07__灯

穏やかな日だった。

本来のレイクランドならば美しい青空が広がり、風がそよぐ昼寝日和だったことだろう。きっと始まりの湖を照らす夕陽だって綺麗で、明かりの少ない迷える羊飼いの森なら夜は満天の星空で天体観測も出来る。

そのどれもがここにはない。

そのどれもを取り戻すために私たちは今日も牙を磨く。

ルネたち衛兵団のみんなは訓練と狩りついでに哨戒に出ていった。今日は肉を腹いっぱい食べさせてやるぞ、と息巻いていた新人が怪我なく帰ってこれることを願ってその背を見送ったのは朝飯後のこと。

哨戒には出ずに街に残った私は塔の周りを歩き回って、防衛機構の確認をする予定だ。例の如く塔から引っ張り出したアラグの遺物は皇血を持つ者の意志に呼応して、外敵を阻む障壁を張ることが出来る『優れモノ』らしい。

建築の知識のある面子と衛兵団、それと天気予報士たちと計算して、将来街の外周になる地点を計算し、防衛機構の要となる装置を数日かけて手分けしながら設置した。今日各地の最終確認ついでに要へ私のエーテルを流し込んでやれば、有事の時に街を護る防衛機構の出来上がりだ。

塔の側面と山手の方は昨日までに終わらせてあるから、残りは塔の正面──衛兵団が作っている関所より内側の一帯で終わる予定だ。早速、関所の横に置かれている要に手をかざして今日の分の交感を始める。

私としては最短で終わらせるために一日中でも歩いて回るつもりだったのに、「ちゃんと休みながらにしろ」「夜に出歩いたら塔の中で肉を焼いてやる」と言われて渋々数日に分けて要を巡ることになった交感の『旅』も今日で終わる。それに、私がいなくちゃ決まらないことがあると言われた日には、押し切って出掛けるわけにもいかなくなってしまった。私は存外、みんなの役に立てているのかもしれないと素直に思うことが出来るようになってきたのはつい最近のことだ。

一つ終わったら少し歩いてまた次の要へ。今日はこれを繰り返して、夕飯前には終わって夜にはイヴに読み書きの課題を見てもらう予定だ。ジーナとの手紙のやりとりで随分と上達したがまだ十分とは言えないから、と無理と言って練習に付き合ってもらっているが、彼女も忙しい身。そろそろ独力で学び始める頃だろうか。言葉も剣も魔法も着実に前に進んでいるという実感がある。それはきっと街のみんなも同じだ。生き急いだり、諦めたりする空気よりも忙しさの中で今日と違う明日を求める気持ちが強くなっていると私は感じていた。

また一つ、要の核にうっすらと光が灯る。残りはあといくつだったか。たまに要の足元に置かれている誰かの差し入れを頬張りつつ、修理してもらった弓と持つことに慣れろと言われた剣を取り直して次の地点へと赴く。

それにしても、塔に眠っている遺物の中から防御機構の要を見つけられたのは嬉しい偶然だった。発掘した時に大喜びしすぎてイヴに引かれたのは良い思い出ということにしよう。

見た目はアジス・ラーや博物戦艦フラクタルコンティニアムに設置されている制御装置に似ているそれにはご丁寧にメンテナンス方法の解説書がつけられていて、その装置がかつてアラグ帝国の街を守っていたものだということも教えてくれた。恐らく過去の技術者たちも今の私と同じように、解説書を片手に要を巡って調整をしていたのだろうと思うと、なんとも言えない感慨深さを感じる。

現状、罪喰いたちから身を護る術に乏しい私たちにとってこれ以上ない宝物は難しい術式も儀式も必要ない、構造も原理も簡単なもので本当に助かった、ともう何度目か分からない交感をする。
「おーい、兄ちゃーん」

良いペースで進められたお陰で、火の入っていない要はあと二つを残すばかりだ。まだ慣れないエーテル操作に凝り固まった体をぐっと伸ばしていると、医療館作りを担当している大工がやってきた。

聞けば西の空、ラクサン城の方角に妙な雲が見えるらしい。衛兵団から頼まれて私を呼びにきてくれた大工に礼を伝えてから、塔の正面にある今後衛兵団の関所が出来る予定地に先んじて作った物見台に登る。依然として光の力が強くて停滞しているレイクランドに風はないし、そもそも雲が出ることもおかしい。

