エピローグ

船室を出た先には何もなかった。

いや、だだっ広い白い空間にアルフィノとアリゼー、クルルと一緒に立っていたというのが正しい。
「みんな、無事だったんだな」
「グ・ラハもね。私たちは船内を探索していたのだけれど、特にこれといった収穫はなかったよ」
「ま、懐かしい場所を歩けて良かったくらいね」

心なしかすっきりしたようなアルフィノとアリゼーの表情に少し安心した。二人にとっても長い旅が始まった場所なのだと思うと感慨もひとしおだったのだろう。いくつもの壁を乗り越えてきた今、状況は決して良いとは言えないけれど始まりに立ち戻る機会を得られたのは良かったのかもしれない。みんなにとっても、オレにとっても。
「ラハくん、あの人とはお話し出来た?」
「ああ、お陰でゆっくり出来た」

エオルゼアに到着するのが信じられないと言っていたこと。杖を褒めてくれたこと。そして、次に出会った時の約束。

短い時間だったけれど何物にも代えがたい時間のすべてをみんなに共有すると、どこかほっとしたように表情がゆるむ。あの人は戻ってくることが出来る。きっとオレたちの手を借りずとも自分の意志で歩いて帰ってくるだろう、と思えた。
「ところで、ここはどこだろう? 風景も見えない、まるで白紙のページのようだね」
「……あながち間違いじゃないかもしれないぞ、アルフィノ」

クルルが手に持っていた紀行録の最後に近いページを開くと、多少よれてはいるが白紙のページが残されていた。これまでは文字を追いかけて記憶を遡り続けていたが、最初に至ったことで一周して最後にきてしまったのかもしれない。原理は全く分からないが、実際に起こっているのだから仕方がない。
「……ねえ、あれって……」

アリゼーがオレの背後を指さす。振り返ると白い空間の真っ只中にぽつりと机と椅子が置かれていた。まるでインクをうっかり一滴だけこぼしたように突然現れたそこにあの人が座っている。思わずあの人の名前を叫んだアルフィノの声を合図にオレたち四人は机めがけて走り出していた。
「あれ、グ・ラハ? それに、アルフィノ、アリゼー、クルルまで?」
「あなた……! 本物よね……?」
「本物? まさかまた偽物騒動でもあったのか? まったく懲りないなぁ」
「違うわよ! あなた、今自分がどんな状況で……!」

肩で息をしていたアリゼーがふっと膝を折って、あの人の前にうずくまる。ここまで気を張り詰めていた上、ずっと心配で仕方がなかったその人が呑気に──いつもと変わりない姿で座っていたものだから気が抜けたのだろう。アリゼーの小さな肩に手を置いたアルフィノが状況が飲み込めずに目を白黒させているあの人に今起こっていることをすべて説明することになった。ここまで見てきたこと、感じたことをすべて。
「いやぁ、本当に本当に……ご迷惑をおかけしました……!」

話を聞く英雄本人は徐々に顔を青ざめさせ、最後には床に座って東方の謝意を示す姿勢を取って動かなくなってしまった。よもや死ぬ間際という状況を理解してもらえたようで何よりだが、オレたちにも謝らなければいけないことがある。
「ここまでたくさん、あなたが見られたくないものを見てきたわ……ごめんなさい」
「あ、アリゼー? そんな、だって助けに来てくれたんだろう?」
「……あなたの心にふれた、私が一番謝らなきゃいけないわね。本当にごめんなさい」
「私からも。すまない、謝っても謝りきれないよ」
「オレも……この策を強行したのはオレだ。すまない、本当に……」
「あのね、みんなは何も悪くない。自分の不注意でみんなを危険な目に遭わせたのなら、謝るべきはこちらだよ」

口々に謝罪をして頭を下げだしたオレたちに慌てた英雄殿はどうしたら良いのか分からないと困り果てた様子で、一人ずつ肩に手を置いて早く顔を見せてと宥めている。特に込められた想いに直接ふれたクルルには目線を合わせて、何度も何度も大丈夫だと伝えていた。ようやく全員が顔を上げて一様に床に座ったところであの人は机に置いていた紀行録をみんなの中心に置いて見せる。
「みんなの言うように、記憶をどうにか保存出来ないかと思って紀行録に術式をこめてみたんだ」

