市井の目

「すまない、少し良いだろうか」

昼休みの人の波がやっと引いて、自分の休憩を始めようかとしたところ。陳列棚を眺めていると背後から心地よい声に呼び掛けられた。

自然と上がろうとする口角をなんとか宥め、努めて冷静に、にこやかな店長を装って振り向く。
「いらっしゃいませ、水晶公……そちらのお連れ様は?」

敬愛する水晶公が伴っていらしたのは、側近をされているライナさんではなく、クリスタリウムの子どもたちでもない見知らぬ方だった。

見慣れたとはいえ、公のお召し物も珍しいものだが、公のお供の方はもっと目新しい装備を身に付けていた。しかも、見たことのない装飾の武器を背負われている。この方もまた、公のご同郷の方だろうか。
「私の同郷で、今日からクリスタリウムに滞在することとなった。マーケットの中でも日用品を広く扱う君の店を紹介しておこうと思ったのだ。どうかよろしく頼む」

そう言って、水晶公は深々と頭を下げられてしまった。

何も分かっていないくせに威張り散らすだけの為政者とは違って、水晶公は普段から丁寧で、民の一人一人にも真摯に向き合われる方だ。

それが分かっていても、自分の店を大切なお客様にご紹介いただいた上に、頭まで下げられては付け焼き刃の冷静さなんて容易く吹き飛んでしまう。
「そっあっ公!どうか頭を上げてください……!」
「ありがとう。一先ず、生活必需品を一通り見繕ってあげてほしい。お代はここから、もし足りなければ改めて請求してくれないか」
「か、かしこまりました」

そう言って、公はもそもそとローブの懐から小さな布袋を取り出して、カウンターに置かれた。その大きさに似合わない、重量感のある音が恐ろしい。

だが、それまで水晶公の半歩後ろで控えていたお客様がスイと前に出てこられた。まだ年若いお客様の表情は困惑の色が濃い。
「水晶公、お代は私が払います。住むところまでいただいているのに、そこまでしてもらうのは……」
「そうはいかない。老人を助けると思って、受け取ってくれないか」
「しかし……」

水晶公のやさしい強制に、なおも渋るお客様の気持ちも分かる。いきなりポンと、こんな大金を出されれば誰だって戸惑うだろう。
「それに……あなたはこれからここに基盤を作るのだから、いろいろ物入りになるだろう。蓄えはその時に取っておくと良い」
「それは、そうですが……」

お客様は眉を下げたまま、手で頬をさわって思案している。ゆるりとした雰囲気で決して急かすことなく、公はその口が再び開かれる時を待たれていた。
「……今回は、甘えさせていただきます……でも、必ずご恩は返します」
「ふふ、ありがとう。ただ、無理や遠慮はしないでおくれ」
「……はい」

必需品を一通りカウンターに出している間に、お二人の押し問答は終わったらしい。未だ納得のいっていないような雰囲気を醸しているお客様も、カウンターに並べられた品物を目にすると物珍しそうに眺め始める。

ありふれたものばかりしかないのに、その子どものような好奇心に、公のお郷は本当に遠いとおい土地なのだと改めて実感した。
「お客様、よろしければ食料品はご試食されますか?」
「いいんですか?」
「はい。まずは気になるものをどうぞ。それと、お好みを教えていただければおすすめをお持ちします」
「ありがとうございます。じゃあ……」

どれもこれも初めて目にするというお客様の反応は、見ていてとても微笑ましいものだった。

どうやらそう思ったのは水晶公も同じようで、口元を緩ませてしきりにあれこれとお客様に解説をしたり、おすすめを教えたりされている。こんなに楽しそうな公は、見たことがないかもしれない。
「さて、これで一通り揃っただろうか。お代は足りそうかな」
「はい、むしろお釣りが出ましたよ……」

