砂舞い上げる比翼

分厚い生地と軽くて硬い鎧、身につけた術技のすべてを預ける武器。私の肌に馴染むのは冷たく、そして一つ一つに想い入れのある戦装束だ。今日はサベネアで得た装備を着てきた。通気性が良く、だが厚い生地がじりじりと照りつけるウルダハの太陽からも肌を護ってくれる。

不満はない、愛着もあれば好ましいとも思っている。でも、街に来ると目に留まるのは真逆なものなのは何故だろう。
「おい、置いていくぞ」

呼び込みの声が轟々と響くウルダハの商店街の最中でも、前を歩くエスティニアンの声は狙いすましたかのように耳に飛び込んでくる。つい引き寄せられていた視線をショーケースから彼の背中に戻し、目的地へと歩き出した。少しだけ大股で踏み出して肩を並べた相棒をちらりと見上げると、流石の暑さに参っているのかこめかみから伝う汗を拭うこともせず、ふっつりと黙り込んだまま前を見据えてただ足を動かしている。そういえば、この人は寒い国で育った人だった。鎧こそ着込んでいない軽装ではあるものの、熱中症で倒れたりしないか心配になってきた。
「……人の顔を見て黙り込むな」
「みっ」

ぼうっとエスティニアンの頬を伝う汗を眺めていたら、思い切り鼻を摘まれてしまった。花も恥らう乙女の顔を何と心得るか、なんて言ったところで聞く人ではないけれど抗議の気持ちを込めてベチべチと指を叩くとすぐに離してくれた。大きな手は折角整えた髪をぐしゃぐしゃにするおまけ付きではあったが。

霊峰を目指した旅の最中から今に至るまで、いつまでも子ども扱いしてくるこの人を私は何故か憎めないでいる。その理由はきっと彼の槍が、技がよく知っているのだろう。

さて、じゃれている間に今日の目的地──不滅隊本部に辿り着いた私たちは、ひとまず受付に向かおうと冒険者や隊士たちで賑わう広間を擦り抜けて行く。

今日、エスティニアンとウルダハを訪れたのは不滅隊からの要請があってのことだった。暁の血盟の中でも特に手練をと連絡が入り、暇そうにしていたエスティニアンを引っ張って来たのだ。
「暁の血盟の皆様ですね。お待ちしておりました」

今度は落ち着いた男性の声に呼びかけられ、その方向へ顔を向けると不滅隊隊士が駆け寄って来るところだった。何度か戦場で見たことのある気がする顔だったが、名前までは思い出せなかった。相手も敬礼はしてくれたものの特に名乗ることはせず、奥の部屋へ私たちを案内してくれる。
「この度は極秘任務をご依頼させていただきたく、暁の血盟の皆様にご足労いただきました」

部屋に通されて席につくなり、隊士は口火を切った。外での落ち着きはどこへいったのか、疲れと憔悴を隠さずに彼は私たちの目の前に一枚の紙を差し出す。
「内容はとある地下組織への潜入捜査です」
「潜入……暁への依頼ということは、アシエン関連ですか?」
「お察しの通り。本件にはアシエン……いえ、テロフォロイが関与している可能性があります」

テロフォロイ。

旧い時代の記憶を持ちながら、救世ではなく世界の終焉を望むアシエン・ファダニエル、そして今は彼と共にいるゼノスの一派だ。ただ自分が死ぬために世界をも巻き込もうとするファダニエルなら、各地に現れた終末の塔だけでなく、他の手段を講じていてもおかしくはない。

その一つと目されているのが今回の潜入先だそうだ。

説明を聞きながらエスティニアンが書類を手に取り、さっと視線を走らせる。が、すぐに横に座っていた私に押し付けてきた。概要だけは把握するあたり、この人にも一応規律を守る軍人らしい気質は染みついているらしい。ただ、読むならしっかり読み込んでほしいな、と溜め息を薄くついてから受け取った書面に目を落とす。

まず記述されていたのはウルダハに以前から存在していた地下組織の概要、そしてかなり広い建物の見取り図だ。富裕層を主とした完全会員制、招待制の所謂高級クラブであるその組織は、時折非合法スレスレの危うい橋を渡るだけの怪しい夜会を催す団体でしかなかった。
「この程度の組織はサゴリー砂漠の砂ほどのもの。差し当たっては無害、と判じて処分保留としていました」

だが、砂のひと粒と目されていたそれがある時を境に蜃気楼の城と変じたのだ。つい最近その夜会に出席していると思わしき人が次々と姿を消しはじめ、今日に至るまで両手足では足りないほどの人が砂に飲み込まれているらしい。
「異変は丁度、例の塔の出現時期と重なります。さらに重大な手がかりとして……一名だけ、砂塵の向こうから帰り仰せた御仁がいるのです」
「なら、そいつから情報でも何でも聞き出せば良いだろう」

それまで静かに話を聞いていたエスティニアンがふん、と鼻を鳴らして口を挟んできた。だが、テロフォロイが関係している可能性を最初に提示されているからこそ辿り着ける、一つの答えがある。
「聞き出せる状態ではなかった。そうですね?」
「はい。所謂テンパード状態……ガレマール帝国を讃える譫言を繰り返しています」

ふん、とまた鼻を鳴らしたエスティニアンを盗み見ると、さっきよりも自然に鋭さが乗っていた。義憤に駆られる質ではないが、抗えない力によって虚ろに堕とされる恐怖、しかしそれを恐怖と感じ得ない人たちに思うところがあるのだろう。

今更になってもしもの可能性が乗った雲廊の風を頬に感じて、つい袖を引く。彼はこちらを見ないが、指先をほんのひとときだけ握ってから私の手から攫った紙を隊士の前に戻した。
「組織の拠点と目されている場所は複数あり、その内の一つ……最も大きな会場へ潜入していただきます」
「だが、俺たちが潜入したとしてだ。そのまま潰せば解決するような話でもないだろう」
「ええ。お二人の任務は三つ」

一つ。組織に潜入し、テロフォロイとの関与を検めること。

二つ。関与が認められた場合、速やかにアシエンやその関係者を捕縛すること。 
 三つ。テンパードとなった人々を回収し、ポークシーによる治療をすること。
「同盟としてもテンパード治療は急務。暁の皆様にとっても検体はあればあるほど喜ばしいことでしょう、不謹慎ですがね」

つらつらと流砂のように言葉を紡ぐ隊士がふと目を伏せ、改めて人の良さそうな笑みを浮かべる。底の見えない人だが部屋に入ってからの疲れようといい、何か引っかかった物言いだ。これまでの旅で積んだ経験から考えると、こういう手合いは真っ直ぐに突っ込んでいくに限る。
「……あの、何か言いづらいことでもありますか? 私か彼が外せばお話していただけますか?」

やはりぎょっと驚きの顔を見せた隊士はすぐに取り繕おうとしたが、そこは蒼の竜騎士が通さない。視線だけで物を言うのなら右に出る者はいない、そんな人に睨まれて平然としていられるはずがない。掌で目を覆った彼の小さく、小さく「参ったな」と呟いた言葉が私たちの間を隔てる机の上に転がった。