曰く、忘れずにいたい想いを色褪せさせることなく保ち続けていたかったから試したという。数えきれないほどの想いや願い、約束を英雄と呼ばれた身に背負ってここまで歩いてきた。それが重荷に感じることもあったが、想いの力が自分を遠くに連れて行ってくれると識ったからにはどれも決して取りこぼしたくなかったらしい。
「紀行録には旅の記憶をほぼ書き付けてあるから、定着させるには一番親和性が高いかと思って。まあ、結果はご覧の通り。やりすぎちゃったわけだけれど……」
「あんた、そんなに複雑な術式を扱えたのか? ソウル・サイフォンを作った時はからきしだったのに」

オレの言葉を聞いてあの人は少し気まずそうに懐から取り出した小さな琥珀色のクリスタルを乗せた。真っ先に身を乗り出して反応したのはアリゼーだ。
「これ、アーモロートで引き継いだって言っていたクリスタル?」
「その、そこに込められたアシエンの術式を参考に……あ、ちょっとだけ!ちょっとだけだから!」
「もう、本当に無茶ばっかりして……」
「も、申し訳ない……」

オリジナルのアシエンたちが転生組に記憶を植え付けて座に召し上げるように、自分の記憶を紀行録という媒体に移しておくことで後々薄れてしまった時に学習して記憶を鮮明に焼きなおすことが出来るのではないかと考えた。だからといって記憶丸ごと移すつもりは勿論なかったらしいが、加減が出来ずに今回の騒動が起こったようだ。

事の全容を聞いて呆れたように溜め息を吐くクルルとアルフィノ、それにアリゼーの目がどんどん吊り上がっていくにつれて、この人の眉はどんどん下がっていく。稀代の英雄も本気で心配してくれる大切な仲間の前では型なしになる。助けを求めて視線がオレに向けられるが今回ばかりは援護のしようがなくて、満面の笑みを貼り付けて首を横に振ってやった。
「……帰ったらどこか連れて行って。それでチャラよ」
「え、そんなこと?」
「なによ、嫌なの?」
「連れて行きます、行かせていただきます! みんなにご飯でもご馳走させてください」

低いアリゼーの声で完全に気圧された英雄はおもちゃのようにこくこくと首を上下に振りつつ、笑顔を振りまいている。少しかわいそうになってきたが、アリゼーの気持ちも痛いほど分かる今、あの人に味方してやることは出来ない。オレだって心配していたし、無理も無茶もしてほしくないのだから。
「ところで、もう帰り道は分かるかい?」

アルフィノのやわらかい問いかけにあの人は一瞬、目を閉じる。そして次に瞳が見えた時には真っ直ぐ頭上を見上げて、大きく一つ頷いた。いつの間にかオレたちを見下ろすように太陽が輝いている。
「うん、みんなが繋いでくれたから」

オレたちも大きく頷いて、それぞれ立ち上がった。もうじきこの旅も終わってしまう。決して楽しいばかりの冒険ではなかったけれど、惜しいと思ってしまう自分がいて。みんなには明かせない想いはアリゼーとアルフィノとに両腕を引かれているあの人と同じように胸の奥底にしまっておこう。いつか星の海に流すまではオレだけのものにしていたい。

しきりに心配する双子がようやく満足していよいよ出発しようという時、ふとあの人が机に手を添えて足を止める。振り向いてみれば夕陽に照らされていた横顔に似た影が頬に射していた。
「どうした?」
「…………いいや、なんでもない」
「……不安?」

クルルがあの人に歩み寄って裾を引く。重力に従ってしゃがみこんだあの人は小さく、しかし確かに頷いた。あの人の言葉に直接ふれたクルルにしか分かりえないことがあるのだ。視線を合わせたクルルも小さく頷く。
「そうよね。でも、私たちはあなたから離れたりはしないわ……大丈夫、私も覚えているから」

