昔日

ラヴィリンソスの夜にしばらく前の喧騒は痕すら見えない。

かの英雄たちの活躍により星の大整理が中止されたアーテリスの標本はひっそりと静まり返っていた。ここで働く職員たちは文字通り昼夜問わず、休みなく役目に邁進していた反動でその大半の者たちが長い休暇を取っており、リトル・シャーレアンを始めとした地下の街に人影は少ない。残っているのは趣味の研究に勤しむ者、あるいは仕事場を離れることが苦痛だという例外ばかり。時折諸々の後始末のために地下を歩き回るグリーナーたちの苦々しい、しかしどこか安心したような視線にも負けず誰もがある意味で羽根を伸ばしていた。

アポリア本部にいるクローディエンも街を出なかった例外の一人だ。星の存亡を巡る戦い──ではなく、その後に巻き起こった古の時代から続く記憶と縁の物語の渦中に彼はいたのだ。

そして今、取り戻した平穏の中でクローディエンは粛々と今回の騒動で得た知見を取りまとめつつ、優秀な助手たちの揃えた報告書に目を通している。時に大胆なアレンジを加えられたそれは最早報告書と呼ぶよりは脚本や英雄譚に近くなっており、それがどうにも微笑ましくクローディエンの頬をゆるませていた。
「楽しそうですね」

二人の助手も帰り、一人きりだと思っていた室内にクローディエン以外の声が滑り込んでくる。不思議と驚かなかった彼が報告書から目を上げて、上層からの出入口を見遣るとそこには脚本の中で大立ち回りを演じていた英雄その人がいた。
「ええ、それはもう。だって、私の憧れの存在の記録ですから」

クローディエンの素直な言葉に英雄──今は一介の冒険者を名乗っているその人はバツ悪そうに頬を掻きながら、報告書に埋められた机の近くまで歩み寄ってくる。
「似たことを言う人に今さっき会ったんだけど……知人に赤毛の賢人がいたりします?」
「赤毛の、ですか……?」

人の往来が多く、またクローディエンが星海研究の第一人者ということが相まって日常的に来客があるためか、彼は流れるような仕草で真夜中の訪問者に椅子とコーヒーを勧めた。一言礼を述べた冒険者は素直に腰を下ろし、助手の名前が小さく書かれたマグを受け取る。

コーヒーを挟みながら繰り出されるクローディエンの質問は少し前の騒動の最中ではとても出来なかったような些細なものから些か立ち入ったもので、冒険者は地獄を巡る冒険を経て得た彼からのやわらかな親しみを感じていた。例えば今日は何処に行っていたのか、ラストスタンドのお気に入りメニューは何か、戦いの術はどうやって身につけたのか、星海の底の空気や匂いはどういったものなのか。
「貴方たちに救っていただいてからずっと……エリクトニオスのことを考えていました」

ふつり、会話が途切れた後。クローディエンがこぼしたのは冒険者の友人の名だった。少しぬるくなったコーヒーで唇を濡らした冒険者はクローディエンの次の言葉を待つ。胸中を明かす言葉を選び取ろうとしている気配を感じたからだ。

クローディエンにとって、エリクトニオスは遠い存在ではない。ゆっくりと言葉を交わすことこそ叶わなかったが、ひとときでも通じ合った二人の間でしか分かりえないことがあるのだろうと冒険者はぼんやりとした実感を持っていた。
「私は彼ではない、それは承知の上で……彼のように、役目や職務に真摯でいる人と縁があることを嬉しいと思うのです」

クローディエンはコーヒーを見つめる。水鏡を通して彼方の時を生きた彼と目を合わせるように。
「連綿と繋げられてきた歴史の先に在ることがこんなにドキドキするなんて……!」

助手を抱える研究者らしい落ち着きは徐々に薄れ、爛々と瞳を輝かせるクローディエンはまるで未知を前にした子どものようだった。

ああ、確かに二人は同じ根を持つ人たちなのだ。

短く、しかし忘れられない冒険を共にした遠い時代の友人を冒険者は想う。鮮明に思い出せる姿の彼は父親譲りの厳しい表情を崩し、豪快に笑って赤銅色の髪が揺らしていた。勿論、その傍らには白い衣をまとった永い長い因縁の人がいたずらっぽく微笑んでいた。さあ、次は何をするんだい?と問いかけるような眼差しは冒険者と、その向こうにいる友人へのあたたかい信頼だ。
「私も……古代の、自分の起源になった人の知人と会ったことがあります」

鮮やかな色彩と穏やかな空気、しかしどこか背中がむずつく居心地の懐かしい時代に出会い直した人々の背中が冒険者の脳裏に浮かんでいた。
「本当の名前も顔も私は知りません。でもその人を知る人なら誰でも私とその人とに関係があると感じ取る。それくらい近くて、遠い人」

冒険者自身はあの人本人に直接対面することは叶わなかったが、友と師が折々に語るかの星への想いを聞けば自ずと分かる。きっとクローディエンがエリクトニオスへ抱く気持ちと、冒険者があの人へ向ける想いはきっと同種のものだろう。
「その人も旅人だったんです。だから、魂の根源が同じ自分も旅をしているのかなって思うこともあったけれど、私は私の意志で旅に身を置いている……あなたが星海を研究することと同じように」

もしかしたら決まった道筋を歩いているだけなのかもしれない、と不安に思う瞬間もあった。だが、自身が紡いだ足跡が、出会った人たちの言葉や祈りがその仮定を反証する。ヒトは既に自らの力で歩き始めていることを冒険者は知っていた。
「だからこそ前を向いて、胸を張っていようと思うんです。私は自分の未知を踏破してみせる、それが今の私です」
「……憧れていても道は違う、ということですね」

雲間から月が顔を出したのだろう。部屋の中が薄い光で少し明るさを取り戻した。
「ありがとう、やはり貴方に記憶のクリスタルのことをご相談して良かった」

いくつもの意味を込めて丁寧に礼を示したクローディエンも、首肯で応えた冒険者の表情も薄い月明かりで分かるほど晴れやかだ。
「じゃあ、そろそろ行きます。コーヒーありがとう」
「こちらこそ、私ばかりが楽しんでしまったかもしれませんね」

すっかり空になったマグカップをクローディエンに返した冒険者はまた笑みを深くして、今度はゆるりと首を横に振って応えた。
「また来ます」

その言葉を待っていたように、外から羽ばたきの音が響いた。手を振って駆け出した冒険者の背中を追って外に出たクローディエンが見たのは、美しい濡羽色の鳥に飛び乗る英雄の背中だ。凄まじい速さで飛び去る影はそのまま月へ昇ってしまいそうなほど高く、高く飛んでいった。