一呼吸置いて、彼の瞳がまた見えた時には笑みは消え、眼差しは揺らいでいた。
「……弟が地下から帰ってきません。どうか、あいつを助けてやってほしい」

不滅隊からの依頼であることに間違いはない。だが、彼にとっては別の意味が乗っている。真面目な人なのだろう、もっと早く言ってくれれば良かったのに。

深く頭を下げた彼に私とエスティニアンは顔を見合わせ、眼尻がゆるめられた笑みに想いが同じことを悟る。
「委細承知しました。エスティニアン」
「ここまで来て帰る、とは言えんだろう……まあ、荒事には慣れているからな」
「ありがとうございます。この御恩は、必ず報いましょう」

見せてくれた顔をまた深く深く下げた彼を元に戻すことには苦心したが、解決への糸口が見えたことに少し安心したのか疲れ顔に明るさが射した。

いよいよ作戦会議を、と身を乗り出したところでバン!と扉が景気良く開く。
「というわけで、お着替えの時間でっす!」
「……は?」

色とりどりの布やパーツ、小物類がこれでもかと詰め込まれた大きな籠を抱えた商人たちを従え、我らが暁の受付嬢タタルが雄々しく入場してきた。状況が飲み込めず、思わず隊士を見ると「共有されていないのか?」とでも言いたげな絶妙な表情をしていた。

何も言えずにいる私たちを尻目にいそいそと準備を進めるタタルに恐々近寄ると、にこにこと満面の笑みを見せてくれる。普段なら和むのだが今日ばかりは恐怖が勝る笑顔に、エスティニアンがやっとの思いで問いを投げかける。
「おい、なんだこの布の量は。服屋でも始めるのか?」
「半分正解でっすね。今日の私はお二人専属の裁縫師でっす」

ふふん、と楽しそうなタタルにどうにも私たちは状況が飲み込めず首を捻るばかりだ。
「夜会にはドレスコードがありますので、今お召しの戦装束ではちょっと……」
「だからって……その、こんな高級そうな……うわ、サベネアンシルクがあんなに」
「勿論、衣装代はエオルゼア同盟軍が受け持たせていただきますのでご心配なく」

この流れは知っている。退路が完全になくなっていて、今更断れない話の流れだ。勿論、冒険者として依頼を断ることはしないが、これは絶対に着替えを避けられない。

だが、散々追いかけ回されていて知っているだろうに、エスティニアンは諦めきれないようだ。側に置いていた槍を引っ掴んで商人たちでぎゅうぎゅうになっている出入口を避け、窓へ歩を進めていく。
「ちょっと、エスティニアン! 置いて行かないでよ!」
「……俺は会場の外で待つ。合図があったら突入する、お前なら大丈夫だ」
「そ、れはそうだけども! 薄情者!」
「英雄殿、エスティニアン殿。夜会は二人一組という決まりだそうです」

追い討ちというのは交渉の場でも生じるらしい。諦めの悪い大きなお子様の背中に投げかけられた隊士の言葉はエスティニアンの後ろ髪を掴んで離さないどころか、自主的に席へ戻らせるに十分な力を持っていた。
「…………エスティニアン、諦めよう……」
「……チッ」

パーテーションの向こうから黄色い歓声がわっと上がる。何事かと思って覗いてみると、先に衣装に着替えたエスティニアンが出てきたところらしい。シャーレアン様式だというロングコートは、大きな白い襟飾りと歩く度にひらりひらりと揺らぐセンターパートが印象的だ。スラリとした手足が、締まった体がよく映えるスマートなシルエットに仕上がっている。やっぱり、エスティニアンは何を着ても様になるからずるい。

エレゼンらしい長身に日頃からストイックに鍛え上げられた身躯。おまけに涼し気な目元に只者ではない空気をまとった武人が着飾れば振り返らない人はレポリット一人としていない。『ただし黙っていれば』と付け足す必要があるだろうが、それを差し引いても戦場で生きるために、そして人の群れの中で生きるために恵まれすぎていると言える。半分くらいは身内の欲目だろうけれど、あの人と一緒に歩いていると普段とは異なる種類の視線を感じることも事実だ。

それに比べて私はどうだ。

パーテーションの奥に引っ込んで、鏡に向き直る。タタルさんから手渡された彼女が考える最高の衣装候補たちを体に当てても、溜め息ばかりが出ていってしまう。どれもこれも素材からデザイン、縫製にもこだわりを感じる素敵な一着ばかりだ。マーケットでつい目を奪われて足を止めてしまったドレスもこんな着心地なのだろうか、とつい想像してしまう。まさに今、憧れを手にしているのに。私は持たされた全てのドレスをカゴに置き直した。

一等好きだと感じたドレスは私には似合わない。背中と腕が大きく開いていては傷を隠すことが出来ないのだ。

旅の中で得た勲章があちこちに、否、ほぼ全身に残る体は冒険者としては誇らしく思えるものだとしても、街で生きる血煙から縁遠い人々にとっては、余程の好事家でない限り女性としての魅力を感じ得ない。勿論、後ろめたさも後悔も恥ずかしさもない。だが、今回の依頼内容には相応しくないのは明白だ。依頼達成のためにあの気高い武人の隣りに立つのは、戦場に染まりきって硝煙のにおいが色濃い自分よりも可憐なお嬢さんの方が向いているに違いない。

だが、さっきはエスティニアンの逃げ道を奪った手前、自分がごねる訳にもいかず。かといって、ドレスを選ぶわけにもいかない。どうしたものかと素敵なドレスを睨みつけて考え込んでいると、コツコツとパーテーションの向こうからノックの音が届けられた。
「おい、選んだのか」
「まだ」
「早くしろ」
「少しくらい悩ませてよ」

端的。

簡潔。

清々しいほど最低限に削がれた言葉の応酬のどこに違和感を感じたのだろう。ぬっと顔を出したエスティニアンは戦装束のままの私を見て、眉間の皺を深くした。
「……何が不服だ」

自分の方が余程不服そうな態度でいるくせに。パーティションに腕組みした体を寄りかからせて、彼は問いかけてくる。この構えはちゃんと自分が納得するまで動かない時のものだ。こういう時ばかり他人の気持ちの機微に聡くて困る。
「不服だなんて。ドレスはすっごく素敵だよ、勿体ないくらい」

嘘はついていない。本当に塗り固められた言葉を聞いても、エスティニアンはお得意の溜め息をついた。それはもう雲海よりも深く、呆れと何かを混ぜて。
「……それで全部か?」
「ドレス? そうだけど……何、ちょっと。まだ着替えてないんだから入ってこないで」
「お前が選ばないなら俺が選ぶ」
「は?」