今回真っ先に異常を見つけた見張り番が指差す方へじっと目を細めると、それは確かに遠くにある雲のように見える。だが、徐々に大きく濃くなっていくそれは決して自然のものではなかった。

白く蠢く塊、空を覆い尽くすのではないかと思うほどの罪喰いの大群だ。
「あれは……警鐘を鳴らせ! 罪喰いの大群だ!!」

私の声に弾かれたように見張り番の衛兵は物見台に備えておいた鐘を渾身の力で叩きつけた。鐘の音を聞きつつ、私はすぐに物見台から飛び降りて、近くで道を整えてくれていた非戦闘員をまとめて塔へと追い立てる。
「塔に向かって走れ! 負傷者は協力して運べ! 戦わずに走れ!」

決して焦らず、慌てさせず、手筈通りに塔への道を走らせる。逃げ遅れる奴や気付かないで置いていかれる奴が出ないように声を出し続けて、ひたすらに走り続けた。

大型の罪喰いがもう存在しないはずの感情の残滓によってふっと嗤うように顔を歪め、手に持った立派な剣を振りかざすと煽られた雑魚どもの耳障りな叫び声と羽音が響く。混乱しきった人たちの後ろについて、決して諦めることのないように鼓舞しながら塔へ向かって一緒に走る。飛んでくる攻撃と白い体を弓矢で撃ち落とし、まだ振り慣れない剣で薙ぎ払いながら、私はこの危機を乗り越えるための道筋を探り続けていた。

ルネと出会った時より、ディアミドを喪った時よりもずっとずっと数が多い上に強い個体が多い。特に先陣を切る一番大きな個体。大きな翼を背負った姿はエオルゼアの森の遺跡で見た像とよく似ている。荘厳ささえ感じる美しい脅威は押し潰さんばかりの無を以って諦めろと私たちの道を閉ざそうとしてきて、不気味な圧力ばかりが無尽蔵の光と共に降り注ぐ。

こんなにも早く、罪喰いたちの襲撃を受けるなんて。

街づくりを進める中、防衛策は最優先に考えて行動しているとはいえ、まだ情報が不足していて奴らへの対抗策はまだ完全とは言えない。勿論、生き物のエーテルに引き寄せられているらしい奴らが街を見つけ、襲撃してくることを想像していなかった私たちじゃない。だからこそ、早く塔へみんなを集めて私は私の戦場に行かなければいけない。
「青年! ここは任せろ!」
「ルネ! みんな!」

塔から回り込むように現れた騎士たちは剣を抜き放ちながら、我先にと人の波に逆らって敵を討ち取りに駆けていく。古くても丁寧に手入れされた彼らの魂は、罪喰いの発する光を浴びてひどく美しく輝いていた。共に生きると約束をした者たちの道を護る彼らの無事と武運を願って、めいっぱいの大音声で戦歌を贈る。それに応えるように殿を引き受けた戦士たちも吼え、目の前に襲い来る脅威に向かって武器を振るう。
「すぐに障壁を張る! 内側で戦ってくれ!」
「応っ!」

剣戟の音が空高く響く。

激しい動きに合わせて生き物のように翻る赤いマント。

ルネたち精鋭部隊は走りながら陣形を取って、攻守を巧みに切り替えつつ罪喰いの侵攻を押し戻していく。その息の合った動きはまるで一つの大きな生き物のようで最終防衛線、障壁の外へ奴らを押し返せるのも時間の問題だ。

戦線に戻りそうになる我が身を必死で引き戻しながら、塔へ向かう人の波に紛れて途中で脱落しそうになる人の手を引き、先を行く人へと預ける。それを何度か繰り返して、塔のすぐ側の安全な場所へ街の住人たちを集めた。

念の為、既に集まっているみんなにはバニシュをかけてせめてもの目眩ましを施す。もし罪喰いが近くまで来たら塔の中に逃げ込むようみんなに言い含めて、私は近くの要まで走った。交感している間は無防備に近くなるが、護衛をつけられるほどの余裕があるはずない。今はただ、最速で障壁を張る手筈を整えるだけだ。

火の入っていない要はあと二つ。今いる場所から近い一つと、塔の中にある一番大きな一つ。

ここで諦めるわけにはいかない。諦めるはずがない。きっとあいつなら考えるよりも早く、自分に出来ることをするために戦場を駆ける。あいつに出来て、オレに出来ないなんて道理はない。

