08__旅立つ者たちへ

ローブの裾が風に揺れる。

第二の街の象徴と言えるエーテライトを囲うように作られた円蓋の座からクリスタルタワーを眺めると、今日も碧い塔は街に冴えざえとした輝きを落としていた。眼下のエクセドラ大広場ではタイルを敷き詰めている人々の背中が動いていて、たまに私の影に気付いた人が手を振ってくれている。それに手を振り返していると、背後にいくつかの足音が近付いてきた。
「水晶公」

まだ耳慣れない名で私を呼ぶ声に振り向くと、アウラの幼い少年が駆け寄って足に飛び込むようにしがみついてきた。丸い頭をそうっと撫でて、彼が走ってきた方へ視線を向けると揃いの黒いマントを羽織った一団が私たちを見守っていた。私たちの街に住まう人々の五分の一ほどがいるだろうその集団の中から、長い耳を揺らしてイヴが進み出てくる。
「……行くのか」
「ええ、私たちは森へ発とうと思う」
「そうか……寂しくなる」

障壁を展開したあの日からも罪喰いたちは街の近くやクリスタリウムと各地を行き来する隊商の前に現れ、戦闘になることが多々あった。医療館の病床が空く日はまだ来ない。そんな日々にやがて立ち続けることが難しくなる者が出た時、傷ついた心に寄り添ったのは祈りだった。

喪われた大切な人や故郷の安息をただ静かに、穏やかに祈りたい。そんなかんたんな願いも戦いの中ではままならない。だから、彼らは今一度、安寧の地を求めることを決意したのだ。

ぐりぐりと頭を擦り付けている少年の髪を撫でつつ、旅支度をすっかり終えた彼女らへと視線を送る。決して責める気持ちはないと伝わるように、真っ直ぐ。それに応えるように、イヴも一つ頷いて口を開く。
「あなたの生き方はとても気高い。私もそう在りたいと願わずにはいられない」

肩から荷物を下ろしつつ、イヴが私に歩み寄ってきてくる。ずっと人々の間でそれぞれの心に寄り添い、ふれ合い続けていた彼女の目に決して諦めの色はなかった。
「……だが、誰もが皆そう在れる訳ではない。ならば……私は遺された者たちが前を向くための、一つの道を作ろう。いつかこの空に美しき夜闇が戻る時を信じて、祈り続けよう」

見なくなって久しい光の神に祈る仕草を見せたイヴに続いて、背後に控えている一団の中の数人も祈りを捧げる。旅の無事を祈る意味を持つとかつて彼女の師に教わったそれを、私もぎこちなく真似をする。
「……戦いを避ける道を選ぶことが出来ない私を……どうか許してほしい」

イヴと黒衣の一団へ深くふかく頭を下げる。鼻の奥がツンと苦しい。引き結んで唇を歪ませたひどい顔を最後に見た私の姿にはしたくない。必死で押さた感情をフードの下に仕舞い込んで、顔を上げた時には笑顔を作ることが出来ていた。イヴも釣られるようにして、彼女らしい呆れ顔で眉を下げて微笑んでくれた。
「必ず、この子たちやあんたたちの子孫に夜を届けるよ。今まで本当に、本当にありがとう」

イヴは第一世界に来たオレに言葉を教えてくれた師だ。言葉だけではない、それに内包される文化、歴史、彼女たちが代々育んできたものを何も知らない、何も語らないオレに辛抱強く語ってくれた。それがあればこそ、『水晶公』は立っていられる。時に姉のように、またある時には母のように接してくれていた人の旅立ちをどうして笑顔で見送らずいられるだろう。
「ああ、そうだ。この機会にあなたの名を教えてはくれないだろうか」
「……すまない」
「そうだな、その方が良い。ああ、気にしないでくれ。駄目元で訊いたんだ、大切な誓いならば仕方ない」

少しも迷わずかぶりを振った私に軽く返事を返しつつ、小さなかけ声と一緒に足元に置いた荷物を背負い直した彼女は私の足にしがみついていた少年を呼ぶ。何度か名を呼ばれてやっと名残惜しげにローブを離した彼に微笑みかけて、その背を見送る。
「どうか、あなたの名が光に焼かれぬように大切に抱えていてほしい。その名こそが本来のあなた自身、あなたの本質なのだから。私たちも真の名を胸に隠し、生きていこう」
「ああ、汝らの旅路に幸多からんことを……同じ空の下、共に闘う全ての人々にクリスタルの導きあれ」

再び深く頭を下げ、今度こそ最後の別れの挨拶を交わす。

やがて遠ざかる足音が聞こえなくなり、鉄橋を渡っていく後ろ姿すらエーテライト越しにも見えなくなって私は円蓋の座を降り、塔へと歩き出した。見上げたクリスタルタワーが一等眩しく輝いている。