持ち前の足の長さを最大限活用して、さっさとドレスが盛られたカゴの前まで来ると、存外丁寧にドレスを一つ一つ持ち上げては検分し始めた。私の抗議なんて聞く耳を持たれるはずもなく、とうとう全てのドレスを見終わった彼は宝の山から一着だけ引っ張り出して私に押し付けてくる。勿論、受け取らないという選択肢なんて初めから存在しなかった。
「これにしろ」
「本当に強引だな、君って人は」
「お前はそれくらいが良いだろう?」

言い返そうと口を開く頃にはもうパーティションの向こうに姿を消してしまっていて、遣り場のない妙な感情がぐるぐると胸の内側を吹き荒らす。勝手な人だと分かっていたけれど、もたついた自分も悪いけれど。
「早く着替えてこいよ。タタルが待ちくたびれる」
「分かってます!!」

さっきの意趣返しなのか、ご丁寧に追い討ちまでかけてくる始末。本当に強引な人だ。こんなことなら手慣れているサンクレッドか、人の間を繋ぐのが上手いグ・ラハを連れてくれば良かった。そうすればきっとこんな惨めな気持ちにも、浮足立つような落ち着かなさも感じずに済んだのに。

はあ、と誰かさんに似たウィッチドロップよりも深い溜め息をついて、押し付けられたドレスを改めて広げてみることにした。

夜闇で染め抜かれたように艷やかな黒いロングドレスだ。術師が好みそうな軽くて適度に厚い生地は手ざわりが良く、深めのスリットが入っているから機動性も高い。ロングドレスだから脚こそしっかり隠れる、だが胸も背中も開いているしノースリーブだ。

堪らない気持ちをぶつけるように力いっぱいドレスを抱いて、鼻先を豊かな生地の間に埋める。なめらかな肌ざわりは上質な職人の手によるものだと教えてくれた。なんて、得難い。
「……酷い人」

熱砂の都といえど、夜は冷え込む。ドレスは寒いだろうから、とタタルが持たせてくれた上着を翻して、私たちは活気冷めやらぬウルダハの街を偵察がてら会場まで歩いていた。硝煙煙る戦場に相応しい戦装束ではなく、夜のウルダハに似合うきらびやかな衣装に身を包む私たちは、不滅隊本部へ向かっていた時とは何もかもが真逆で面白い。

結局、私はエスティニアンが押し付けてきた──もとい、選んでくれた黒いドレスを身につけている。髪もきれいに結わえ上げられ、彼と揃いのアクセサリーで飾り立てられて、正直ちょっと気分が良い。上着の下に隠れた傷さえ見えなければ、おめかししただけのただの町娘に見えるだろう。
「……君はどこからどう見ても堅気じゃないよね」
「妙なことを言っているなら置いていくぞ」

数歩前を歩くエスティニアンが振り向いては少し待ち、また歩いては少し待ちを繰り返している。いつもよりペースの早い歩調の原因は分かっている。後ろをついて歩きながら彼のゆるく結えられた髪と上等なコートの裾が揺れるの眺めていると、普段よりも細くて高いヒールの音だけではなく、あちこちからひそひそと声が聞こえてくるのだ。

大半は好奇心の黄色い声音。そしてたまに混じる怯えを含んだ声。そのどれもが私たちの正体に気付いていないから面白い。もしも彼がイシュガルド随一の槍の名手、山の都の英雄たる蒼の竜騎士だと知れば周囲は一体どんな風に反応するのだろう。

彼の正体を知る人が着飾った英雄を見たなら、きっと良い意味で印象が変わるだろう。彼に憧れる人から声をかけられたりして。案外面倒見の良い兄貴分の一面を知ったなら、世の中がもう放っておかないだろう。そしていつか運命の人を見つけて、家庭を持って、戦場に立つ以外の未来が来るかもしれない。本来は羊を追っていたような人なのだから、そんな穏やかな未来で笑っていられるのはとても素敵なことだ。
「おい、早く来い」

まだ足に馴染まない靴に苦戦する私に我慢の限界が来たエスティニアンに腕を引っ張られ、また一際目立つ格好になってしまった。
「目立っちゃってるよ、エスティニアン」
「言わせておけ」
「……そういえばさ。夜会って話だけれど、君は国にいた時、夜会や晩餐会に出たことがあるの?」

ほんの少しの気まずさに肩を揺らされて、舌が勝手に回りだす。余計なお喋りを好む人ではないし、自分も話題を持っているわけでもないのに。もしかして緊張しているのだろうか。潜入なんて初めてでもないのに、今更。
「まあな……こういう場は肩が凝って敵わん。こぞって出ていくアイメリクの気が知れん」
「ふふ、彼はそれも仕事だから。ねえ、終わったら手合わせでもしよう。肩こりには運動だよ」
「ふん、お前も槍を持つならいいぞ。ついでにあの赤いチビたちも呼んでやれ」

一度も振り返らない、しかしいつもと変わらない調子のエスティニアンに少し安心した。槍を背負っていない背中が広い。

憚らない好奇の視線と行き交う声たちに混じって歩く内、ようやく会場に辿り着いた。砂の都の豪商がその財を示すために建てる屋敷の中でもかなり小さな部類のそこで夜毎、怪しい集会が行われているのだという。外の熱気が嘘のように人の気配が感じられないが、実際に私たちの前にも二人連れが屋敷の前に立っている人に何かを手渡して中に入っていった。間違いはないらしい。
「行こう」
「ああ」

視線を合わせ、互いに一つ頷く。私たちの間はそれで良い。

だが、エスティニアンは腕を離してくれた代わりに無言で腕を差し出してくる。一瞬何のことか全く理解出来なかったが、腕を取れという意味らしい。本か何かで見た気がする遠い記憶を掘り起こし、めいっぱい気取って彼の腕に自分の腕を絡める。
「ふふ、騎士とお姫様みたい」
「これでも竜騎士なんでな。それに……」

スウ、と大きく息を吸ったエスティニアンに合わせて足を踏み出す。
「タタルたちの手で飾り立てられれば、誰だってお姫様になれるだろうよ」
「本当に、もう……失礼だな」
「本心だ」
「もし、ご両人。招待状はお持ちで?」

それはどういう意味か、と問おうとした瞬間に出入口の前に立っていた黒服のエレゼンに声をかけられて、すんでのところで声は音にならなかった。
「これか?」

いつも通り偉そうなまでに堂々としたエスティニアンが懐から偽造した招待状を取り出し、訝しげな視線を隠さない黒服に手渡す。検められている間に黒服をさり気なく観察していると、会員制クラブに格調高さを演出するためなのか、身にまとうスーツも装飾品もその辺ではとてもお目にかかれない上等なものだ。

文字を追う目線がようやく落ち着き、一度瞑目したその人はまるで別人かのように穏やかな笑みを口元に浮かべる。扉への道を遮っていた体を避けて、しなやかな仕草で奥を指し示した。
「ようこそおいでくださいました、奥へどうぞ」

