墓穴

かつてはフォドラ全土に祈りという救済を齎したガルグ=マク大修道院の荘厳な佇まいは戦火に焼かれ、母を失った今は遠い面影と瓦礫の山を遺すのみとなった。それでもなお静謐さは喪われず、威光の名残を標に集った人々の夜に寄り添っている。

殊、破れた天井から星々が覗く大聖堂には夜ごと、祈りを捧げに訪れる人々が後を絶たない。明日のため、去っていった同胞のため。理由も在り方もそれぞれ異なっていたとしても、辿り着く願いは同じだ。

だからこそ、あの影──ディミトリは一際目を引く。

大聖堂の奥は特に損傷が激しく、瓦礫が積まれたままになっていた。その瓦礫をディミトリは一心に見つめている。誰かと言葉を交わすわけでも、祈るわけでもなく、幽鬼のように立ち尽くしているだけ。ろうそくの細い灯りに照らされてもなお、ディミトリの青白い顔に生気が戻ることはない。

月明かりの下へ一歩踏み出せばすぐに彼の間合いに入る。だが、言葉をかけることはしない。出来ないのだ。

生徒たちやギルベルト殿たちと合流してから迎えた初めての夜。さまざまな目的を含んだ見回りの折、今と全く同じように立ち尽くすディミトリの背中を見つけた。戦場で槍を振るっている時か軍議の時以外はほとんど瓦礫の山を見つめて過ごしていることに気が付いて、いよいよ声をかけたのが一つ前の節の半ばだったはずだ。

返答はおろか、反応すらない。ただただぼんやりと虚空を見つめたまま、色濃く浮かぶくまと対照的に光る目に二の句を継ぐことが出来なかった。

彼には何が見えているのだろう。

彼には何が聞こえているのだろう。

誰も疑問に答えることはできず、またディミトリ自身も答えは持たない。

だから、彼が自分たちの声に振り向いてくれるまであらゆる方法で問いかけ続けると決めた。あの碧眼が瓦礫の山ではなく、彼を思う人々に向く時まで。
「おい」

振り返れば仏頂面どころか怒っているのかとさえ思うほど険しい顔を貼り付けた男が月明かりの下で仁王立ちしていた。一歩、否、二歩踏み込まなければ足りない絶妙な間合いの向こう、男は何も言わないこちらに苛立ったのか肩をいからせた。
「フェリクスも散歩?」

何が言いたいのか分かっていてわざと問いかけると、フェリクスは怒気を孕ませた吐息を一つ溢す。どうしてもこういう時の彼は困らせてしまいたくなる。
「……何もしないのなら早く部屋に帰って休め。自分の立場を分かっていないとは言わせないぞ」
「……少し、気になって」
「ならば尚更だ」

一歩踏み出したフェリクスの顔に影が落ちた。ディミトリを見つめている内にいつの間にか月が傾いていたらしい。自分のいる場所も半分暗闇に取り込まれていた。
「どうにかしろ、とは言った。だが、己を犠牲にしろとは言っていない」

初めてフェリクスと言葉を交わした時にも感じた、刃のようだという印象。決して間違っていなかったのだな、と今になって思う。幼さの代わりに精悍な面立ちに成長した彼の友から真っ直ぐで強く、やさしい言葉を受け取ったと伝えるために大きく頷く。
「ありがとう。フェリクスもちゃんと休むように」
「ふん、俺のことに気を回すくらいならはじめからしっかりしていろ」

ひらひらと追い払うように手を振られては仕方がない。振り返る前に一瞥、月明かりが射す大聖堂の奥を見遣る。ディミトリはまだそこにいて、しかし夜闇に解けそうなほどに揺らいでいた。

五年。自分のいなかった時間。彼は深みに親しみすぎた。

救い上げる、だなんて大それたことを言える立場ではない。ただ、一緒にいたいだけだ。それはこれまでもこれからも変わらない。

見過ぎだ、とフェリクスが視線で早く帰るように訴えてくる。生徒に怒られるなんて情けないという意図を込めて微笑んでから、二人に背を向けた。

明日は何を話そうか。彼の瞳がこちらを捉える瞬間を想うと、明日を迎えたがる体が歩幅を一つずつ大きくしていく。一人分しか響いていない靴音は暗闇の中でも少しばかり跳ねていた。