すぐに辿り着いた要には、どこから嗅ぎつけたのか小型の罪喰いが群がっていた。
「そこをどけ!!」

弓よりも速く数を殲滅する手段、教わりたての破壊の術式を練り上げ、腰に提げていた剣を杖に見立てて振り下ろしエーテルの指向性をつけて群れの頭の上から落としてやる。想定よりもかなり大きく仕上がった火球は寸分の狂いもなく命中する。普通の生き物なら肉の焦げる臭いでもしそうだが、奴らと同じ不自然な白さの粒子が舞うだけだった。

こんなところにまで奴らが来ているなんて。早く障壁を張らないと、折角進み始めた足が止まってしまう。

すぐに要に手をかざして、いつもの二倍、三倍の量と速さでエーテルを流し込む。要を起動させるのは私の中に流れる皇血のエーテル、それが一定量溜まればいいのだから一気に入れれば時間短縮になるはずだ。そして、その読みは当たったようでいつもより早く要に光が灯る。これで塔の外にある防衛機構は仕上がった。あとは、塔の中の大元に火を入れればすぐにでも起動出来る。

念には念を、と起こしたばかりの要に目隠しを施そうと再び右手をかざし術を練ったその瞬間、体の奥でパキッと何か亀裂の入る音に似たものが響いた。驚いて手を引っ込めて見たが特に異常はなく、一応覗き見たクリスタル化している胸のあたりにも何もない。また手をかざして術を組み直すと、今度は特に何事もなく要は視界から消えた。ただの聞き間違いだったか、と安堵した私は塔へと踵を返した。

行きよりも早く辿り着いた塔の前にはまだ罪喰いたちの姿はなく、みんなにかけたバニシュも消えていないようだった。
「兄ちゃん、無事か!」
「大丈夫! 今から障壁を張るからもうちょっとだけ辛抱してくれ!」
「目眩ましを解いてくれ、塔の君。衛兵団の様子を見てくる」
「俺も!」

側で上がった声を頼りに二人分だけ術を解くと、途端に駆け出していく背中はイヴと彼女の弟子の少年だ。
「絶対に戦うな! 必ず帰ってこい!」

こちらを振り返らず、背中を向けたままイヴは手を一度だけひらりと振って弟子を連れて森に姿を消した。

心配していないわけがない。今にも胸が潰れそうだが、私は私に出来ることをしなきゃ。塔へ身を翻した背中を見えない手に押され、勢いづいたまま駆け出していく。あと一つ、これが大きな一歩になる。

転がり込んだ塔の中は外の喧騒なんて嘘みたいに静まり返っていて、その中を私の足音が切り裂くように真っ直ぐ最後の要へと突き進んでいった。

あの時、英雄たちが駆け上った螺旋階段を、今は私一人で往く。

こみ上げる熱がもうヒトとは言えない胸を焦がす。

体に当たって邪魔な弓も、剣も途中で投げ出して、足がもつれるのも無視してただ上へ、上へと駆ける。

鏡のある部屋よりも上、あの日あいつの背中越しに太陽の光を見た玉座のすぐ上の階層に防衛機構の要は静かに佇んでいた。ここまで走ってきても息一つ切らしていない自分の体とあの時の決断に感謝しなきゃいけない。きっとヒトの身なら成しえなかっただろう。いいや、あの人なら出来ていたのかもしれない、と英雄の背中を思い出してふっと肩の力が抜けた。

要の側に置いておいた杖を駆け寄りざまに手にさらい取る。ユールモアとの会談の前に威厳をつけられれば、と手にしたその杖の先には淡く光るクリスタルが埋め込まれ、古い文様が象られている。それが意味するところは最早知りえないけど、ここまで走ってきた今ならその役目は分かる。

これは鍵だ。術者と防衛機構だけじゃない、クリスタルタワー自体との接続をより深く、密接にしてくれるもの。本来、杖とは術の指向性を持たせる指揮棒のようなものだが、この古い杖にはそれ以上の役割を果たすことが出来る力が眠っている。

取り落とすことのないようにぐっと杖を握り締め、目を閉じて内側へと意識を集中する。私自身の、そして塔から引き出せるありったけのエーテルを練り上げて杖に集約させ始めた。