にこり、ときれいすぎる笑顔に見送られて私たちは屋敷へ足を踏み入れる。

大抵、どんな大きさであれ屋敷に入ってすぐはエントランスホールやそれに類する広間があるものだ。だが、この屋敷のエントランスは小さな屋敷にしても随分と狭い。代わりに扉が一つ、大きな口を開けて地下へ繋がる階段がその奥に待ち受けている。どうやら提供された見取り図の通りらしい。

私たちの直前に入っていった二人組の姿は既になく、もう奥へ進んでいったようだ。ここに留まっている意味もないし、早く行こう、と周囲の気配を探っていたエスティニアンの腕を引く。

コツコツ、カツカツ。重さの違う二人分の靴音が反響する。
「ここまでは苦戦しないね、当たり前だけれど」
「それほど中の守りが堅いということだろうな」
「なるほど」

階段を一つ一つ降りるごと、人の声と気配が濃くなっていく。

かなり長い階段を降りきると、また大きな扉が待ち構えている。その向こうにはたくさんの人が蠢く気配。

エスティニアンが扉を押し開けると、屋敷の小ささには不釣り合いなほど広い空間が広がっていた。限られた経路、正体のしれない人の山、片手では数え切れない危険に囲まれているというのに、ここにはひりついた吐息一つ感じられない。それがあまりにも不気味だ。波紋が広がるような、ざわざわとした感覚が肌を撫でていった。思わず粟立つ肌を気取られたくなくて、まるで恋人が睦み合うようにエスティニアンの耳元に口を寄せる。背伸びしてもギリギリの高さだから、察した彼が少し屈んでくれて助かった。
「エスティニアン、ここからは二手に分かれよう。君を連れていたら寄ってくるものも来ないからね」
「……大丈夫か」
「私を誰だと思って?」

はあ、と盛大に溜め息をつくエスティニアンにくつくつと笑ってみせると、またもう一つおまけの溜め息をもらってしまった。
「……何か見つけたら突入する前に連絡しろ」
「勿論。じゃあ、私が飲み物を取りに行く体で離れるね。君も、気をつけて」

スルリ、と絡めていた腕ごと体を離して、豪勢な食事や塔のように積み上げられたグラスが用意されたテーブルへ一人で向かった。だけど、いつの間に肩に置かれていた大きな手と、絡めていた腕を外した瞬間に感じた風が吹き抜けるような寒さには、ほんの少しだけ振り向きそうになる。振り切るように、そして餌はここにいると誰かに示すように踵を高く鳴らして広間に踏み出す。

ラストダンスくらいは踊ってくれないかな、と今日の終わりを夢見て。

エスティニアンと分かれた後、ただ歩き回ると不審に思われるからたまに適当な人に声をかけて踊りつつ、地下とは思えないほどの広大な会場を一巡りした。かなり時間をかけて丁寧に見て回ったが、ここまで客や従業員の中に資料にまとめられていた失踪者と同じ特徴を持つ人は、不滅隊の彼の弟さんも含めて誰一人としていなかった。ついでに何故かエスティニアンの姿も見えない。これはなかなか骨が折れるかもしれない。

それにしても、会場を整えた者は相当なこだわりを持った人物なのだろう。この地下の会場はただ広いだけでなく華美になりすぎない程度に美術品で飾られ、この場に居ること自体に箔を付けようとしているのが見え隠れする。正直、豪商にありがちなギラギラとしたものよりは余程趣味が良い。

例に漏れず質の良い額に入れられた風景画の側で壁に背を預けると少しだけ息を整えられた。ついでに履き慣れない靴でいよいよ痛みだした足に軽くケアルとリジェネをかけておく。もし荒事になった時に足が傷んで後れを取るなんてことがないように。

ふ、と視線を上げて絵を眺めるとザルの祠を描いたもので驚いた。ウルダハの商人の多くは現世利益のナル神を取り立てて祀っていることが多いし、この屋敷にもナルの祠の絵が飾られている。ちゃんと双子神の祠の絵を合わせて飾っているところを見るとその信心深さに感心した。
「お嬢さん、よろしければ一曲いかがでしょう?」

しばらく壁の花を決め込んでやろうかと思っていた矢先に柔和な笑みを浮かべた、身なりの良いヒューランの青年がこちらに手を差し出してきていた。任務でなければ断っただろう、むしろ一生話すこともなかっただろう部類の男に一歩近づく。
「ええ、勿論ですわ」

まだ少しだけ痛みが残る足を踏み出して、男のなめらかな手を取る。ヒューランの中でもかなり甘い容貌に似合いのやわらかくて戦いを知らない手だ。身なりの良さに裏打ちされた男のエスコートは完璧で、不慣れなステップしか踏めない私をしっかりカバーして見せる手腕は流石の一言だった。
「……不躾なことを窺っても?」

曲ももうじきに佳境に差し掛かろうという時、男が少しだけ身を寄せて耳打ちしてくる。何とも言い難い寒気が背中をなぞっていくがここは我慢の時だ。もし手がかりでもなんでもない単純に不埒な輩だったら縛り上げて不滅隊に突き出してやろう。
「ええ、お答えするかはお約束出来ませんが……?」
「……その傷、過去に何か事故にでも遭われたのですか?」
「…………ええ、先の霊災で少し。でも、もう痛んだりはしませんのよ」

適当に適当を重ねたありふれた作り話をさも悲劇のように披露すると、男もまた心底悲しそうな顔を見せた。なるほど、負けず劣らずの演技派らしい。
「おお、痛みがないのであれば良かった! あなたのような可憐な方にそのような傷があるなんて、痛ましいことこの上ない……見ているだけで胸が酷く痛みます」
「まあ、私ったら見苦しいものを……大変失礼しました。ご不快でしたら、すぐに何処かへ」

慣れない演技と言葉遣いにむず痒さが限界を迎えそうで、堪える口元を隠すためにさっと顔を伏せて、上品に手で顔の半分を隠す。これでバレてしまったらグ・ラハのことを笑えない。
「ああ、ああ、申し訳ない! そういった意図はなかったのです……そう、その傷」

踊るために腰に添えられていた手が私の体を男の方へと慣れた手つきで引き寄せ、耳元に男が口を寄せてくる。ぞわり、と粟立ちそうになる肌を必死で抑えつけて頭の中を別のことでいっぱいにすることで耐え忍ぶことにした。そうだ、頭の中のアルフィノに薪をたくさん拾ってきてもらおう。
「きれいさっぱり消し去ってみたい、と思ったことはおありでしょうか?」

ひそり、と耳に吹き込まれる声は無条件に甘やかしてくれるようなやさしい色を含んでいて、思わずダンスのステップが乱れる。男は存外強い力で私の腕を引いて、半足ずれたステップをまた合わせてくれた。まるで淑女に対するような、やさしくて品のある仕草。

良い感じの木の枝が一本、二本とアルフィノの細腕の中に収まっていく。ああ、そんなに太いのは良くない、こっちの乾いた細い方が火が回りやすいよ。
「かく言う私もこの夜会で知り合った術師様に、戦で負った怪我を癒してもらったのです」

