第一幕
閉じたままの目蓋にかかった前髪をそっと払ってやる。こんなに近くにいるのに起きることがないなんて、生粋の武人たるこの人には有り得ないことだ。
「なあ、まだ起きねーの?」
勿論、返事はない。ただ健やかな寝息だけが一定のリズムで繰り返されるだけだ。普段なら止めても宥めても飛び出して行ってしまう英雄がしっかり休んでいるなんて、こんなに嬉しい場面はないだろう。でも、今は静かな呼吸すら胸を締め付ける。勝手なことだ。
不意に人の気配とノックが同時にナップルームに訪れた。もう一度穏やかな寝顔を見遣って、オレは英雄の眠るベッドから離れて扉を押し開くと、頼もしく懐かしい面々が揃っていた。視線が上から下からオレに集まって、すぐに肩越しに部屋の中へ吸い込まれていく。
「待ってたぜ、みんな」
事の始まりはいつものように突然。あの人のリテイナーだと言う白髪のエレゼンがバルデシオン委員会の分館に転がり込んできたことで始まった。
彼の主、つまり英雄が昏倒したまま起きない。
リテイナーの取り乱した様子からただごとではないと判断したクルルとオレは、その日の内にあの人を自宅からオールド・シャーレアンに引き上げさせて、方々に散っていた賢人たちを呼び寄せたのだった。シャーレアンならいろんな分野の専門的な治療も出来るし、政治的にも中立な立場で事に当たることが出来る。
「……どうなんだい、ヤ・シュトラ」
あの人のエーテルを観察しているヤ・シュトラに痺れを切らしたような声音のアルフィノが声をかけた。暁の解散から意識的に集まることを避けていたオレたちがこうして一堂に会するのは、本当に久し振りのことだった。個人で会うことはあっても神出鬼没なあの人とはオレたちの誰もが久々の再会になる。本来なら喜ばしいことなのに事態は良いものではないことが、あのアルフィノをも焦らせているのだ。そんな彼の心境を理解してか後ろに控えるオレたちをヤ・シュトラは努めてゆるやかな動作で振り返って、ふるふると首を横に振る。
「原因は分からないわ。ただ、使い過ぎた後のような、薄い感じ……」
「相棒のリテイナーから心当たりは聞いているのか?」
「それが全く分からないそうなのよ。本を読んでいたと思ったら倒れていたって……」
エスティニアンの問いに答えたクルルは一冊の書物を取り出して、あの人が眠っているベッドに置いてみんなに見せる。ところどころ擦り切れてはいるものの使い込まれた厚みのある表紙は、ここではない未来で手に取ったことのあるオレ以外だと、長い間この人と一緒に旅をしたアルフィノにとって馴染みのあるものだろう。
「これは、紀行録……」
雪が音を吸い込んでしまうように、ナップルームにも重い静寂が訪れた。あの人の旅路のすべてが書き込まれたその書物には、ただの冒険者が英雄として刻まれるに至った道筋、経験、そして明かすことを許さなかった想いが書き綴られている。特にヤ・シュトラとウリエンジェは書物を見詰め、その内容に想いを馳せるように瞑目してしまった。
「……これと今の状況と、どう関係するのよ」
アリゼーの一条の声が張り詰めた場を切り裂いていく。
「どうだろうな。あいつの愛用品でも、本は本だろう? 何か別のことが原因なんじゃないか?」
「サンクレッド、侮ってはいけません。そうでしょう、我らが魔女よ」
「……ええ、恐らくこの紀行録が解決の鍵だわ」
ヤ・シュトラは指先につけた魔具を取り外してから至上の宝物を扱うように書物を抱き上げ、幼子をあやして言葉を引き出すように手をかざす。目蓋に隠された星海の瞳が再びまみえた時、そこには強い光が宿っていた。
「あの人の記憶がこの中に閉じ込められている」
あの人の枕元で話し込む訳にもいかず、暁の賢人たちとバルデシオン委員会のオレたち、それとエスティニアンはひとまずメインホールに場所を移して今後の対策を考えることにした。あの人はここに報せを持って駆け込んできてくれたリテイナーとタタルに看てもらって、何かあればすぐに呼ぶように伝えてある。きっと二人にとって、今はあの人の側にいられる方が安心するだろう。
「小難しいことは分かってないが、要はこいつが起きないのはこの本にこいつの一部が入ってるせいってことか?」