渦を巻くエーテルの奔流。

もう少し、溢れる直前まで。

ふと、青い空が目蓋の裏に広がる。その先には──

臨界。
「っ頼む、動いてくれ!!」

眩い光を放つ杖を思い切り地面に叩きつける。

共鳴、覚醒。

芯に強く、しかしやさしい光を灯した防衛機構から放たれる古い約束の血を纏ったエーテルは質量を持った波紋となってクリスタルタワーへ、そしてレイクランドの大地へと伝わり、私の望みを叶えようとその機構を駆動させ始めた。地下深くからゴウッと凄まじい轟音が鳴り響いている中、私はすぐ近く、外が見られる始皇帝の玉座へと走り出ていく。

私が知っている第一世界の空は、恐怖さえ感じるほどの光が降り注ぐ無彩色だけだった。だが、見上げた空は──それは、まるで星空のようだった。イシュガルドの占星術師の末裔に見せてもらった天に拮抗する術のように、光の溢れる空に束の間の夜空を映し出していた。地上を見ると、みんなに配置してもらった古代の遺物がひとりでに浮いて点を繋ぎ、膨大なエネルギーで以て外界からの攻撃を防ぐ障壁を作り出している。半円状の障壁は地上を、空を駆けてやってくる敵の侵入を許しはしない。

障壁の外側では展開の時に巻き込まれたのだろう、その身を真っ二つにしつつもまだ粒子になりきっていない大型罪喰いの姿があった。じきにあれも他の個体と同じように消えてしまうだろう。統率を失った小型の罪喰いたちは障壁が越えられないことを悟って、やがて散りぢりに去っていった。ひとまずの危機は去った。
「出来た……!」

エーテルを根こそぎ使ったせいか、それとも成功に安心したせいか手足に力が入らない。杖を両手で握って支えにしてやっとガクガクと震えて崩れそうになる体を立たせることが出来ている状態だ。酷いざまだが、今はみんなを守れる新しい手段を得たことを喜びたい。

玉座から覗いている影に気付いたのか、最後まで殿を務めてくれていた騎士たちがこちらを振り仰いで手を振ってくれている。彼らの誰も欠けずに危機を脱したことは奇跡だ。むくむくと湧き上がる喜びを以て私も彼らに応えようと、右手を上げたその時。

音が響いた。
「ぐ、う……っ? ああ……っ!!」

痛い、いたいいたいいたい。何が起こった、新たな襲撃か、みんなは無事か。確かめようにも痛すぎて、涙も出ないのに視界がぼやけて何も見えない。いつまで経っても引いていかない激痛の正体は何だ。指向性を持ったそれは内側から生じている。これは胸、いや、心臓から右腕に向かって、体が作り変えられるようなとんでもない奔流が幾度も幾筋も体中を走り抜けていく。バキバキと湖の表面が凍るような音が内側から響いて。逃げられない。

意を決して痛みの行く先へぼやける目を遣ると、手を振ろうと上げようとしていた右腕が丸ごと塔と同じ碧いクリスタルへと変容していこうとしていた。朧げながらも見てしまったそれに、芯が凍りつく。

どうして。

この街を作ると決めたあの日、結晶化させた心臓あの日から今日までずっと侵食がなかったのに。

何故。

このまま結晶化し尽くして、私は塔に取り込まれるのか。駄目だ、まだこんなところで死ぬわけにいかない。

しかし、耐えきれない痛みに思考がまとまらない。手にも力が入らず、取り落とした杖がガラガラと重い音を響かせて地面に転がる。折角ご先祖が遺してくれた貴重な杖に傷が入っていないといいのだが。

杖という支えを失って遂に耐えきれず、ガクリと糸が切れた人形のように膝から落ちていく。体に広がっていく激痛より強い痛みが存在しないからか、地面にぶつかったはずの体に衝撃は感じられなかった。もしかして感覚も失ってしまったのだろうか。だとしたら、都合が良い。
「おい! しっかりしろ!」

水の中で音を聞くような、ぼんやりとした声が遠くから聞こえた気がした。きっとこの声は騎士ルネだ。彼はまるで御伽噺に出てくるような騎士のようで、オレはちょっと羨ましかったんだ。誰よりも先に敵に突っ込んでいって仲間を守る背中が私たちの前を駆け抜けるあいつや、あいつを護った彼のようだったから。