四十九本、五十本、五十一本。たくさん集まったね、アルフィノ。これならみんなで焼き芋大会をしても余るほどだ。最近ずっと腹ぺこなグ・ラハはきっと大喜びだね。エスティニアンはスターダイバーで芋を掘り起こそうとしているね。駄目だよ、お芋が潰れちゃう。潰すならこの男をやって。
「ほら、あなたがふれているこの腕。かの銀泪湖の戦いで吹き飛んだものを、術師様が取り戻してくださったのですよ」

グ・ラハが両手に焼き芋を持って満面の笑みを浮かべたあたりで、踊っている相手の言葉がようやく途切れたことに気付く。視線が冷え切らないよう、必死に心を穏やかに保っていた甲斐があった。この男は手がかりになる。こんなに早く見つけられたのは幸運だろう。少なくとも私にとっては心地良いと言えない地下から早々に出られそうだ。

さあ、絶好の機会を逃がす訳にはいかない。自分が想像し得る最大限の媚びをかき集めて、引き寄せられていた体を不必要に男に寄りかからせる。たとえ傷だらけの身躯だとしても、この男にとっては良い獲物のはず。ならば使えるものは使う、戦場の鉄則だ。
「……私、とっても興味がありますわ。ぜひその術師様にお逢いして、この忌々しい傷を見てもらいたい」

自慢気に笑んでいた男の目がキラリと喜色で光る。かかった。
「あなたは本当に、本当に運が良い。この私にお任せを……さあ、術師様の元へご案内します。今宵はあなたの新生を祝う宴ですよ」

男の手がさらに腰を滑って、ぴったりと引き寄せられる。咄嗟に飛び出していきそうになる呪詛を必死に飲み込んで、男にめいっぱいの笑みを向ける。男に促された歩みはゆるやかに会場の奥へ。有無を言わさない完璧なまでに紳士的なエスコートは消し去りたいものを持つ人を逃さないための仮面だろうか。それとも本当に純粋に術師を信じているのか。

胸中はエスティニアンへの謝罪の気持ちでいっぱいだ。突入する前に声をかけるという約束は守れそうにない。

古今東西、王宮や屋敷には緊急脱出用の通路が備えられていることが多い。ウルダハの王宮然り、アラミゴ宮然り、ハウケタ御用邸然り。この小さな屋敷も例に漏れず、会場の隅に立てられていたパーティションの向こうには扉が隠されていた。事前に共有されていた地図には記されていない、まさに未知の領域だ。ざわつく肌を抑えつけて、男に体を預けたまま扉を潜って上り階段に足をかける。ろうそくの明かりだけを頼りに進んでいく道中は、客と従業員の声や音楽で満ちている会場と打って変わって静かだった。まるで私たちしかこの世界にいないように。

もし奸計や血風、謀略も戦場の何もかもを知らない、善いものたちばかりに囲まれてきた人生であったなら、私の体を我が物のように抱く男に情の一つでも持つことが出来たのだろうか。甘い容貌が浮かべる笑みは確かに私のためだけに向けられていて、少しだけ強引な仕草がスパイスとなって彼の魅力を引き立てていた。甘いものは得意ではないが、これがもしも、と思考が明後日の方向へ飛びかけては引き戻す。ここは敵の懐の中、油断は禁物だ。

二人だけの世界はそう長く保たずに終わりを迎え、やがて薄暗い円形の部屋に出た。屋敷の上階にある隠し部屋といったところか。甘い香の匂いが充満する部屋は決して広くないが、大きな窓が実際よりも空間にゆとりを感じさせる作りになっている。恐らくそこが脱出経路の一つで、きっと地上に降りられる梯子が伸びているはずだ。

その窓から外を眺める人影が月に照らされていた。
「術師様! あなたの助けを必要とする方をお連れしました」
「ああ、ご苦労様です」

術師と呼ばれたその人がたっぷりの布を巻き付けた細い身躯に似合う優雅な仕草で振り向く。男とも女ともとれる中性的な顔立ちと声を持つその人は、月影を背にして微笑んでいた。
「ようこそ、我が屋敷へ。宴はお楽しみいただけましたか?」
「……ええ、とても」

カツカツ、と質素ながら作りの良い靴を鳴らして術師が近づいてきて、代わりに退いた男が手際良く取り去った上着の下から露わになった私の腕をじっと観察する。白い手袋に包まれた手がなぞっても、初対面にしては不躾な視線も医師のそれに思えて全く嫌な感じがしない。

何故だろう、警戒心がついゆるむ。

術師の所作一つ一つを追うように、部屋を満たす香と同じ甘い花の匂いがした。ふわりと香る程度なのに妙に強く感じる。ずっと包まれていたい、と心の底から願ってしまうような良い香りだ。
「ふむ……随分とお辛い経験をなさったようですね。腕以外にも傷があるでしょう?」
「分かるのですか?」
「たくさんの絶望を診てきましたから」

術師は細い指で剥き出しになった私の肩の傷にふれ、腕の方へと指を滑らせていく。慈しみ、労り。きっとこの人に任せれば辛いことの何もかもがなくなってしまうと信じさせる。
「でも大丈夫です。あなたは今夜、この場で新生するのです。傷や痛みを知らない、新たなあなたへ」

痛みも傷も、あらゆる絶望を知らない私。なんて甘い響きだろう。何も心配することがない、ただの人になれる。それはいつかの私が望んでいたことだった。
「さあ、私に身を任せて。こちらへ」

術師に誘われるまま、部屋の壁際に置いてあった椅子に座らせられる。いつの間に入ってきていたのか、術師に似た服を着た男が膝に毛布をかけてくれた。
「彼は助手です。少し手伝ってもらいますが、何も心配はありませんよ」
「……助手?」

ふ、と無意識に男の袖を掴んでいた。ぎこちない動きは緊張だろうか。それにしても薄く笑うその眼差しに見覚えがあるが、砂嵐の向こうに隠れてしまったように思い出せない。
「さあ、目を閉じて。力を抜いて、身を任せて」

助手を引き止めていた手をやさしく握られ、やわらかいぬくもりが手のひらから伝わってくる。今日は淑女のような扱いばかり受けている気がする。普段はもっと。もっと、どうだっただろう。
「あなたの傷、いただきますよ」

手のひらが一瞬で熱くなる。外からエーテルをかき混ぜられるような感覚。

私はよく識っている。
「……傷は消さない」

砂嵐は止んでしまった。

術師の手を弾き飛ばした勢いで椅子から飛び退り、一気に距離を取る。体に異変がないか、意識を内側に向けると手が少し痺れていた。無理にエーテルを引き出されたあの感覚はマナシフトに似ている。恐らくあのまま術師の言うことを聞いていたならエーテルを根こそぎ持っていかれていたのだろう。
「……急でしたから驚いたのでしょう。さあ、もう一度」
「私に二度言わせるな」