お客様たっての申し出で、お包みした商品をご自身で台車に積まれている間にお会計を行う。少し離れたところにいらっしゃるお客様に聞こえないように小声で話される公に釣られて、こちらまでこそこそしてしまった。

いくらか軽くなった布袋を公へお返ししようと差し出すと、受け取ってくださる様子はなく、何故か考え出してしまわれた。まさか。
「ふむ。では、これは君に預けておこう。今後、あの人が買い物に来たらそこから出しておくれ」
「か、しこまりました」

これまでにも何人か公はご友人を連れてこられたことはあった。その度に街を案内したり、何かと気を遣われていたのは街の住人皆が知るところだ。

だが、今回のお客様は別格と言ってもいい。公のご同郷という言葉の意味は分かっていても、気にならないはずがなかった。
「あの、水晶公……失礼ながら、あちらのお客様は公とどういった関係の方なのでしょうか?」

きっとフードの下では目を見開いているのだろう、ギシリと止まった動作に嘘はない。
「……私の同郷の者とは言ったはずだったな」
「ええ、それは承知の上で……あの、不躾でお気に障ったなら申し訳ありません」
「いいや、君が気になるのも無理からぬことだ。ふむ、そうだな……」

今度は言葉を探すように、少し深く思考に潜られた公はすぐに目当てのものを見つけたようだ。小声で話すために寄せていた距離を更に詰められる。
「これは君と私との秘密だが……あの人は、私の一番大切な人なのだ。どうか、見守っておくれ」

すっと身を離した公は口元に人差し指を立てて見せ、これ以上は答えられないと言外に示されていた。

大切な人。

このやさしい言葉に、一体どれだけの想いが込められているのかは私には知りえない。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「ああ、一人で積込をさせてしまってすまなかった。部屋まで運ぶのは手伝わせてくれ」
「そんな、流石に悪いです……」

ただ、公がこんなにも生きいきとしていらっしゃるのだから、きっと公にとって喜ばしい方であることは間違いないのだろう。
「水晶公、お客様」

ならば、クリスタリウムの民として、最高のおもてなしをする他ない。
「お荷物は、後程私がお届けにあがります。必要なものだけお持ちいただいても結構ですよ」
「で、でもお店もあるでしょうし」
「配達も立派な仕事です。さあさあ、ご遠慮なさらず」
「彼もそう言ってくれているのだから、今回は甘えてはどうだろう?」
「……分かりました。では、よろしくお願いします」

そう言ってお客様は深く頭を下げられてしまった。短い時間しかまだお話ししていないが、お二人は随分と似ていらっしゃるようだ。
「では、すまないが荷物はよろしく頼む。私たちは街を一回りしてくるよ」
「はい、いってらっしゃいませ。お客様はまた後程」

お辞儀を一つ残し、ひらひらと手を振って二人は街を行く人の波に溶け込んでいった。

時刻は夕方の買い出しより少し前。よいお客様の接客をした後特有の心地よい疲労感と少しばかりの空腹を感じながら、出したものを片付ける。

次に配達商品のチェックをしようと、台車に近づくと積まれた商品の上に、メモと小瓶が残されていた。

お客様が積込の時に置き忘れて行かれたのだろうか。もし忘れ物だったなら配達の時に届けよう、と念のためメモに目を通す。
『丁寧にいろいろ教えてくれて、ありがとうございます。私の故郷の茶葉です。よろしければどうぞ』
「えっ」

つまり、この小瓶はお客様がわざと私のために置いていってくださったものらしい。

ガラスの小瓶の蓋をそっと開けると、嗅いだことのないやわらかな香りが立ち、思わず目頭がキュッと熱くなるのを感じた。自分のことながら少し動揺しつつ、こぼれそうになるものを慌てて手で抑えて、小瓶をしっかり閉める。これは大切なものを保管している棚にしまっておこう。

それから店仕舞いをするまでに店を訪れたお客様みんなに口を揃えて、何だか今日は機嫌が良いと笑われたのは言うまでもない。