雨音

思い返せば散々な日だった。

朝からやたらと機嫌の悪い上官殿に絡まれるわ、アルファ・アノールが出たから狩ってこいと追いやられるわ、討伐自体はバノック練兵場にいた鬼哭隊の奴らと難なくこなせたものの、そのままサボりついでに哨戒に出た瞬間に雨に降られる始末。

不幸中の幸いはすぐに雨宿り出来る岩場を見つけられたことくらいだ。気に入っているブーツとコートが泥塗れになっていたなら、今日はこのまま司令砦に帰る気もなくなっていただろう。

しかし、この雨には困った。アノールたちも岩陰に駆け込んでくるほどの雨足の中、走って帰るには些か距離がありすぎるし、何よりそんなことは粋じゃない。だから仕方ないんだぜ、と心の中でもお小言をガミガミ言ってくる奴に言い聞かせて、背負っていた竪琴を手にその辺の岩に腰かける。
「よう、ちょっくら邪魔するぜ」

岩の切れ目から仰いだ空からは、しとしと、細い糸が絶え間なく降り注ぎ、薄いヴェールのように森と俺とを隔てていた。静かだ。

こんな日には良い音が身の内から湧き上がってくると経験上、知っている。弦にふれると雨で冷えたのか雨のように細いそれは冷たく感じたが、弾いている内に気にならなくなるだろう。

小さなアノールの視線を感じながら一つ深呼吸をして、そうっと弦を爪弾く。

雨に溶けるようなやわらかい音は雨足に寄り添うように緩急が生まれ、酒場や家、戦場とも違う音の広がりを魅せる。やがて、自然と出てくる詞を旋律に乗せれば、俺自身が森と一体になったような感覚を腹の底に感じる。

もし、アイツが聴けば何と言うだろう。

不意に湧いてきた疑問に音が揺れる。いけねぇ、と気を取り直して雨に声を溶かそうとするが、いまいちさっきと感覚が変わってしまっていた。新しい音色は何処へ向かうのか。高く、低く。追いかけて手繰り寄せていく、この瞬間こそ吟遊詩人の粋を感じられる。

どれくらい音と遊んでいたのか分からない。あたたまってきた指先と声に調子が出てきた頃、ふと遠くから雨に異音が混じったような気がした。職業柄、種族柄、耳は良い方だと自負しているからきっと聞き間違いじゃない。静謐の向こうから、ばしゃばしゃと無粋な足音が近付いてくるようだ。
「ギドゥロ!」

予想通り、だが想定外の客がヴェールを突っ切って岩場に駆け込んできた。全身びしょ濡れにして、余程森の中を駆け回ったのだろうと見てとれるが、特にそこに言葉をかけることはない。
「おう、隊長殿。お前も雨宿りかい?」
「何を悠長な……討伐任務の後、なかなか帰ってこないから探しにきたんだぞ」

任務の後はすぐに報告に帰ってこいだの、哨戒に行くならせめて行き先は言ってからにしろだの、いつもの調子で隊長殿はガミガミとお説教を始めてしまった。適当に相槌を打ちながらも弦にはふれて、掴んだはずの音の名残を撫で続けていると、俺の歌が一等好きだと言って憚らないサンソンも流石に眉間の皺を深める。
「おい、聞いているのか!」
「はいはい、聞いてんよ。だけどよ、サンソン。よく俺がここにいるって分かったな」

尚もほろほろと弦を爪弾きながら素直に感心すると、当のサンソンはきょとんとしてさも当然そうに宣う。
「アンタ、ずっと歌ってただろう?分かって当然じゃないか」
「……この雨の中、歌を頼りに来たのか?」
「ああ、そうだが?」

正直、驚いた。

俺たちエレゼンと違ってヒューランの耳は特別良いわけじゃない。サンソンは戦場に立つ人間だから感覚は鋭い方だろうが、それでもあの雨足の中、特に声を張っていた訳でもない歌が聴こえたというのは俄に信じがたい。

なら、どうして聴こえたのか。
 
「そうだ、さっきの歌!あれは何という歌なんだ?今後のためにも教えてくれないか」

雲海を旅して以降、度々顔を見せる探究心の鬼が詰め寄ってきて思わず指が止まる。雨の中、探しに出てきたわけじゃなければ、きっといつものメモを取り出していただろう。
「ただの即興だ、なんてことねぇよ」
「即興……そうか、即興……」

やや鼻息の荒い好奇心の塊に気圧されつつ、竪琴ごと体を背けて返事をしてやれば、途端に分かりやすくしょんぼりした大牙士殿に少しだけ良心が疼く。酒場や街角で適当に奏でる即興演奏は二度と同じ音を出すことが出来ない、と常々言ってあるからもう同じものは聴けないとすぐに理解したのだろう。だが、このままでは俺の矜持に関わるし、何よりあまりにも粋じゃない。
「……同じじゃなくてよかったら、もうちょっと弾くけどよ」
「本当か?!ああ、でもアンタを連れ戻しに来たのに……」
「どうせこんな雨なら帰れねぇよ。たまには一緒に雷が落ちるところを見ようや」
「……仕方ない、雨が止むまでだからな」
「へぇへぇ、仰せの通りに」

俺がどうしてもと言うなら、という態度を装う隊長殿が側の岩に腰を下ろしたのを見てから、少し落ち着いた指先をまた弦に滑らせる。さっきまでとは全然違う音色は聞き手がすぐ隣りにいるからだろう。だけど、これもまた粋だ、とやわらかく口元が緩むと同時に詞が滑り出ていく。

雨を歌う、ひっそりとした声音はきっと俺たちにしか聴こえていない。今度は二人、ヴェールのこちら側で雨音に溶ける色を眺めていた。