市井の気付き

マーケットが橙色に染まる。

夕食の買い出し客、仕事上がりの職人や衛兵たちでマーケットは日に何度かあるピークを迎えていた。これを乗り切ればすぐに店仕舞いだ。

さあ、もう一踏ん張り、と体を伸ばすと、何度見上げたか分からない空が視界いっぱいに広がる。もうそこには目を焼くような強さはない。だけど、ゆるやかに地平線へと沈んでいく夕陽はやたらと目に染みて、気を抜くと瞳が潤んでしまう。それでも顔を上げて、空を見上げずにはいられないのだ。
「こんばんは、まだ大丈夫ですか?」

そっと控えめにカウンター越しに声をかけられる。もう見慣れた旅装束やお顔が少しばかりくたびれていらっしゃるところを見るに、旅先から戻られたばかりなのだろう。
「いらっしゃいませ、お客様。ごゆっくりどうぞ」

水晶公直々にご紹介いただいたお客様は、あの後も度々日用品などを求めに店を訪れてくださっていた。旅を住処にお仲間の皆様とノルヴラント中を巡っていらっしゃるので、クリスタリウムに滞在されている時間はそう多くはないと伺っている。それでも街に戻られた時はほぼ毎回、店を訪れてくださっていた。

水晶公おすすめの店だから、というだけでこんなにこまめに来てくださっているのだろうかと気になって、雑談混じりに伺ったことがある。
「初めてお店に連れてきてもらった時、おすすめしてくださったお菓子が美味しくって。旅先でも恋しくなっちゃうので」

そう言って、はにかみながらクッキーをまとめ買いされるのが、ご来店時の恒例となった。

ほろ苦くてサクサクとした食感が人気のクッキーを旅先で食べるのが楽しみなのだと仰るお客様に、なんだか喉の奥がぐっと熱くなる。レイクランドから出たことのない私には想像も出来ないような景色を、お客様がクリスタリウム産のクッキー片手に眺めているのだと思うと少し不思議な気分だ。
「今日はタオルと石鹸、ロウソクを2ダース。あと、クッキーください」
「かしこまりました」

商品をご用意している間、お客様は棚に並べられた商品をご覧になってお待ちになることが多い。静かに、楽しそうにあれこれ手にとっていらっしゃる様子を横目に、お客様のためだけに商品をご用意する。この時間が私は一等好きだ。

今日はタオル、石鹸。いつものクッキー。そして、今マーケットで一番の売れ筋であるロウソク。
「お客様、燭台はお持ちですか?夜が還ってきてからこっち、ロウソクと燭台が大変人気でして……もし、お部屋にないようでしたら取り付けにも参りますが、いかがいたしましょうか」
「ああ、ありがとうございます。でも、ランプもあるし、暖炉も部屋にあったので大丈夫です」

気になる薬草が入っている小瓶を手に、視線と声で以ってお返事をいただく。旅慣れてらっしゃるからか、さまざまな状況に対応出来るよう周到にご準備をされているようだ。
「そうでしたか。レイクランドに夜が戻ってから、みんな慌てて明かりを準備していたので、もしやと思いましたが杞憂でございましたね」
「洞窟や遺跡に入ることも多いので、携帯するようになったんです。また新しいものを用意する時は、ここで買いますね」
「これは、お気を遣わせてしまいました。どうぞご放念ください」

いらない気を回してしまった、と反省しつつ商品の準備に専念する。会話が途切れればそれぞれ元の場所に視線を戻すのが常だ。だが、お客様は小瓶を手の中でころころと遊ばせながら、視線はまだ私の方へ向けていらっしゃった。
「あの、店長さん。夜って、どうですか?」

アマロのやわらかい羽のようにふわふわとしたご質問に、少しだけ言葉が詰まる。

普段の私たちの間に商品にまつわる雑談はあれど、私的な話題、特にお客様からの質問はとても珍しい。

夜。

ノルヴラントに生きる者ならば多少の違いはあれど、一人一人が深く想うものだろう。無論、私も例外ではない。
「そうですねぇ……言葉で言い表すのはなかなか難しいものですが、初めて空に目を焼かれなかった時は、ただ驚きました。夜が戻った時は丁度仕事中で、何が起こったかすぐには分かりませんでしたので」

