ひとりの役目について

いつも通りの時間に起きて、窓の外を眺める。じきに日の出を迎える薄明るい空にはまだ夜の切れ端が漂っていた。昨日の雨雲は連峰の向こうに流れていったのだろう、一等明るい星がまだ見える。

今日は良い天気になりそうだ。

身支度をするために洗面台へ向かう短い道すがら、そういえば天気という言葉を思い出してからはあんなに憎かった空を見上げることが多くなったと思い至る。

雲一つない快晴の日もあれば、灰色の雲に視界がぼんやりとしたり。言葉でしか知らなかった天気という現象、その一つ一つがレイクランドの空に訪れる度、一瞬たりとも同じ姿を保たず、忙しなく気紛れに移り変わる空模様に一喜一憂する。これが正しい姿なのだ、と。私たちと同じように空を見上げて、公はそう仰っていた。
「いらっしゃいませ」

その水晶公が大切なお客様方の旅路を追って街を離れられてから早数日、まだ帰還されたという報せはない。残って留守を護る私たちに出来ることは、街を恙なく機能させること。人の命を繋ぐのは単純な戦だけではない、といつだって水晶公は説かれていた。

だから、私は今日もいつも通りお客様を笑顔で迎えるのだ。
「み、見ろ……!空が!!」

丁度、倉庫に在庫品を取りに入った時だ。初めて雨が降った時と同じようなざわめきと、それに重なるような悲鳴が上がっている。また知らない天気が訪れたのかもしれない、と少しだけ心が浮き立つのを感じながら、ちゃんと荷物を抱えて扉をくぐり、空を見上げた。だがその瞬間、覚えのある目眩に襲われて抱えた荷物は手を擦り抜け、酷い音を立てて床に散乱してしまう。

恐るおそる、空いた手を顔の上に翳して空を見上げる。身に染みた仕草の向こう、そこには目を焼かんばかりの光が帰ってきていた。

突然訪れた夜だから、去る時も突然なのだろう。

残念に感じることはあれど、どうしてか絶望はなかった。明日は晴れるか、それとも雨が降るか、とお洗濯物の心配を出来る日々がまた来る。あの真っ暗な夜空の下、ろうそくや街頭に灯を点して星々と共に歌う日が必ず来る。美しい夜空を胸の内に抱えた私たちならば、と誰もがそう信じて疑っていなかった。

ここはクリスタリウム、人類最後の反抗の要。私たちは俯いても歩みを止めない、そんな人の背中をずっと追いかけてきた。たとえ主が不在であっても、積み重ねてきた歩みが、言葉が私たちの標となる。

だから、今日も自分の出来ることをするだけだ。お客様に普段通りの笑顔とお買い物の場を創り続ける、それがきっと明日に繋がると信じているから。
「……こんにちは」
「っお客様……!」

聞き間違えるはずがない、だが幾分かひそりとした訪いの声に思わず『店長』の顔が剥がれかけてしまう。慌ててその端を取り直して振り向いた先にいらっしゃったお客様のご様子に思わず息を呑んだ。

御一行帰還の報は、医療館の職員たちや治療士たちの慌ただしい足音と大声で飛び交う指示だった。

じきに帰還するという一報を受けて衛生用品の補充のために店と医療館の間を駆け回っていると、一際人の気配がざわつく。もしかして、と目を向けると誰に言われるまでもなく人波は割れ、テセレーション鉄橋から医療館まで真っ直ぐに進める道を作り出しているところだった。そのただ中を駆け抜けていく御一行の中、白髪の方に背負われてぴくりとも動かないお客様の姿を見た。いつだってやわらかく微笑んで、ご友人や水晶公にさえもやさしい眼差しを向けていらっしゃったお姿からも、街の方々から聞こえてくる武勇伝からも想像出来ない。医療館に向けて遠くなっていくお背中は何度も繰り返し見たことがある、傷を負ったただの一人の人間だった。

傷の具合や症状などは戦場に出ることもなければ、街の重要な機能を担う顔役でもない多くのクリスタリウムの住人たちには知らされることはない。だが、私はそれこそが在るべき姿で、それで良いと思っている。旅立つ前に、お時間を持て余された時に、ご友人に強請られた時に、あらゆる場面でお客様がふと思い出して足をお運びいただけるような場所。それを保つことが出来るなら私は全てを知る必要はないのだろう。

だからこそ、また店にお顔を出してくださった時はめいっぱいご奉仕させていただこうとご来店を今か今かと待ち侘びていた。依怙贔屓だ不公平だと言われてもこの際構わない。あの背中を見たならば、これ以外に私が取れる選択肢などないのだから。

そう、ずっと待っていた。旅立たれる前、いつものようにクッキーやキャラメルなど、甘いものや保存食をたくさん買い込んでいかれた時のお顔を今も鮮明に覚えている。たった数日しか経っていないというのに、お客様は随分とやつれていらっしゃった。
「いらっしゃいませ。お体はもうよろしいのですか?」
「ふふ、店長さんにまで知られているなんて……この通り、もう大丈夫です」

