賢者様、添い寝してください
今日という一日は盛りだくさんだった。
早起きした小さな魔法使いたちと魔法舎近くで野イチゴのような赤い木の実を摘んで、それからネロとジャムを作って、午後からは書類をこなして。
ご飯は三食きっちり全部美味しかったし、お風呂ではカインとどっちが長く湯舟につかっていられるか対決になってちょっぴり逆上せて、さっきシャイロックの特製ジュースをもらって一息ついたばかり。
充実した一日の終わり、心地よい疲労感に包まれて部屋に戻れるのはとても幸せだ。きっと明日も素敵な一日になる、と元の世界では感じたこともなかった希望が隣りを歩いているようで自然と足取りも軽くなる。
「ただいまー」
「おかえりなさい、遅かったですね」
返事なんかあるはずのない帰還の挨拶に気怠げな声が打ち返される。まるで部屋の主のように出迎えてくれたのは、見慣れたクッションを抱えて部屋に備え付けられた椅子に腰掛けたミスラだった。
今更驚くことはないけれど、誰もいないと思っている部屋に誰かがいると少しだけびっくりする。
「あ、はい。今日は盛りだくさんだったので……?」
「はあ、そうですか……で、いつまでそこに突っ立ってるんですか?早く寝かせてくださいよ」
「あ、添い寝でしたか。ちょっと待ってくださいね」
オズのアドバイスを受けて、手を握れば眠れたことがあってから、彼がこちらの部屋を訪れたり、彼の部屋にアルシムされることが度々あった。
ベッドに入る前に少しだけ明日の準備をしよう、とミスラがいる机の方へ歩を進める。もう何処かへ行くことがないと分かった彼は、本当に辛そうにゆっくりとした動作で椅子からベッドへと移動していった。
先にシーツの海に沈んだ彼を目の端で捉えると、持ち込んだ三日月型のクッションを抱えたまま横になって、じっとこちらを見ていた。恐ろしい力を持った魔法使いには見えない、しんなりと弱りきった男の姿だけがそこにあった。
「もう眠くて限界なんですけど。まだ待たせるなら、あなたの寝間着の袖をちぎります」
「地味に嫌だな……」
袖の危機を救うために一旦手に取った書類を机の上に戻して、すでに寝る体勢に入っているミスラの隣りに体を滑り込ませた。途端に右手がミスラの左手に包まれる。指が長くて大きな手は冷たくて、逆上せ気味だった体には丁度心地よかった。
「もう柔軟はしましたか?」
「あなたを待っている間に済ませました」
「……もしかして結構待ちました?」
「まあ、そこそこ……」
「そうでしたか」
ぽつぽつと言葉を交わしながら、ミスラはもふもふと枕に頬を擦り付けている。
彼の横で眠る時は必ずどちらかが寝落ちるまで話をすることになっている。今日みたいに質問をしたり、一方的にこちらの話をすることもあれば、ミスラの昔話を聞かせてもらうこともある。要は話題はどうでも良くて、何かを話していると眠れる気がするらしい。
「日中はミスラの姿を見ませんでしたけど、外出していたんですか?」
「ああ、その辺で薬草を採っていました」
「薬草?」
「呪い用のものと、煎じて薬湯にするものです」
ミスラに話を聞かせてもらうといろんな話題が飛び出してきて、魔法舎の中でも年長な魔法使いであるということを思い出させてくれる。
普段は周りのことなんて気にしない、気ままな猫のような人だけれど、実はちゃんと見ていることを知れて何だか少し誇らしい気持ちにもなった。
「最近、甘い花の匂いがしますね」
「寒くなる前に咲く花です。あの匂いをかぐと、嫌でも昔を思い出しますよ……あの人は植物をよく教えてくれましたから」
「季節の移り変わりを報せる花なんですね……金木犀みたいなものかなぁ」
ミスラの目と言葉を通して知るこの世界は、他の魔法使いたちが語るものとは色合いが全然違う。それはきっとみんなそれぞれの人生や彼らを形作る故郷や文化が持つ個性なのだろう。
「金木犀といえば、新米の季節だなぁ……」
「シンマイ……なんですか、それ」
「んーと、スタ米みたいな穀物です。秋のお米は甘くて旨味がしっかりしてて、とっても美味しいんです!あぁ……明日はネロにスタ米炊いてもらおう」