腰を落ち着けて一番に口を開いたのはエスティニアンだ。戦術や指揮、武芸に秀でる彼は、さっきまでの話もほとんど感覚でしか理解出来ていないと表情に書いてあった。それでも何とか噛み砕いて飲み込もうとする姿勢はあの人のことだからだろう。
「そう。記憶だけが抜け落ちて、エーテルが不完全だからよ。言い換えるなら、起きるということを覚えていないからかしら」
「なら、あいつのエーテルが薄いっていうのもそのせいか?」
「恐らく、ね」
ふつり、と考え込む賢人たちの面持ちは深刻そのものだった。どれほど危機的なのかはこの場にいるほとんど全員が理解している。水晶公として第一世界からみんなを呼び寄せてしまった時は魂と記憶だけを体から抜き出してしまっていたせいで、体に残った生命力が徐々に揺らいでいく状態に陥っていたのだ。
エーテルとは、生命力、魂、そして記憶の三つで構成される生き物をその個体たらしめる命の源。一つでも欠ければゾンビーやゴーストの類に成り果て、バランスを失った体は徐々に衰弱していき、最後に訪れるのは死だ。
「ここまでの話をまとめると、本の中に入っちまった記憶を体に戻せば良いんだよな?」
「ええ。でも、あなたの作ったソウル・サイフォンやイヴァリースに見られる覗覚石、聖石……そういう用途で作られたクリスタルにエーテルを込めるのとは訳が違うわ。何かもっと根本的な原因と解決策がありそうなのだけど」
今、この瞬間にもあの人のエーテルはバランスを崩しつつある。手遅れになる前に早く対策を講じなければと、焦りが握りこんだ指先を白くしていた。本当にあの人のことになったらすぐに冷静でいられなくなる。食い込む爪の痛みで少し冷静になって、ふと深呼吸をしてメインホールに集った面々を見回すと、クルルが静かに手を上げたところだった。
「ねえ、ヤ・シュトラ。覗覚石って超える力をきっかけに記憶を読み取る装置で合っていた?」
「ええ、ボズヤでもこの人が実際に過去視を使ってシドの記憶を追体験したそうよ」
「何か思いついたのか?」
サンクレッドの問いにクルルは一つ頷いて、みんなを見回してから話し始めた。
「紀行録にアクセスして、込められた記憶を探るの。そうすれば、解決は出来ないかもしれないけれど原因は分かるはず……私の超える力は過去視じゃないけれど、イレギュラーな今回なら役に立てるかもしれない」
超える力。ハイデリンが呼び起こした昔日の──十四に分かれる前の世界でヒトが備えていた力の欠片。確かにクルルの言うように超える力が作用して事態が動く可能性はあるかもしれない。
「記憶の潜航、ね……確かに力技ではあるけれどやってみる価値はあるかもしれない」
「しかし、ボズヤの際は記憶の中の恐れやトラウマが敵性体を作ったと聞き及んでおります。お一人で行かせるのは承服しかねます」
「オレが行く!」
ほぼ無意識に出てきた言葉にみんなの視線が集まった。第一世界でもこんな場面があったな、と懐かしい気持ちになる。あの時とは違って、オレはもう命を投げうつようなことはしない。これはもう一度あの人を迎えに行くための旅なのだから。
「ラハ、でも、あなたに超える力は……」
「ああ、持っていない。だから、潜航する時にクルルに交感してオレのエーテルを混ぜてみるのはどうだ? 上手くいけば混線して一緒に入れるかもしれねーし」
今にも泣き出しそうなアリゼーの、考えを巡らせ続けているアルフィノの瞳が光る。一緒に冒険をしていた時より大人びていたとしても、根っこの部分は変わらない。あの人を慕い、背中を追いかけて隣りに並び立とうとする二人なら次に出てくる言葉は決まっている。
「私も行く! 何もしないよりずっと良いもの」
「……私も連れて行ってほしい。超える力を持たない私では門前払いかもしれないが、可能性があるなら私はそれに賭けたい」
ガタッと椅子を跳ね飛ばして立ち上がった双子に頷いた。事の難しさをすぐに理解出来たヤ・シュトラとウリエンジェ、自分もまあまあな無茶をしようとしているクルルには困惑の色が濃く見える。サンクレッドは腕組みをして黙り込んだまま様子を見ているようだ。