一つひとつの音を染み込ませるように、あの人の手をゆっくりと包んだクルルの両手は震えていた。発した言葉は少なかったかもしれない。だが、いくつもの喜びや無念を身に受けたクルルが込めた想いは深くて重い。落ち着けるように、あるいは不安を溶かすようにゆっくりと呼吸をする二人はやがてまた一つ頷き合って立ち上がる。
「ありがとう、クルル。君が君でよかった」

安堵、言葉がなくても通じ合う想い。素直に羨ましいと思った。ヤ・シュトラが度々漏らす、自分にも超える力があればという言葉が自分の口からも出ていきそうになる。もしオレにも超える力があれば、もっと。不意にぽすり、と肩にアルフィノの手が乗った。ああ、いくつもの危機のただ中にあの人を置いて来ざるをえなかったアルフィノもきっと同じ気持ちを知っているのだろう。二人をやさしく見守るアルフィノにも同じ色が見えた。
「さて、私たちは先に戻って待っているよ」
「約束、忘れるんじゃないわよ!」

ずんずんと先に進んでいく二人の後をあの人から離れたクルルが追う。さらにその後をついて、オレも歩き出した。
「グ・ラハ」

だが、すぐに足は止まる。どんな魔法よりも強いあの人の声に振り向けば、悪戯っぽい笑みを浮かべて何かをささめいていた。距離が空いているせいで聞こえなかった言葉を今度は受け取ろうと足を踏み出そうとした瞬間、強烈な光に視界を焼かれる。必死に目を開いてあの人を捉えようとするが溢れる光に姿が滲んでいくだけだった。あれは聞こえないことが分かっていた顔だ。最後の最後にひどいな、とせめてもの抗議の気持ちを込めてオレは真っ白な視界の先にいるあの人の名前を呼んだ。

「みなさん! おかえりなさいでっす!」
「っ! あの人は!?」

飛び起きたアリゼーが転がり落ちるように寝かされていたベッドから降りて、隣りに寝かされているあの人に駆け寄る。オレも少し遅れてあの人の枕元に寄るが、まだ意識は浮上していないようだった。アルフィノとクルルもタタルと一緒になって同じように寝顔を覗き込み、静かにその時を待つ。

一瞬にも、何年にも感じられる時間を置いて、英雄の目蓋が震えた。身じろぎして、まるでなんでもない日の目覚めのように伸びをして意識を浮上させたその人はオレたちがいることを見て取ると、ふんわりと微笑んでみせる。
「……おはよ、みんな」
「おはよう、よく帰ってきたね」

今度こそやっと脱力して床に座り込んだオレたちを渦中の人は笑ってみていた。呑気だ、だけれどそれで良かった。
「私、みんなを呼んでくる!」
「私も行くよ、アリゼー。みんな心待ちにしているだろうからね」
「なら、私とタタルさんでエジカとリテイナーさんに声をかけてくるわ。ラハくんはここをお願いね」

部屋を飛び出していくみんなをひらひらと手を振って見送るあの人はいつも以上に穏やかで、放っておけばまた寝入り始めかねないほどふわふわして寝起きとしか言い様がなかった。実際寝起きなのだが、こんなに気の抜けた表情をする人だったか。
「グ・ラハ」

オレと二人しかいないのに、こそこそと声を潜めてあの人はオレを手招きしている。紀行録の中で最後に名前を呼ばれた時みたいに素直にあの人を見ると、その背後の窓から朝日が射し込んでいた。潜航を始めたのは真夜中だったから、今回の冒険はたった一晩の出来事だったらしい。かいつまんでいたとはいえ、あの人の長い旅路を体験していたにしては短すぎるように感じる。もっと潜っていたかった、なんて思ってはいけない考えを振り払うように体を起こしたあの人のベッドに腰掛けると待ちきれないというような期待と、悪戯っぽさ笑みに滲ませてあの人は窓の外を振り仰いだ。
「ねえ、次の冒険はどこに行こうか」