第五幕

三回目の到着地点は薄暗い場所だった。ゆらゆらと揺れるランプと潮騒の音、なによりも強い潮の香りが船旅の途中であることを知らせてくれる。何度も客を岸から岸へ渡し続けてきた風格があるというのに、船室内には人っ子一人、サハギン一人見えなかった。膝の上に分厚い本を乗せて熱心に向き合っている、たった一人を除いて。
「懐かしいわね、アルフィノ」
「……ああ、本当に。私たちも同じ便に乗っていたからね」

アルフィノとアリゼーの声が心なしかやわかく、涙ぐんでいるような色をもって響く。懐かしい人に逢ったような慈しむ声音と視線はただ一人だけの乗客に向けられていた。
「ここは旅の始まり。あの人、船でエオルゼアに来たの」

凛としたクルルの声がして驚いた。記憶を読み上げている時の独特のかたいそれではなく、いつもの調子で双子と一緒に視線を送る彼女の瞳には強い意志の光が見えている。どうやら不意打ちに驚いたのはオレだけではなかったらしい。アルフィノが目を丸くしてしゃがみこんでいた。
「クルル? 今回は初めから意識があるのかい?」
「ええ、きっとこれが原因ね」

視界を合わせたアルフィノによく見えるようにクルルは大切に抱えていた本の中身を見せてくれた。びっしりとは言えないが几帳面な字で詰め込まれたあの人らしい紙面は、ところどろこが水に滲んで読みにくくなっていた。
「インクが滲んでいるわ」
「少し潮の香りもするの。あの人、もしかしたら海で濡らしちゃったのかも」
「はは、あの人ならやりかねないな」

意外とそそっかしいところがあるあの人が海に落っことした愛用の紀行録を大慌てで乾かそうと躍起になっている姿が目に浮かぶ。みんなもそれぞれ慌て様を思い浮かべたのだろう、周囲を包む清々しい雰囲気も相まってオレたち四人の間に笑みが漏れた。
「文字を標に記憶を辿ってきたから、文字がないと意識を辿りづらかったのかな?」
「面白い考察だな……うん……今後の研究課題にしよう」
「それより。ラハくん、あの人に話しかけてみたらどう?」
「えっ? クルル、これまでの記憶でも見ただろ? オレたちは記憶のあの人に作用出来ないんだ」

急なクルルからの提案に思わず声がひっくり返りそうになった。

長い時間を共に過ごしてきたアルフィノにさえ隠した戦場で呼びかけても届かなかった声。

〈英雄〉が残しておきたいと強く願った瞬間──あの人が深く傷ついた瞬間にいたとしても届かなかった手。

既に起こってしまった後の出来事を追体験しているだけだと、決して変えることが出来ない記憶の風景を見ているだけなのだと分かっていても。目の前に存在するあの人と、クルルから聞かせられる言葉たちが手渡してきたのは強い無力感だった。最初の方ならまだしも、最後の潜航で実験するようなことではないだろう。
「これは推測だけれど、今までは文字として既に存在する記述を経験していたのだと思うの」
「じゃあ、あの人の記憶だけ……想いだけが満ちている今なら?」

はた、とアリゼーの言葉に気付かされる。想いが満ちている空間をオレたちは旅したことがある。宙の果ての果て、青くてやさしい小鳥が至ってしまった最果てと同じように想いによって移り変わる場所なのだとしたら。文字という標が滲んで不安定になっている今、オレたちが作用することで思い起こす記憶の認識が善くも悪くも転化するかもしれない。認識が変わることでどんな結果が訪れるのかは分からない。オレたちは本来存在し得ない異物なのだから、もしかしたら英雄の記憶が一生紀行録に縛られ続ける可能性だってある。だが、逆も有り得る。

なら、オレがここにいるあの人に出来ることは一つだ。
「ラハ、悔しいけれどきっとラハが適任」
「私も同意見だよ。きっと君ならあの人を目覚めさせることが出来る」

言葉は返せなかった。アルフィノとアリゼーの強い想いと、クルルのあたたかい視線を手渡されて喉の奥が熱い。三人に一度だけ頷いてみせて、オレは分厚い本に楽しそうに何かを書き付けているあの人へ歩み寄った。

オレやクルルはあの人が〈英雄〉と呼ばれるようになってから出会ったから、ただの新米冒険者としての顔を見たことがない。世界が広いということしか知らない旅人は一体どんな風に旅を始めたのだろう。どんなことに興味があって、何処へ行こうとしているのだろう。ここはあの人の旅立ちの瞬間。初心を明るい気持ちで思い出せれば、きっと冒険に出たくてうずうずして寝ていられなくなるに違いない。

足音がしたからか、それとも近付く気配にやっと気付いたのか、あの人はクルルが手に持っているものと同じ装飾がなされている本からやっと視線を上げる。努めて気さくに、遥か遠くなってしまった新人時代を思い出しながら片手を上げて挨拶してみた。
「よお、あんたも冒険者志望か?」
「ああ」

空いている隣りを視線で勧められるまま、素直に腰を下ろすと見慣れた人懐っこい笑みを見せてくれた。やっぱりこういうところはどんなに遠くへ行っても、強くなっても変わらないのだ。
「いろんなものを知るために故郷を飛び出してきたんだ。今日にはもうエオルゼアに着くなんて信じられないけれど、本当に楽しみ」
「そうか、じゃあ本当にこれからなんだな。エオルゼア、良いところだぜ」

