血肉となるものよ

とっぷりと夜が満ちたアーモロートはいつにも増して甘やかな微睡みのような静けさを湛えている。

今にも街が醸し出す眠りの誘惑に屈しそうになりながら大通りを歩く二人がいた。十四人委員会のエメトセルクの座に就くハーデス、そしてアゼムの座を冠するその人だ。

普段なら夕方には終わるはずの十四人委員会の定例会が珍しく白熱し、文字通り朝から晩まで長引いてしまった。しかも、その話題の中心がほとんどアゼムの持ち込みだったこともあり、誰よりも発言していたアゼム自身は勿論、元来のお人好しで補足やフォローに回らざるを得なかったエメトセルクまでもくたびれきってしまった。

内心はさっさと家まで転移して眠りたい願いで塗りつぶされているが、今夜の彼らはその手段を取ることはない。星を代表する二人が並んで歩いていれば嫌でも目立つが、まだ人通りのある大通りで肩を並べる二人は役目を負った者としての矜持だけで胸を張って、しかし普段より随分と口数少なに歩いていた。

ふとアゼムが視線を足元に落とす。街灯の横を通り過ぎる度に伸びては縮む影を見て追いかけっこのようだ、と幼い日を懐かしんで口元をゆるませた頃、動かない一本の影が目に入る。
「やあ、お疲れ様。随分と長引いたね」

街灯の下に立っていた親愛なる悪友ヒュトロダエウスは二人に手を振っていた。肩にはアゼムが夕方に伝令として遣わせた小鳥型魔法生物を乗せている。伝令を受け取ってもらえたことに少し安心したアゼムはヒュトロダエウスの元へやや小走りで歩み寄ると伝令の小鳥を引き取って、エーテルを解いた。
「ヒュトロダエウス……! ごめん、遅くなってしまって」
「フフ、大丈夫。ワタシもさっきまで仕事を片付けていたから、そう待っていないよ」

心なしか彼もいつもよりくたびれているように見える、とハーデスは視界に揺らぐヒュトロダエウスのエーテルを見てアゼムの後ろで眉間の皺を深くしていた。ヒュトロダエウスの仕事振りは彼もよく知るところだ。同時に生真面目な部下がいつも悩んでいることも。
「……またあの部下を困らせたのか? いい加減にしないとその内、雷を落とされるぞ」
「そうだね、そこそこにしないといけないね」

大きく溜息をついたハーデスが尊大に腕を組み、二人に問いかけるような視線を寄越す。その眼差しも疲れがちらついていて今日という日がどれほど重い日だったのかが伺い知れた。
「しかし、もうこんな時間だ。店はどこも開いていないだろう? 延期するか?」
「えっ」

ハーデスの言葉で露骨にがっかりしたのはアゼムだ。ヒュトロダエウスは何故かいつものニマニマ顔のまま、「えー」などと言っている。

今日は本来、三人で食卓を囲む予定だったのだ。ただ、ハーデスの言うようにかなり夜も更けており、目星をつけていた店は勿論、アーモロートの中で開いている店を見つけることは出来ないだろう。
「今日の食事会を楽しみにあんなに頑張ったのに、そんなのってないよ! ハーデスの鬼!」
「うるさい騒ぐな。しかし、どうしようもないだろう……」

言い聞かせるような言葉と態度とは裏腹にハーデス自身もいささか気落ちしたような表情をしている。そんな微妙な色を誰よりも早く読み取ったアゼムは一瞬思案するように目を伏せて、しっかとハーデスとヒュトロダエウスの腕を引っ掴んだ。途端にハーデスの眉間の皺がさらに深まり、ヒュトロダエウスの口角が楽しげにしなる。これはいつもの流れだ、とその場にいる誰もが分かっていた。
「私が作る!」

次の瞬間、アゼムが足をタンと踏み鳴らすと三人の影は一瞬にして街灯の下からあたたかい部屋の明かりの下へ移動していた。転移した拍子に仲良く並んでソファに座るような格好になった三人にとって見慣れた一室はアゼムがアーモロートにいる間、滞在する部屋だった。ローテーブルと揃いのソファの他にはデスクが備え付けてあるばかりで、他に家具は見当たらない。これだけ聞けば大半の人はガランとした生活感の薄い空間を想像するだろうが、実際は期限の危うい書類、どこで拾って来たのか本人に聞いても怪しい石や葉っぱ、創りっぱなしのイデアが込められたクリスタルなどで雑多な──本人にしてみれば大切なものに囲まれた──空間だ。
「この、馬鹿! エーテルも残り少ないくせに、いきなり転移するやつがあるか!」
「だってもう我慢出来なくて……とにかく二人は座ってて!」