「おい」
困り果てた賢人たちの間をエスティニアンの一声が通り抜けていく。鋭い視線は真っ直ぐにオレたち三人に注がれていた。
「素人の俺でもお前たちが危ない橋を渡ろうとしているのが分かる」
輪から外れて話を聞いていた彼が一歩、一歩進み出てくる。エレゼン族ならではの長身、さらには生粋の武人らしい眼差しに見下ろされて威圧感を感じない者はいないだろう。百年仕込みの虚勢でたじろぎそうになる足を踏み留まらせて、立ち向かうべき壁に相対する。
「あいつは忙しい旅の最中もマメに筆を執っていたのをお前たちも知っているだろう……その紀行録、あいつが見られたくないものが詰まっているんじゃないのか?……本当に覚悟は出来ているのか」
「オレは……何があっても、何を知っても、あの人が誰よりもやさしい英雄だって知っている。だから、今度はオレが迎えに行ってやりたいんだ」
真っ直ぐに淡雪のような瞳を見据える。覚悟なんて、ずっとずっと昔から出来ている。あの人の旅路がこんなところで途絶えるなんて、そんなのは駄目だ。意志は固い、そう感じ取ってくれたのだろうエスティニアンの柳眉が下がり、大きな溜め息が一つ漏れた。
「暁の魔女殿よ、どうにかしてやれないのか」
「……言うに事欠いてあなたって人は……」
今度はヤ・シュトラが溜め息をつく番だった。頭を抱えて、それでも口元は堪えきれない好奇心でゆるく持ち上がっている。
「やるだけのことはやるわ。サンクレッド、ウリエンジェも。よくって?」
「今は時間が惜しい、可能性があるなら試すべきだ。安心しろ、必ず背中は護ってやるさ」
「ええ、心配は尽きませんが……しかし、持てるすべての知識と技を以て、みなさんをお支えします」
賢人たちが一様に頷く。そして今回の鍵を握るクルルも椅子から降り、双子の手を取った。
「ありがとう、みんな……! きっとあの人を迎えに行きましょう」
そこからの流れは素早いものだった。エーテルを混線させるという突貫で思いついた策は案外理に適っていたのだ。念のための調査を経て、今夜には実行に移すことになった。エーテルの波長を合わせた上での交感という高度なコントロールが必要な策だったが、実行部隊になった四人はみんな魔術の素養があり、なにより速さを優先する今回の作戦にはぴったりの人選だったのが幸いした。
あの人の記憶の中に飛び込んだ後、自分の実体をイメージして具現化しやすいように一番の装備を身に着け、あの人が眠っているナップルームに集合したのは月も高くなった深夜にした。ウリエンジェ曰く、その時間は魔力が特に高まる星の運びらしい。ナップルームの大きな窓から注ぐ月明りに照らされるあの人は、やはり静かな寝息を立てて、自分の身に迫る危機なんてまるで知らん顔だ。
「みなさん、どうか無事に帰ってきてくださいでっす」
「ありがとう、タタル」
「帰ってきたらまたお茶を淹れてくれないかい? あの人もきっと喜ぶよ」
「はい! 特別な一杯をお約束しまっす!」
タタルの激励とそれに応える風景は、かつて石の家で何度と繰り返された旅立ちの時間だ。まさかこのバルデシオン分館でまた見られる日が来るなんて想像もしていなかった。
「さて、準備は良い?」
「ああ、始めよう」
紀行録を手にしたクルルを中心にアルフィノ、アリゼー、そしてオレが手を繋いで並ぶ。ゆっくりと四人分の呼吸を合わせて、エーテルを練り上げていくと徐々に波紋が広がるように一つになっていくのを感じた。もう少し、もう少し。
「行きます」
ふ、と紀行録が淡く光を帯びたと思った次の瞬間、光は視界を焼き尽くすほどの強さで部屋に溢れだした。同時にエーテルが吸いだされるような、しかし魔術を使った時とは別の感覚が意識を根こそぎさらっていこうとする。
抗わないでこのまま一緒に身を投げ出せば良いと分かる。何故か恐怖はない、きっとこの先にあの人はいる。
支えきれない体が揺らぐ、だが力強い手が肩を支えてくれた感覚があった。ここには命を預けられる仲間がいる。
「クリスタルの加護があらんことを」
意識が遠のく最後の瞬間、ヤ・シュトラのやさしい声が背中を押して、オレたちは記憶の海の中に身を投じた。