怖がる動物を落ち着かせようとするように術師は両手を広げて語りかけてくるが、最早私に椅子に戻るという選択肢はない。すっきりとした思考で周囲を改めて観察すると、何もかもが怪しすぎる。部屋には甘ったるい香が焚きしめられているし、入口の近くで控えている助手の目は虚ろで生気がない。おまけに私をここに連れてきた男はそんなに良い男でもない。助手は不滅隊のあの人の弟だろう。目と髪の色が似ているし、虚ろではあるが薄く笑っている顔がそっくりだ。

そして、術師のまとう空気。何かしらの術を常に使っているのか、あの人の周りにだけエーテルが渦巻いている感覚がある。だが、過去に相対したアシエンたちが使っていた術とは違う。彼らの術にあった圧倒的な距離感はなく、もっと身近で自分も使っていたことがあるもの。
「そんな……! 忌々しい傷だと確かに言っていたじゃないか! あなたが好きな服すら諦めるほど恥じている傷なんな、早く消し去れば良い!」
「……ええ、忌々しいわ……」

部屋の壁に張り付きながらも喚く男を一瞥すると、ひっと怯えに満ちた視線を寄越してくれた。今の私はドレスに似合わないひどく恐ろしい形相なのだろう。
「この傷は私が至らなかった結果。護るべきを護れなかった戒めよ」

可愛い服も似合わない。街の流行や恋からも遠く、人を護り傷つける術技と鉄と焦土ばかりが側にある。

だが、これが私だ。
「憎く思うことはあっても、傷を恥じたことなど一度もない。これは私の旅路そのもの。息絶えるその時まで、痛みも全て連れていくと決めた私だけの傷だ」

隠し持っていた細剣を取り出して、刃を縦一直線に眼前に構える。あの人のような騎士には遠いけれど、己の士気を高めるなら真似事で十分。
「それに、エーテルを吸うだけで傷が消えるなんて有り得ない」

ゆっくりと剣を術師に向ける。ただの素人ならこれで威圧出来るし、戦わずに事を収めることも出来るだろう。

部屋の隅で縮こまっている男は悲鳴を上げて更に小さくなったが、術師は全く意に介さずに大袈裟な仕草で肩を落とした。
「ああ、なんだ……心得のある方でしたか。参ったな……流石に派手に動きすぎましたね」
「理解が早くて助かる……質問に答えて。あなたは終末を望む者の一派なの?」
「終末? そんな意味の分からないこと、考えてはいませんよ。全く……私の計画が台無しだ」
「計画?」

術師の言葉とこの人の使っている術から感じた身近さを信じるのであれば、アシエン・ファダニエルとは無関係、つまり治癒を装ってテンパードにしようとしていた線は消えるだろう。

なら、男の腕を治してみせたという話は何だと言うんだろう。男の心酔っぷりは嘘をついている様子もなければ、さわり心地の違和感のなさからして義手でもないようだった。黙して考えていると、疑問の答えを示すように術師が手のひらをゆっくりと横薙いでみせる。何かの術かと構えたがすぐに背筋が凍った。

雪原で瞳を輝かせていたあの日の彼がそこにいる。

だが現れたのが彼だったからこそ、私は答えを得ることが出来た。
「幻術だったのね」
「……流石、戦慣れした方は違う。ひと目で見抜かれたのは初めてですよ」

こちらに武器の構えを解く素振りがないと分かったらしい術師がもう一度手のひらを振ると、はじめからそこには何もなかったように影がかき消えた。ふう、と大きく溜め息をついて肩を落とした術師は術が看破されたというのにまだ微笑んだままだ。
「私はエーテルの扱いに長けるらしくてね。例えば失った腕や大切な人……見たいと強く願うものを見せることなど容易いこと」

術師は心底誇らしげに、また誘うように手を差し伸べてくる。

時折、禁制品製造の噂が囁かされる流民街だけでなく、比較的富裕層と呼べる街の人々にまで絶望や諦念が蔓延っているなんて。呆れと、同時にそれに縋ることしか出来ない人がいるという現実に胃が捩じ切れそうになる。

終わらなきゃいけない。抵抗する間も与えずに制圧しよう、と足に力を込めた瞬間。それまで大人しくしていた男が糸を奪われた人形のように崩れた。四つん這いになって、しかし顔は上げて術師を揺れる瞳で見据えている。
「……術師様……あなたは私の腕を治してくださったのでは……?」
「……私はね、あなたみたいに現実が辛くて仕方がない人たちに夢を見せてあげているんですよ」
「夢……また、そんな……嘘でしょう? その不届き者を謀るための、嘘なのでしょう?」

確かに、男と踊っている時に感じた手の温度や感触は血の通った肉体そのものだった。本当に幻だというのならあまりにも精度が高すぎるのだ。

同時に旅の中で得た経験と知識が彼の腕こそ幻であることの証なのだとも言っている。

異世界にも幅を広げた私の旅路で傷や痛みと共に、治癒の術もまた寄り添い続けていた。それはアルフィノやウリエンジェ、ヤ・シュトラがかけてくれる魔法だったり、ただの冒険者として参加した小隊の治癒師だったり、場面も人もさまざまだけれど、治癒の術を扱う者たちは口を揃えて言う。
「治癒の術は万能ではないわ」

被術者の生命エネルギーを活性化させているに過ぎず、傷を消し去ることや失った肉体を取り戻すこと、まかり間違っても星海に還ってしまった魂を掬い上げることは出来ない。だから、決して身を犠牲にしてはいけない、と。
「……じゃあ、この手は……?」

信じられないように己の腕を見て呆然とする男を一瞥して、術師が無情にも手のひらをまた横に薙ぐ。エーテルが揺らぎ、まばたきの間に震えていた男の腕は消え去っていた。

男は現状が飲み込めない、と辺りを見回すが在るはずもないことを受け容れざるを得なくなっただけだった。声にならない慟哭を目の当たりにしてもなお、術師は微笑みを崩さない。まるで疑いを持った男が本人の意志で夢から醒めることを望んだのだと言うように。

こんなこと、見ていられない。
「……投降してください。私も荒事は避けたい」
「この期に及んで甘いですね。その殊勝な覚悟ごと堕としてあげましょう。傷を負うことも、負ったことも忘れていられる楽土へ」

術師が手を前にかざし、一瞬で高濃度のエーテルが練り上げられる。放たれる前に軌道を避けつつ接近をしようとした瞬間、月影が翳り、窓ガラスが激しい音を立てて大きな塊によって破られた。

窓の近くにいた私は月明かりが揺らいだ瞬間に後ろへ飛び退っていたから事なきを得たが、部屋の隅にいた男にまで細かく散るガラスが余程強い力で飛び込んでいたことを物語っている。
「気安くふれるなよ。そいつは邪竜の鱗よりも、どんな鋭い槍よりも尖った女だ。お前に御せるものかよ」

カツン、と槍の先を床にぶつけるエスティニアンの背中にはいくつもの木の葉がくっついていた。相当無茶な道でここまで辿り着いたらしい。

咄嗟に服で体を守っていた術師が裾の向こうから冷めきった顔を出し、今までで一等低い声を絞り出す。
「今日は無粋な客が多いようだ……」
「なんだ、お楽しみ中だったか?」
「馬鹿言ってないで……助かったよ、エスティニアン」