言葉にしようとして初めて気付くこともあるようだ。夜が還ってからの暮らしは、私にとって驚きの連続だったのだ。

自分が働き始める時間はまだ朝になりきらない、夜の端だと知った。

生まれて初めて『部屋が暗い』ということが不便だと知った。

月を、星々を眺めながら飲む麦酒は何故か特別美味しく感じた。

全て、夜が教えてくれたことだ。
「確かに、戸惑うことも多くあります。でも、私は夜が好きです。この日のために、私たちは今までを積み重ねてきたのですから」
「……そうですか」

少し言葉が多かっただろうか。質問の回答になっていただろうか。ふと不安になって、お客様を伺う。
「……よかった……」

お客様は穏やかな印象の方ではあった。

けれど、どこか一歩引いていらっしゃるような。単に店長とお客様という関係の私たちなら当たり前だが、お友達の輪の中にいらしても傍らで笑っていらっしゃるような。いくら歩いても水面が見えない、遠くから微かに聞こえる潮騒のような方だと思っていた。

それが、今は何か雪がれたような、清しい笑みを見せていらっしゃった。それは隣りに在って、共に空を見上げてくださっているように感じたのは、私の希望だろうか。
「っごめんなさい、変なことを聞きました」
「お客様……?」
「さて、今日は以上でお願いします。ところで、お代は……」

パッといつもの雰囲気を羽織り直されたお客様は、少しだけ気恥ずかしさの尻尾を残されていた。私もプロだ、その尻尾をわざわざ引っ張るような無作法はしないで、お客様のペースに添う。
「それが、例によって水晶公の預かり物がまだ残っておりまして」
「……あの人、一体いくら預けていったんですか」

はあ、と二人して溜め息をつく。これも恒例となってしまっている、あまりよいことではないのかも知れないが。

初めてお客様が水晶公に連れられていらした時に置いていかれた中身ぎっしりの布袋。あの中から会計をするようにと言い付かっているそれは、何度かお買い物をされた今でも、まだ底が見えない。恐ろしい。
「そういえば……この間アム・アレーンに行った時にも、お小遣いを持たせてくれたんですけど……」
「何となく流れは分かってしまいましたが、まさかとんでもない額だったのですか?」
「フッブート金貨」
「フッ……!?」

予想通りではあったものの、スケールが違いすぎてはしたなくも思わず噎せてしまった。申し訳なさそうなお客様の視線が何だか辛い。

公はこの方を『一番大切な人』だと仰っていた。どういう意味での大切なのか、また謎が深まってしまったような気がする。
「水晶公はたまに予想外のことをされるので、驚くんですよね……昔からそういう方なのですか?」

いいえ、あなたにだけです、とはとても言えなかった。公との大切な秘密を違えるわけにはいかない。それに、確証を持って語れるほど、この方を大切だと仰る水晶公を私は知らないのだから。
「公は、そうですね……うっかりさんな一面がございますので。以前も、とある魚をペーパーナイフだと勘違いされたことがあったそうです」
「えっ魚を?ふふ、あんなにしっかりされているのになぁ」

人々の集うマーケットには些細な日常の一幕を垣間見たという話から、根も葉もない噂話まであらゆる物語が吹き溜まる。時に楽しげに、時に心配そうに、終始ころころと表情を変えながらお客様は公のお話を聞いてくださった。

いくつかの話が終わったところで、はたと空を見上げるととっくに夕陽は沈みきり、小さな光が空に散りばめられていた。マーケットの混雑もいつの間にか引いてしまっている。
「申し訳ありません、お客様。大変長くお時間を頂戴してしまいました」
「いえ、そんな!私も公の話をたくさん聞けて楽しかったですし、何より店長さんとお話し出来てよかったです。お邪魔しました、また来ます」

商品を入れて脇に置かれていた紙袋をひょいと抱えて、お客様はこちらを向いたまま数歩後ろへ。そのまま、美しい異国の所作でまたの訪いを約束される。
「ありがとうございます、お待ちしております」

ひらひらと手を振ってから、ペンダント居住館へと向かわれるその背中をしばらく見送る。心なしか足取りは軽く、跳ねられているように見えるのはきっと気のせいではないだろう。店での買い物を楽しんでいただけたようなら何よりだ。

次はもっとご満足いただけるように新しいお菓子を仕入れようか。小躍りされていた足元に誘われるように、一日働いて疲れているはずの体が少しばかり軽くなる。

今日の店仕舞いは早く終わりそうだ。