どうか、心配しないでくれ。みんなよりちょっとだけ丈夫になったんだ。だから、まだ助けが必要な人のところへ。オレは大丈夫だから。

伝えるための声は出ず、また暗幕がかかったように何も分からなくなった。

「起きたか」
「……ああ」

微睡みと呼ぶには重く、意識の途絶が復帰しただけにも感じられる覚醒は静かな声に迎えられた。視界だけを巡らせると薄ら輪郭が見える程度の暗がりの中、鎧を着込んだままのルネが椅子に座って私を見下ろしていた。分厚い布で作り出された闇は罪喰いに襲われた者の治療のために将来、医療施設になる場所に作ろうと治療士が提案していたものだ。きっと急に倒れた私を想って急造してくれたのだろう。
「……みんなは?」
「障壁のお陰で無事だ。本当に、ありがとう」
「そっか……よかっ、たぁ……」

目元を覆おうと上げた右腕はそのままルネに掴まれ、止められる。だが、掴まれているはずの腕の感覚が鈍い。まだ魔道士として半人前のくせに大技を使ったからか、でも塔に接続しているから他のみんなより早く治るだろう。だから、大丈夫だ。
「……そのままでは、怪我をする」

何かを耐えるようなルネの声音に疑問を感じ、まだ暗さに慣れない目で掴まれた腕を見遣る。そこには塔と同じクリスタルで覆われた、いや、クリスタルそのものになった腕が暗い中でも淡い光を放っていた。自分の目で見ているものがまだ信じられなくて、ゆっくりと重い左手を持ち上げて自分の右腕らしいものにふれる。まだ人の肌の色をしている左手で感じられる冷たく硬い質感は、まさしくクリスタルタワーと同じものだった。

だが完全にヒトらしさなんてないクリスタルに成り果てても、まだ感覚が鈍く残っている。
「夢じゃ、なかったんだな」

ほう、と息を吐きながら溢れた呟きはあまりに小さく、きっと側にいる騎士にも聞こえていないだろう。意外と冷静な頭に自分でも驚く。もしかしたら、塔と同化を始めたあの日、心臓が結晶化したあの日から私はヒトとしての何かも凍りついてしまっていたのかもしれない。

腕をそっとベッドに導いて置いてくれたルネはそのまま脇に跪き、腰に帯びていた剣を抜き放って両手で頭上に掲げた。ただの研究者でしかなかった私には縁のない叙勲式、宣誓の時に見られる作法だ。英雄譚に憧れてあれこれ調べたり読んだりしていた時に見たことがある。そんな彼をただ静かに見つめる。暗い中でも彼ら騎士の魂である剣は鈍く光っていた。
「民を助けた英雄たる君は、名実共に我らの王に相応しい。これは私だけではない、街中の総意だ」

英雄。

その名を追いかけているだけの私には過ぎた評価だ。オレはただ、他人の願いに背中を押されて、ただ、ただ駆け続けるしか出来なくなっている只人でしかない。勿論、王だなんて以ての外だ。
「……やめてくれ。本当に、私はそんな器じゃないんだ」
「しかし……」
「頼むよ、ルネ。私は、そういう存在になることを望んでいない。剣を納めてくれ」
「……そこまで言うなら」

立ち上がったルネは残念そうではあるが、しかし元々私がこう答えると分かっていたように剣を納め、またギッと苦しげに木を軋ませて椅子に腰を下ろす。
「だが、忘れないでくれ。誰もが君に感謝をしている……どうか、それだけは覚えていてくれ」
「……私は、私のやるべきことをしただけだ……でも、ありがとう」

ぐっと腕に力を入れて起きあがろうとした矢先、意識に靄がかかり持ち上がりかけた頭が枕に沈む。抗えないこれは、眠気ではなく、限界まで駆動した機械が壊れる前に電源を落とすようなものだ。たとえ塔との接続で体力もエーテル量も無尽蔵に近くなったとしても、精神はカバーしきれないらしい。
「……青年、今は休んでくれ。そうすれば、また歩けるようになる」

悲痛な声に、そんな悲しまなくても大丈夫だと伝えたくても、口を動かすことすらままならないほど暗がりが私の腕を引いている。枕に沈んだ時に乱れた髪と耳の毛並みを梳く手のぬくもりを感じながら、私は暗い底へと身を落とした。