00__蜃気楼

二百年ちょっとの眠りから目覚めて少し経ってから、ガーロンド社の若手技術者に妙な噂を教えてもらった。『夜、英雄譚の舞台でその物語を語ると本人の幽霊が出てくる』と。噂を教えてくれた奴も実際に試したらしく、本当に一瞬だったがぼんやりとした何かが浮き上がったのを見たそうだ。
「でも本人を見たことない俺たちじゃ、その幽霊があの英雄かは分からないんだよ」
「だから面識のあるオレを頼った訳か……こんなことやってて大丈夫なのか? 忙しいんだろ?」
「大丈夫大丈夫! ちょっとだけだから! な? いいだろう?」

正直、話を聞いてる間からずっとドキドキしていた。もしかしたら、計画が始まる前にあいつに──たとえ幻でも会えるなら、こんなに嬉しいことはない。それこそあいつみたいなフットワークの軽さで、オレは技術者のお願いを聞くことにした。

夜。野盗や魔物たちの目を掻い潜り、小さなランタンの光だけを頼りに英雄譚の舞台となった場所を目指す。

銀泪湖の隠れ家から一番近い場所となれば、クリスタルタワーしか考えられなかった。オレとも縁が深い場所だから、もし成功すれば相当はっきりとした姿が見えるんじゃないかと、オレたちは期待で胸を膨らませながら、かつて自分の手で閉めた扉の前へと至る。
「で、英雄譚を語るんだっけ?」
「そう! あれ? うわ、待って……本人から冒険の話を聞けるなんて、もしかして俺すごい贅沢してるんじゃ……」
「ははっ、今更かよ」

扉の外側の壁に二人で並んで腰掛け、ノアとして駆け回っていた時代を思い出しながら言葉を探す。まるで自分の氏族に伝わる歌を歌うように、ぽろぽろとこぼれ出てくる思い出。後世にまで語り継がれるだろう物語が生まれる瞬間に立ち会っていることへの嬉しさ、大事な時に置いていかれた悔しい気持ち。いよいよ語りはオレがこの扉の内側に入る直前まで終わったが、まだ英雄の影は見えない。
「あ、グ・ラハ! 見て!」

今夜の聴き手が扉から少し離れたところを指差す。その瞬間に立ち会おうとでも言うように光が集まって形を成していき、ぼんやりとした輪郭は次第にあの人を最後に見た時のものに変わっていく。

オレたちは思わず立ち上がってその姿が確かな形を取っていく様子を見守った。
「……英雄だ」
「本当か!? じゃあ……」

扉に向かってゆっくりと歩みを進めるあの人は、最後に見た時とは違って、泣き出す数秒前という表情だった。どうして。
『──てい───で』
「声、が」
『──はもっと─────────冒険──────言っ───』
「グ・ラハ……これって……」
「……ああ」

これは、後悔だ。

ずっと気になっていたけど、これではっきりした。幽霊と呼ばれている蜃気楼は、あの人がこの世に遺した気持ちだ。還れなかったエーテルの残滓が物語に誘われて形を取っているんだろう。英雄譚の舞台で物語を話すという条件が必要になるのもそれで頷ける。

だとすれば、ここにあの人の気持ちを遺させてしまったのは、オレだ。
「オレ、あんたに会いにいくから。だから、今度はしっかり聞かせてくれ……あんたの言葉」

すると、聞こえていると言うように、幻の英雄と目が合ったような気がした。すでに消えかけている蜃気楼に手を伸ばすと実体のないそれに手応えはないけれど、熱を受け取ったような気がした。
「……グ・ラハ、俺……」

蜃気楼の英雄と同じように泣きそうになっている若き技術者に笑って見せて、そっと人差し指を口に近付けて、今日のことはこれ以上語るまいと示す。
「ありがとな、この噂教えてくれて! ほら、帰ろうぜ」

完全に消えてしまった残光を大事に握りしめ、オレたちは隠れ家への帰路についた。