不意に三人の方へ視線を遣ると姿が見えなくなっていた。大勢でいると怪しまれると踏んで隠れているのか、もしかしたら他の場所を探索しているのかもしれない。探検も心惹かれるが、やっぱりオレの知らない英雄と話せる機会には代えがたい。改めて向き直るといくらか若く見える面差しが眩しく輝いていて、自然と頬がゆるんだ。
「ところで、あんたもってことは君も冒険者志望?」
「んー……半分正解だな。オレはずっと旅をしているわけじゃねーから……冒険者で研究者かな」
「へえ。じゃあ、エオルゼアへも研究で?」
「そんなところ。憧れの人と知りたいことに近付くために行くんだぜ」
「そうか。いつかその憧れと肩を並べられたら素敵だね」
「…………ああ、本当にそう思う」

しばしの沈黙。きっと普通の初対面同士なら気まずいだけの時間だが、不思議と落ち着くのはオレだけか。チラチラと視線を寄越しては何か言いたそうにそわそわしている未来の英雄は初々しくて、なんだか目の奥がツンと熱くなる。興味のあることへは我慢が利かない、真っ直ぐな姿は今と何も変わらない。
「君のその杖、すごく綺麗だね。クリスタルかな。特注品?」
「ああ! すっげー腕の良い仲間に作ってもらったんだ」

オレの方から声をかけようとした時には自分の中で踏ん切りがついたらしい、興味が抑えられないというのが少し乗り出した体から溢れ出ている。キラキラした目の前にタタル特製の杖を差し出してさわっても良いぞ、と言ってやると心底嬉しそうにクリスタルをつつき回したり、実際に手に取って重さを確かめてみたり、作った経緯やコンセプトまでまるで赤魔道士が矢継ぎ早に放つ魔法のように質問を投げかけてきた。この人は戦だけではなく、腕の良い職人としての顔も持っているのは私もよく知るところだ。その素養は旅の始まりからずっと持っていたものだということがよく分かる。これ以上はオレじゃなく作ったタタルでないと分からない領域までありとあらゆる質問と考察とを堪能した冒険者は満足げに、うっとりと溜め息を吐いて杖をオレの手に戻してくれた。
「ありがとう、本当に素敵な杖だ」
「作ってくれた人にも伝えておくよ、きっと喜ぶ」

いつの時代もこの人はタタルの作ったものが好きだと知れば、彼女は小さな体をめいっぱい使って喜んでくれるだろう。誰だって作ったものを褒められるのは嬉しいものだ。作る人でもある冒険者も自分のことのように笑顔を見せてくれた。

目尻に滲んでいた緊張が和らいだ頃合いを見て、オレはこの人の膝に乗せられた分厚い本を指で示した。
「なあ、あんたのその本もすげー良いよな。ずっと愛用しているのか?」
「これ? 旅の記録をしようと思って船に乗る前に用意したんだ」

お気に入りを自慢気に抱えて見せてくれる笑みはやわらかく、期待に満ちている。この先、どんな冒険が待っているのか、どんな言葉で綴るのかが楽しみで仕方がないというように。
「こうやって書き残しておけば嬉しかったことも、悔しかったことも思い出せるから。きっと挫けそうになった時には手を引いてくれるかなって」
「良い考えだな! きっとすっげー宝物になると思う」

あんたにとっても、オレにとっても、そして枝分かれした先の未来でも。あんたの思い出は英雄譚として語り継がれ、手を引くどころか多くの人々を導く星になる。追いかけて、追いすがって、辿り着いた先のそのまた先でオレはあんたに会いに来たんだと伝えたい。もどかしさと溢れそうになる想いを胸の奥に押し込んで、精一杯の笑顔だけを贈る。

あわや目頭から気持ちがこぼれそうになったところで腹の底に響く大きな音が鳴った。入港を知らせる汽笛の音だ。
「おっと、もうすぐ到着だな」

名残惜しいがここが潮時だろう。椅子から立ち上がって、杖を背負いなおす仕草にあの人の視線がついて回っているのが分かる。冒険者として最初の記憶がどんな印象になったのかは分からないが、きっと悪いものにはならなかったはずだ。杖を作ってくれたタタルには後でお礼を伝えなければいけない。
「あの、よかったら名前を……」
「あー、すまねぇ。ちょっと訳ありでさ……うん……次に逢った時の楽しみにしていよう」

そうだ、ここが最果ての空と同じなら。

改めて振り返り、さっき杖に向けてくれていた気持ちと同じくらい真っ直ぐに若いあの人を見据える。きょとんとして、でも何を言うのか期待にも満ちている眼差しは確かにオレが追いかけていた人だ。

ならば。もう一度、あんたと言葉を交わそう。
「だから、次は一緒に冒険に行こうぜ! 絶対、約束だからな!」

めいっぱいの笑顔で拳を突き出してみると、すぐに合点がいったように拳を合わせてくれた。この約束は存在しなかったものだ、きっと起きたらインクが滲むように鮮明に思い出すことは叶わないだろう。それでも残るものはあると信じている。

今度はあんたが約束を標に戻ってくる番だ。

手を振って船室から駆け出ていく背中が外光に溶けていくのを見守りながら、オレは祈らずにいられなかった。あんたはこれから出会いも別れも楽しいことも辛いことも、その身に受けるには余りあるほどのたくさんを経験する。時には膝を折りそうになる時もあるだろう。でも、長い永い旅路の中で得るすべては決してあんたを裏切りはしない。だから、どうか一つでも良い。光を抱えて先に進んでほしい。そうすればオレたちはまた逢えるよ。

ひとときだけ目蓋を閉じて、オレはあの人が駆けていった光の中へ進んでいった。