本の続きは

「呆れた。あなたたち、まだ休んでいなかったの?」

頭上すぐから降ってきた声で二人の肩が息を合わせたようにビクリと跳ねた。本の海と化したナップルームの床に座り込んだ賢人グ・ラハ・ティアと暁の英雄は顔を見合わせてから、恐るおそる視線を上げる。そこには期待通り、腕組みをして夜更かし二人組を睨めつける黒衣の魔女ヤ・シュトラが待ち構えていた。

内心冷や汗が留まらない英雄その人は精一杯の笑顔を貼り付けて、手にしていた本を背中に隠す。彼女が部屋に入ってくるまでグ・ラハと英雄が何をしていたのか最早隠しようがないことは百も承知だが、彼らの最後まで諦めない性根が悪足掻きをさせる。
「……シュトラ、これには紅玉海の海溝よりも深い理由が」
「言い訳は見苦しくってよ。今すぐ本を閉じて、ベッドに戻りなさい」
「でも、もう少しで良いところなんだよ。君だって分かるだろう? 今は止められないんだ」
「あなた、自分の状況を分かっていて? 酷い大怪我をした直後ということを忘れているようね」

ヤ・シュトラが背負っていた杖を手に取り一振りすると、今はただ療養中の冒険者の手の中から本がひとりでに逃げ出し、まるでそこがあるべき場所だというように魔女の手の中にすっぽりと収まった。

冒険者の黒い尻尾が床を叩き、ペシペシと硬い音を立てて名残惜しそうにしていてもヤ・シュトラは意に介さない。彼が読んでいたのはドマが舞台の冒険活劇だ。東方の属州総督府が崩れた報が各地を駆け巡った頃、程なくして出版された物語は実在の人物を題材にしていると噂が噂を呼び巷で大流行。話題を聞いた冒険者も興味を惹かれていたものの、すぐに帝国との戦線を、更には第一世界を飛び回ることになり、とてもではないが本を読む時間など取ることが出来なかった。そうして宇宙の果てから帰ってきた今、ようやくゆっくりとページを捲ることが出来たのだ。

物語はドマ城を占拠した悪代官めがけて主人公たち一行が斬った張ったの大立ち回りをしている場面。そんな大一番の途中で眠れるはずもなく、冒険者は諦めきれずに隣りで本を広げていたグ・ラハに助けを求めた。
「グ・ラハ、君からも何とか言ってよ」
「……ちゃんと寝ようぜ? またヤ・シュトラにサンダガ落とされるぞ」
「う、嘘だろ」

紅い瞳が予想外に咎めるような色を帯びていて、冒険者は幾重もの意味で衝撃を受ける。グ・ラハが絶対に味方をしてくれると何の疑いもなく思っていたこと、裏切られたような気持ちになったこと、自身はまだ本を読み進めるつもりのようでずるいこと。冒険者の尻尾がバシバシと床を叩いても、老成した部分を持つ紅い賢人には効果がない。それどころか、どこか微笑ましそうにさえしている。

しかし、一歩引いた様子のグ・ラハを引き摺り出したのはやはりヤ・シュトラだった。
「グ・ラハ・ティア、あなたもよ。聞き分けのない坊やじゃないでしょう?」

人間の主食が人参ではないと知ったレポリットのように目を丸くしたグ・ラハは、おもむろに広げていた本を背中に隠した。勿論、一部始終を見ていたヤ・シュトラが許すはずがなく、ひと睨みされた紅い賢人様は大人しく読みかけの本を魔女に献上する。落胆の深さを示すようにいつもは元気な耳がぺったり萎れてしまっていた。
「明日はタタルが美味しいお茶を淹れてくれると言っていたわ。本と一緒にいただきましょう」
「シュトラ、君も休んで」
「ええ、寝ない子たちが休んだらね」

ゆっくりとした動作で冒険者が部屋に備え付けの、グ・ラハがその隣りに追加で配置された簡易式のベッドにそれぞれ潜り込んだことを確認したヤ・シュトラはパチリと指を鳴らす。ふっと部屋の照明が落ち、窓の外から射し込む月明かりがぼんやりと部屋の中の輪郭を浮き上がらせた。
「アジントタ、良い夢を」