飛び込んできた竜騎士の隣りに並び立ち、崩していた構えを取り直す。服に葉っぱがついている以外は特に怪我もないようで良かった。ここまで隠密行動をしてくれていたのだろう。
「あいつが今回の黒幕か?」
「みたい。あと、あのぼーっとしてる人。例の弟さんかも」
「……言われてみれば似ている、か? まあ良い。全員捕まえれば問題ないだろう」

気持ちの良い返答に思わず口元がゆるむ。それはエスティニアンも同じようで、私の無事と状況を確かめると大きく頷いて、槍の穂先を術師に向けた。
「おい、お前。攫った連中を出せ。他の場所は潰した、あとはここだけだ」

何でもない風に発せられた「潰した」という言葉に驚いたのは術師だけではない。隠密行動をしていたのか、と思ったが破壊工作と言う方が合っていたらしい。今が敵前でなければ顔を覆いたい、いつもの彼らしさに薄い溜め息だけ漏らした。

しかし、自分の城を壊されている術師こそ焦ったり怒ったりしてもいいはずだが、術師は特に意に介す様子もなく冷めたままだ。
「攫う……ああ、ご協力いただいている方のことですね。ちゃあんと生きてらっしゃいますよ、ほら」

そう言うと術師のまとうエーテルの濃度が一気に上がる。いくつもの塊を継ぎ接いだような歪な形は大きく膨らんでいった。流れが濃すぎてどこから来ているのかも分からないが、一つハッキリした。
「呆れた……幻を持続させるために他人のエーテルを炉にしているなんて」
「炉だなんて! 自ら望んでここにいらっしゃるのです、甘い夢の中で生きていたい、と」

ああ、確かにこれは魅力的な誘いに聞こえるだろう。未だ問題が山積する世界で必死に生きるのはとても大変なことだ。だからといって目を閉じて息をしているだけなんて。
「くだらん。それと死の間にどう違いがある」

吐き捨てるというにはやさしく、突き放すというには遠く。胸につっかえて出てこなかった言葉を彼が絞り出してくれた。この人は強いけれど、だけどそう在れない人のことも分かってくれるのだ。
「……壊すよ、エスティニアン」
「ああ、とっとと終わらせるぞ」

踵の高い靴を履いているお陰でいつもより近いエスティニアンの声が心地良かった。だけど、それも御仕舞。さっき踏み込もうとして認めざるを得なくなってしまったが、やっぱり足を痛める靴じゃ戦いにくくて仕方ない。敵方から目線を逸らさず足を振って靴を脱ぎ散らかすと、その音に気付いたエスティニアンが何かを床に放り投げた。
「おい」

足元に寄越されたのは普段私が好んで履いているロングブーツだった。
「これ、どこで?」
「もしもの時のためにタタルに選ばせておいた。早く履け、お前はそっちの方が良いだろう」
「……本当にずるいなぁ」

肩に手を置かせてもらってブーツに足を入れると、すっぽりと包まれる感覚がひどく馴染む。その場で軽く跳んでみても全く痛みはない。流石だ。

ついでにダンスホールで身にしみて分からされた動きづらいドレスの裾を──タタルには本当に悪いが──太腿の辺りまでスリット状に破る。これで腕も足も傷を隠すものはないけれど、これで良い。合図をしようとエスティニアンに視線を合わせれば、流石に驚きの表情を浮かべていた。だが、すぐにいつもの目を細める笑みを見せて、槍を構えて見せてくれる。
「行くぞ、相棒。全員ふんじばって不滅隊に突き出してやる」
「ああ!」

呼吸を合わせて勢い良く踏み出す。エスティニアンは左、私は右へ術師に挟撃を仕掛け、まずは槍の鋭い一突きが繰り出されるがひらりと躱されてしまう。ならば追撃として一気にエーテルを練り上げて雷撃を放つが、術師がかざした手に軌道を逸らされてしまった。
「エーテルの扱いが上手ね」
「あなたほどでは」

術師は不敵に笑っている。まだ余裕ということか。背後の炉、いや、囚われている人たちから吸い上げているエーテルがある限り、無敵だとでも言いたげだ。実際、私の魔法をいなすほどの瞬発力は驚異的だが、エスティニアンの直接攻撃はしっかり避けているところを見ると本当にエーテルの扱いが上手いだけかもしれない。ならば飽和して崩壊するまで叩き続ければ良い。細剣で直接斬りつけようと踏み込むと、それを待っていたように術師がまた手をかざす。
「腕っぷしばかりが強さではありませんよ」

光。幻惑の術。光の加護で耐えられるか、いや、発動前に斬れば。剣を振りかぶろうとした手を引き込まれ、体が揺れる。
「相棒!」

声と共に対角にいたはずのエスティニアンが私の手を掴んで、術師との間に滑り込んでいた。駄目だ、また背中を。

ビクリ、と揺れた肩と崩れた膝に術がかかった瞬間を感じてしまった。掴まれたままの手を引いてエスティニアンの正面に立つが焦点が合わない。
「…………ミ……?」

幻は見たいものを見せる。エスティニアンは誰を見ているのか、ゆっくりとしたやわらかい声が誰かを呼んだ。でも、手の力はゆるみかけながらも槍を取り落としていない。まだ陥落していない。
「目の前を、私を見ろ! エスティニアン!」

私に解呪の心得はない。でも放置しておくわけにもいかないなら、出来ることは一つだ。思いきり振りかぶって、エスティニアンの頬を平手打ちをお見舞いした。普段なら難なく避けられるか手を止められるかするだろうそれを、彼は顔面で受け止める。

これで醒めなければ戦力は削がれてしまうが、気絶させるしかない。祈る気持ちで衝撃で左に傾いた顔がゆっくり正面に向き直る時を見守っていたが、再び見えた瞳にはいつもの寒風のような鋭さが戻っていた。
「助かった、相棒」
「男前になったね」

やっぱりこの人の瞳は戦意に光っていなければ。業が深いな、と少しの自嘲も込めて笑うと、いきなりぐっと手を引かれてあたたかいものが口にふれる。全く、ムードがない。

一瞬のふれ合いは幻のように過ぎ、立ち上がった私たちは気を取り直して術師に槍と細剣の切っ先を向ける。
「なんて野蛮な……これだから俗人は嫌いだ」
「言っていろ」

悔しさからか体中をわななかせる術師がまたエーテルを編み出す。今までよりもずっと濃い。このままでは炉にされている人たちにどんな影響があるか分からない。一気に決めなきゃ。

あちらが撚り集めたエーテルなら、こちらは私自身を炉にした純度の高いマナだ。身を焦がし、魔力の激励を場に満たす。同時に響く竜詩に胸が熱くなる。背中を預けられる人との共闘にしかない心地良い呼吸。