これ以上、座っていると朝まで説教コースだと察したアゼムはソファから立ち上がり、キッチンへ足早に歩き去っていく。有無を言わせないその背中が物陰に見えなくなってから、ハーデスはソファの背もたれにぐったりと体を預けて海よりも深い溜息を漏らした。
「……まるで嵐だ……」
「フフ……フフ、その割には満更でもなさそうだよね、キミ」
「お前、こうなると分かっていたな?」
「まさか。ワタシもそこまで有能じゃないさ」
「……よく言う」

アゼムが何かを創っている間、残された二人は今日の出来事をぽつりぽつりと話しだした。

時間通りに終わることが多い十四人委員会の定例会がこんなにも長引いた理由は、アゼムが遠洋の島で見たという創造生物に何か使い道がないかと持ち込んできたことに始まる。そもそもその創造生物は生物なのか植物なのか審議が必要になり、ハルマルトとラハブレアが議論を重ねていると急に生っている実を投げつけだしてそれはもうそれなりの騒動になったのだ。幸いハルマルトが鎮められる性質のものだったから良かったものの、こんな危険な創造物がアーモロートの管理下にないことが問題視され、課題を持ち込んだアゼムを筆頭にハルマルト院とラハブレア院から数名を伴って調査に出ることが決まった。

つまり、夜が明ければアゼムはまたアーモロートを出ることになる。それを聞いて、ヒュトロダエウスはほっと安心している自分がいることに気がつく。やはり、彼は自身が思っているよりもずっと今日を楽しみにしていたのだ。
「お待たせしました。最近街で流行っているらしいスープと南の方で教わった穀物料理です」

去った時と同じくらい颯爽と現れたアゼムは手に持っていた大ぶりのスープマグと大皿とをソファの前に配置されているローテーブルの上へ豪快に置いてみせた。スープマグにはほかほかと湯気を立てるワイン煮込みのスープ、大皿には魚介をふんだんに使ったライスが山のように盛り付けられていた。

本来、食事とは体内エーテルを補うことであり、それ以上でもそれ以下でもいけない。あくまで節度を守った上で味や栄養価を高める努力を行うこと自体は良しとされるが、過度な摂取やそれ自体を娯楽とすること自体はあまり褒められたことではない。それが常識だ。エメトセルクとヒュトロダエウスも普段の生活の中でエーテルを編み、必要な分の食事を適切に取っている。

だからこそ、アゼムの創った料理は褒められるべきものではないし、普段のエメトセルクならば叱りつけていたことだろう。今が普段であり、本来であるなら。
「……お前というやつは……」

ハーデスは顔を手で覆って天を仰ぎ、対してヒュトロダエウスは顔を伏せたままふるふる震えて何も言わない。
「えっ……南の方の料理は嫌いだった?」

星中を一人で飛び回るアゼムといえど、目の前の親友二人が自分の創った料理を前に何も言わないとなれば流石に不安になったようで、おろおろと料理と二人を見比べはじめる。いつもなかなか崩れない容貌が不安げに揺れる様子で気を良くしたように、ハーデスは大皿に添えられていた小皿にライスを取り分けて一口。むぐむぐと彼が無言で咀嚼する間もアゼムは不安げに次の言葉を待ち続けていた。
「……美味い」

ぽつ、と。たった一言だがハーデスにとっては今この場で発し難い言葉の一つをアゼムに手渡した。それはまるで至高のイデアを創り出した瞬間のように、未知の存在を察知した瞬間のように。華やぐような満面の笑みでアゼムは応えた。
「フ、フフッ……もう、本当に……そんなに勿体ぶらなくてもいいのにね!」

遂に抑えきれなくなったヒュトロダエウスが腹を抱えて笑いはじめてしまい、ハーデスもいつも通りの表情を貼り付けてしまった。ヒュトロダエウスもアゼムもそれで良いと思っている。いつもにこやかな彼では張り合いがないのだから。
「ほら、お前は明日も早いんだからさっさと食べて休め。ヒュトロダエウス、お前もだ。ここにあるイデアをどうにかしろ」
「えっ!?」

いつも通りの口調でハーデスは小皿に盛った料理を二人に押し付け、自分もどんどん口に運び続けていく。存外、異郷の料理が気に入ったのか、単純にエーテル不足を補いたかっただけなのかは問いかける者もいない今は最早知る由もない。
「あ、このスープ。この間、ハーデスと食べてみたけど、キミの方が美味しいよ。店でもやってみたら?」
「あ、それ素敵だね。ハーデスも一緒にする?」
「馬鹿言うな。星に還るまで座の仕事があるんだぞ」

明かりが灯ることが少ない部屋からは夜半を超えても食器のふれあう音と軽やかな話し声が漏れ聞こえていた。朝が来るまでの数刻、三人の密やかなひとときは続く。