思い出すだけでお腹が空きそうになる、体に染み付いた故郷の記憶は今、この時にあっては毒にしかならない。ミスラに倣ってぼふんと勢いよく枕に顔を押し付けると、それは少しずつ遠くなっていった。
「あなたも眠かったんですか?」
枕に押し付けたお陰で真っ暗になってしまった視界にホウ、と静かに灯が揺らめくように低い声が響く。恐らくミスラの目の前にあるのだろう髪を弄る手からは到底獣のような激情は感じられなかった。
じわりと胸をあたためるふわふわとした気持ちは、盛り沢山だった一日分の疲れと手を取り合って眠りの淵へ背中を押してくれる。
「……晶。まだ俺が眠くないですよ。シンマイのこと、話してください」
「だいじょうぶ……一緒に、眠れば怖くない……ですよ……」
やわらかくなる指先を感じながら、ゆっくりとまばたきを繰り返す。次第にぼやけるミスラの輪郭を追えずに、やがて淵から体を躍らせた。
翌朝目を覚ますと布団の中には一人分のあたたかさだけが残されていて、昨夜新米の話をねだった人の気配は既になくなっていた。結局、自分が先に眠ってしまったから、彼もちゃんと寝れたのか気になる。
朝ご飯の前に探しに行こうと思い立ち、手早く身仕度を済ませて廊下に出ると、ドアが半分開いたところで止まってしまうと同時にゴツンと嫌な音が響く。
「……良い度胸ですね、死にたいんですか」
「ミ、ミスラ……!」
恐るおそるドアの向こうを覗き込むと、不機嫌なオーラだだ漏れの魔法使いミスラが居てしまった。大きな麻袋を両腕に抱えていたせいで開くドアを咄嗟に止められなかったらしい彼は、髪と同じくらい額を赤くしてお手本のような膨れ顔を見せている。
「ごめんなさい、まさかそんなところにいるなんて。おでこ、大丈夫ですか?」
「はあ……まあ、オズの攻撃に比べればそよ風ですよ。それより、これ」
思い出したように、ミスラは長い腕の中に抱え込んでいた麻袋をぐいぐい押し付けてきた。戸惑いながら受け取るとずっしり重く、取り落しそうになりながら中身をぶちまけないように、ひとまず床に置いてみる。
「ミスラ、これは?」
「開けてみたらどうですか」
「あ、開けていいんですね。じゃあ、ちょっと失礼して……」
固く結ばれた紐を引っ張りながら緩めて麻袋の中身を覗き見ると、真っ白い粒つぶがぎっしり詰め込まれていた。一瞬何か分からなかったけれど、すぐに鼻を擽った香りが昨日の夜の会話と金木犀の香りを思い出させてくれる。
「あっ!スタ米だ!」
目から出てきそうになるものをぐっと抑えてぼうっと立っているミスラを見上げても、特に何も変わったことなんてなかったように眠たそうな目を擦っていた。
でも、こっちは米を抱えたまま彼の足元にしゃがみこんでいるから、彼のズボンの裾が溶けた雪で少し濡れていることにも気付いている。
わざわざ早朝に、北の国から、軽く十キロはあるだろう米を抱えて。気紛れな彼のことだとしても疑問は尽きないけれど、何よりも嬉しくて仕方がない。
「ミスラ、ありがとうございます!こんなにいっぱい、大変だったでしょう?」
「それくらい、俺にかかれば軽いものですよ」
この気持ちをどうやって伝えようかとなかなか出てこない言葉を探しながら、何となく誇らしげに見えるミスラとスタ米を交互に見比べて口をパクパクしていると、眠そうな眼差しが陽がさすようにふっと和らぐ。
「それに……あなたが食べたいと、言ったので」
細められた目はまるで雪解けを迎えたせせらぎのようだ。こんなにもやさしい笑みを見せてくれる日が来るなんて。ミスラは笑うと、永い長い時を生きてきた魔法使いとは思えないほど幼い表情になると知れる日が来るなんて。
「何を惚けた顔をしているんですか。ほら、シンマイを炊いてもらうんでしょう」
ひょい、といともかんたんに片手で麻袋を、もう片方で床に座り込んだままの体を拾って、魔法使いは既に美味しそうな香りを漂わせている廊下を歩き出す。広い背中を追いながら、どうやって新米の美味しさを知ってもらおうかと思い出を繰りながら、自然と上がっていく口角を自覚した。