを見ていましたなんて言えるはずなくて、咄嗟に男の周りで何か話題を探す。すると、戸棚の上でキラリと光る碧い石が目に入った。
「あ、いや、きれいだなって……」

指さした先にあった石を認めた男はまるで旧友と再会した時のように目尻に皺を溜めて、石とそれが載っていた布を手にこちらへ近付いてきてくれた。
「遠い国で採掘した、エーテルをたくさん含んでいる石だ」

男が持たせてくれた石は、手のひらにすっぽり収めることが出来るくらいの大きさだというのにずっしりと重さがある。エーテルを多分に含むからか、まるでクリスタルのような、しかし今まで見たことのないほど澄んだ碧が夕陽の残照を得て水底のような揺らぎを見せていた。
「気に入ったなら差し上げよう」
「え?」
「勿論、君の迷惑にならなければ……どうかな?」
「迷惑だなんて! ただ、あまりお金がなくて……」
「差し上げる、と言っただろう? お代は要らないよ」

参った、怪しすぎる。

よく考えてみれば違和感しかない状況だ。迷い込んだ森で都合良く出会った男がただの冒険者でしかない自分にお茶まで出して、おまけに売り物を無償でくれるだなんておかしい。危機的な状況こそ冒険者は冷静でいるべきだというのに、思わず怪訝な表情を出してしまった。

すると、男は何かを思い出した風に「あっ」と口を手で覆って、今度は恥ずかしげにはにかんで見せる。疑った手前ながら悪い人ではなさそうなのだが、信じるにはどうにも怪しい点が多過ぎる。この人は一体何者だ。
「ふふ、獲って喰おうなんてしないよ。そうか、君もン・モゥと同じクチ……いや、普通は怪しむか……」

ぶつぶつ、と何かを確認するように呟きながら手を顎に添えて考える仕草を見せた男は思いついた、と人差し指を立てた。
「じゃあ、お代として一つお願いを聞いてもらおうか。私にとっては余程お金より価値があることだ」
「……何でしょう?」

武器は背に、鼻の良い動物にも効く煙玉は右足のポケット。何を言われても、何が起こってもすぐに逃げ出せるように平静を装って集中力をじりじりと高めていく。
「街に着くまで、君の旅の話を聞かせてほしいな」

強敵を前に命の危機を感じた時と同じくらい張り詰めていた集中力は、男の言葉でふつりと途切れた。否、言葉だけではない。手に刻まれた年輪は幻覚だったのかと疑うほど、ただ好奇心のために生きている人の顔を見せてくれたから。

この人はきっと冒険者だ。過去ではなく今も旅に生きている。未知への興味の強さだけで、渦巻いていた疑いなんて不要だったのだと分からされる。
「……駄目かな?」

いつまでも目を丸くしたまま答えないでいると、男が心配そうに覗き込んでくる。ついさっきまで疑っていたことへの謝罪を込めて、自分なりに精一杯の笑顔を見せた。
「短くはない旅です。途中になっても良ければ」

参った。

年甲斐もなく嬉しそうな男には今までの旅の思い出すべてを語り聞かせても良いと思えた。きっと楽しい話も九死に一生を得た戦の話も、別れの話もこの人ならまるで旅路を共にした仲間のように聞いてくれる予感がある。何より、残光に照らされて揺らぐ碧い石のように、表情が少しずつ変わり続ける男は見ていて楽しい。

森の深奥、もはやこれまでかと諦めかけた次の瞬間にはこんな出会いがあるから。

本当に参った。旅を辞められる気がしない。