本当のことを教えていただけないことが分かっていても、それでも私は問わずにはいられなかった。お気を遣わせてしまったのだろう、むん!と腕に力瘤を作って見せてくださる仕草にも、凛としたお声にも隠しきれない陰りが見える。

無理もない。どうして水晶公がお客様方と一緒にお戻りにならなかったのか、私たちは詳しく知らされていない。だが、公はお客様の力になってくると仰って街を飛び出して行かれたのだ。ご同郷の皆様はそのご事情に深く関わっていらっしゃることは明白だった。

いつだってやさしく、強く、誠実なお客様が特別仲良くされていた公と共に帰れなかったことに深く、深く想われていることは想像に難くない。

初めてご来店いただいた時にお二人の間に確かにあった溝は、時間をかけていつしかあたたかい風が吹く穏やかな草原になっていた。お顔も名も決して明かさない公に対しての疑念の気配はあれど、お二人の関係性はただ『街の管理者とその客人』という言葉には留まらない色を持っていると側から見ていて感じる時が多々あったものだ。
「またすぐに発つので、その準備に……いつものクッキー、ありますか?」
「ええ、ございます。他にご入用のものはございますでしょうか?」
「そうですね……エクスエーテルを三ダースください。あと、シャードも」
「かしこまりました。確認してまいりますので、そちらにおかけになってお待ちください」
「はぁい」

お客様はいつものようにニコニコと朗らかに頷いて、最近店先に設置したばかりのベンチに腰かけられた。しゃんと座っていらっしゃるが、どこかくたびれた気配と薄くゆっくりとした呼吸がどうしてもお辛そうで、何かを押し込めようとされているようにも見える。

やはりご無理をなさっているのではないか、とまた『私』が顔を出そうとしてくるのを何とか押し留めた。努めて笑顔でお客様がお気に入りのクッキーの袋とエーテルの瓶、それにシャードが入った木箱を抱えて店のカウンターに戻る。
「お待たせしました。お品物でございます」
「ありがとうございます。あの、瓶とシャードはアマロポーターに届けてもらうことって出来ますか?」
「勿論です、むしろこちらからお伺いさせていただくことでございました」
「ありがとうございます。私じゃなくても仲間……水晶公の同郷に渡してくれたら大丈夫です」
「承知いたしました」

満足げに頷いたお客様は木箱の中から店の印を捺した紙袋を取り出し、とても大切そうに抱えられる。はにかむ眦はひどく穏やかに揺らめいていて、何故だろう誰かに背中を突き飛ばされるように、言葉が転がり出てきた。今、この瞬間を逃してはいけない、と。
「お客様」
「……はい?」
「実はクッキーのバリエーションを増やそうと思っているのです。またご来店の際、ご試食いただけますか?」
「本当に?私で良ければ是非。すごく楽しみだ」

まとっていらっしゃる空気がパッと華やいだ。毎回クッキーをご所望になるお客様なら、きっとお喜びになるだろうと計画を進めていた甲斐があった。お客様に影響されてかクッキー消費量が徐々に増えているらしい街のため、という大義名分を掲げつつ、実はお客様のお顔を思い浮かべて経営計画を練ることが出来る機会を見逃すことなんて出来ない。

そうして、ようやくご試食のお誘いをお伝えすることが出来て安心しただけではないだろう。本日お顔を見せていただいている中で一番の笑顔にやっと息を吐くことが出来て、ああ、お客様がいらっしゃってから私は肩に力が入っていたのか、と我が身のことながら今更自覚する。しかし、そうでもしなければ私は『ただの店主』ではいられなかった。
「ええ、私も楽しみにしています。だから、どうか……」

どうかご無事で。

どうかご武運を。

どうか、水晶公をお願いいたします。

いくつもの言葉が過っては舌に乗る前に消え、生まれそうになっては胸の内に仕舞い込んでいく。衝動で思い浮かんだその全ては私が言葉にするべきものでも、望むところでもない。

私の役目は、ただこの場所でお客様に普段通りの笑顔とお買い物の場を創り続けること。ならば、言葉にするべきは一つしかない。
「──またのご来店をお待ちしております」

深く、深く頭を下げるとツンとしたものが鼻の奥に襲いかかる。これもまた予期はしていなかった、この場には望まないものの一つだ。どうにか波が去り、ようやく長めのお辞儀から身を起こすとお客様は変わらずそこにいらっしゃった。いつもより目を丸くして、無尽光が見せた幻かあどけなさすら感じさせるお客様は、次の瞬間にはふと口元が笑みに緩んで常のお客様に戻られている。
「はい、必ず……次は仲間たちと、それに水晶公と一緒に」