言葉は要らない。

視線すら遣らず、私とエスティニアンは術師に向かって一気に突進する。

一撃目、突きからの振り上げ。

二撃目、三方向に剣を薙ぎ払い。

三撃目、無数の三段突きを叩き込む。

そして、合間を縫うように絶妙なタイミングで繰り出される槍捌き。

術師は勿論、障壁を張って対応してきた。しかし片やイシュガルド随一の英雄、もう一方は常に戦場や野を駆け回る少し腕の立つ冒険者だ。二方向からの猛攻の前には紙に等しい。

鋭槍の一撃で障壁に罅が入ったことを見て、薄紅色の花を突っ切って部屋の壁ギリギリまで飛び、白い光の柱を術師の頭上から落とす。耐えている術師の顔が歪む。障壁を出している間は魔法の軌道を逸らせないらしい。もう少し。

更に術師の頭上に術師を展開し、圧縮した赤い魔力を爆発させた。魔導兵器すら焼き尽くす赤い火球をそのまま使っては屋敷が燃えてしまうから少し加減して、その分を次の一撃に乗せる。
「っクソ!」

さっきエスティニアンが破った窓のように、障壁が跡形もなく崩れ散る。もう術師を護るものは何もない。
「相棒!」

術師がまた障壁を張り直そうとしているが、隙など与えない。

剣戟の軌道を自分で形作るように、術式を一直線に展開して。放つ。目が覚めるような赤が弾け、逃げることも間に合わなかった術師の体を真正面から貫いた。

声もなく術師は倒れ伏す。

細剣が帯びていた高濃度の赤いエーテルがまるで花嵐の跡のように霧散する。冷たさが和らいだ夜風になびく、氷雪から生まれ落ちたばかりのようなエスティニアンの銀が赤い霞によく映えていた。
「怪我は」
「大丈夫。エスティニアン、君も無事で良かった」

駆け寄ってきたエスティニアンの大きな手が頬にふれる。無事を知らせようと目元をゆるめると、ほっとしたように髪を梳いていった。今夜はやけに丁寧だ。
「……お前、まさか全力でやってないだろうな?」
「当たり前でしょう。最後のは見せかけだよ」

動く気配のない術師を指してエスティニアンがそんなことを言うものだから、流石に笑ってしまった。そんなに見境のない人間じゃないことはよく知っているだろうに。

ただ、逃げられては堪らないので、完全に伸びきっている術師を軽く縛って適当に床に転がしておくことにした。もうじき炸裂した魔法の光を見た不滅隊あたりが突入してくるだろう。
「……私の腕が……」

まだ項垂れ座り込んでいる男の肩にエスティニアンが上着をかけてあげていた。

階下からも悲鳴らしき声が聞こえてきていた。どうやら術師の治療を受けた人の幻が全て解けたらしい。

もうじき甘くて長い夜が終わる。

夜半のウルダハが俄に騒々しくなる。

やはり魔法の光を見ていた不滅隊が突入を敢行し、隠し部屋での戦いに決着がついて程なく首謀者である術師を含めてその仲間たちを捕縛することが出来た。攫われていた人たちが軟禁されていた空間も見つかって、やっと保護が完了したところだ。

不滅隊に連行される術師の仲間たち、家族との再会に喜ぶ人たち、そして夢から醒めて呆然とする人たちで溢れかえる屋敷前をエスティニアンと私は例の隠し部屋に備え付けられたベランダから眺めている。人混みの中にはあの不滅隊士も見つけられた。無事に弟さんと再会出来た彼もまた涙を見せるほど喜んでくれているようだ。
「任務成功、かな?」
「隠密には程遠かったがな」

そういえばそうだった、とエスティニアンと顔を見合わせて微妙な笑みを交わす。そう、今回は潜入任務だった。最後には大暴れになってしまったが、任務の主眼だったテロフォロイとの関係性は結局なかったし、攫われた人たちも見つかった。事件の首謀者を捕まえて引き渡すことは出来たから、結末としては良好だろう。

ただ、私の頭の中は質量を持つ幻のことが渦巻いていた。ただの一介の術師に成せる芸当ではない、と思う。もしかしたらエーテルの炉になっていた人たちが持っていた、夢の中にい続けたいという願い、そして失ったものを取り戻したいという被術者の願いがあの人の術の精度を押し上げたのかもしれない。まるで召喚された蛮神が確かに存在するように。

どうあれ、醒めない夢はない。

きっとこれから始まる現実は彼らにとって七獄にいるような辛い日々になるだろう。無責任に何とかなる、なんて言えないけれど、どうか未来が明るいものになるように手を差し伸べることは続けていきたいと思った。手始めに同盟軍に支援策を提案してみようか。
「出来ることはたくさんあるよね、エスティニアン」
「……おい、踊らないのか」
「……は?」

全くちぐはぐな言葉が返ってきて驚いた。それっきり何も言わず、手を差し伸べたまま動かなくなってしまったエスティニアンの意図を知りたくてじっと見つめる。気恥ずかしそうにして、でもこちらを見る目は逸らさないでいる。

今、出来ることの一つに踊ることが入っているということだろうか。普段の彼から想像がつかない選択肢だ。なら、その選択肢を入れさせたのは、きっと私だ。

気付いてしまってはこの状況、相当恥ずかしい。しばらく手を出せずにもたついていると、「ん」と手を取るように催促された。私の気も知らないで。

半分自棄になって一度もエスティニアンには見せたことのないような恭しいお辞儀をしてみせたら、彼の手を取る。満足げに指を握る節くれ立った武人らしい手に導かれて、二人だけのダンスホールに踏み出した。

破ってしまったお陰で階下で踊っていた時よりも足が運びやすい。だから余裕があるのか、ゆったりとしたリズムで刻むステップに合わせて結わえたエスティニアンの髪が揺れている様子をぼんやりと眺めることが出来た。

素敵な音楽も観客もないし、彼がぶち破ったせいで部屋のあちこちに飛び散ったままのガラスも踏んでしまう。理想の華やかなダンスホールからは程遠いけれど、私は二人だけで踊っているここが良かった。
「……お前が会場で踊っていた時、正直肝が冷えた」

ぽつりと頭上から言葉が降ってくる。丁度窓の側、月影で顔が陰っていて表情が見えにくい。
「見ていたの? 何処にいたのか分からなかったわ」
「まあな。何にせよ」

今日何度目か分からないが、手を引かれて踊る体勢から体が離れされた。ゆっくりターンさせられ、また空いた空間分だけ引き寄せられる。回される途中、壁に立てかけられた細剣と槍が寄り添っているのが何故か目についた。
「最後の相手をあんな奴に譲ってやるつもりはない」

これ以上ないほど近付いた銀糸の髪が月に照らされている。雨が降るように顔の真横にしなだれていく様を視線でつい追いかけるが、顎を掬い上げられては目線を合わせざるを得ない。

だって、私たちは戦場に身を置き続けているのだから。
「ラストダンスだ。楽しめよ、相棒」