なきごと

長い階段をのぼってくる、引きずるような重めの足音。幼い頃の孫娘も同じように足音に感情が乗りがちだったことを思い出して、喉の奥に懐かしい匂いを感じた。

丁度扉の前に来ただろう時を見計らって、重い扉に隙間を開けておいてやる。堂々と開け放ってしまうほどの勇気は、情けないことに今の私にはない。

思惑通りスムーズに──蹴破られんばかりの勢いだったが──扉を開けて、泥で顔を汚した英雄殿が星見の間にやってきた。いつもは爛々と光を宿している瞳も雲間に隠れる太陽のように陰ってしまっているし、穏やかだが力強い声での挨拶も聞かせてくれない。
「こんばんは。今、クリスタリウムに帰ったのか?顔に泥がついているぞ」
「…………」

呼び掛けてみても返事がない。先ほど扉を開けた勢いはどこへやら、足元を魔法に絡め取られたかのように戸口から動く気配もない。

いよいよ様子がおかしい。だが、先ほど感じた懐かしさがまだ引いていかない。これは知っている感覚だと、記憶のどこかに引っ掛かっている。

かつてへそを曲げてしまった孫娘を呼んだ声音を思い出しながら、随分と大きな子どもの名を音にする。俯きがちではあるが、やっとこちらを見てくれた。
「そんなところにいないで、こちらへおいで。あたたかいお茶でも淹れよう」

ふんわりと微笑んで手招きすれば、渋々と靴を引きずって大鏡の前で待ち受ける私の元へ来てくれる。
「ほら、よく顔を見せておくれ」

さらりと指通りの良い髪を避けてやり、目元を露にする。あえて生身の手でふれたのは、ただでさえ傷が多い英雄の顔に新しいものを作りたくなかったからだと言い訳をしておこう。

目線を合わせると、陰りの奥にも燦然と輝く灯は認められたが、珍しく不貞腐れた雰囲気を醸す子どもがいた。今朝、アマロポーターから出掛けていった時には、機嫌よく大手を振っていたというのに。ふくれた頬が実際の年齢よりも幼く感じさせる。
「ふふ」
「……何笑ってるのさ……」
「ああ、すまない。どうか機嫌をなおして。あなたには笑顔がよく似合う」

わざとらしい宥め声か、はたまた好き勝手に髪を弄られることがお気に召さなかったのか。伏せていた目をハッと見開いたと思えば、ふくらんだ頬についた泥を拭おうとしていた左手を咎められる。一応、加減をしてくれているのだろう。それなりに強い力で握られていたが、骨が軋むまでではない。
「気に障っただろうか?すまない、つい幼子にするような扱いをしてしまった」
「違う」

ぽつん、言葉は雨上がりに屋根から滴る雫のようだ。若人の思考は老人の私には些か速く、どうして子どもに還ってしまったのか皆目検討つかない。
「出先で何があったのか?この老人でよければ何でも聞かせておくれ」

口元をもぞもぞさせて、言うか言うまいか迷っている様子を黙って見守ってやると、意を決したように小さい声が漏れる。ぽつり、ぽつり。
「……アム・アレーンで……ギガテンダーの針が靴の裏に刺さった」
「ギガテンダーの針」
「痛くなかったし、上手く抜けたからその時はよかったんだけど、何だかずっと足の裏が気持ち悪くて……一日中ずっと集中出来なくて」

砂地を歩くと数歩ごとに靴の中に砂が入ったこと。

いつもなら絶対に間違わない間合いを見誤って、危うくモンスターの一撃を食らいそうになったこと。

瓶の蓋が上手く締まっていなくて、ポーションを一本全部鞄に飲ませてしまったこと。

昼食のサンドイッチを食べる前に丸々地面に落としてしまったこと。

馴染みのアマロがやたらと不機嫌で何度も背中から落とされそうになったこと。

ここまで来ればもうやけ酒をしてやろうと、彷徨う階段亭に行けば満席で2時間待ち。おまけに酔っぱらいに絡まれる始末。

それ以外にも小さなことがたくさん。

並べられた今日の出来事たちは、一つ一つは路傍の小石程度の小さなものだったが、何度も躓かされた者にとっては冒険の楽しい気分を削ぐに十分だったらしい。
「それは災難な一日だったな。せめて、今夜は良いことがあれば良いのだが……」

私にとっては宝石に等しいエピソードの数々だが、完全にしょげてしまっている本人を目の前に言うのは流石に憚られる。

何か元気づけられるようなことはないだろうかと思案している内に、拗ねた子どもはぼすぼすと私の胸板に頭突きをしはじめてしまった。手を握る力は弱めてくれたものの、離してくれる気はないようだ。幼かった孫娘も構ってやれない時は背中に頭をぐりぐり擦ってきたものだ。もしかして子ども特有の仕草なのだろうか。

孫娘を想ったことが引き金になったのか、ご機嫌を取れるだろう方法をふと思い出した。
「ほら、周りをご覧」

背負っていた杖を構えて、床を軽く小突く。コツンと軽快な音が星見の間に行き渡っていくと同時に、アラグの生み出した紺碧を星の海が染めていく。ルヴェユールの双子と共に世界の理を説いた時、この機構を見た英雄の目も輝いていたのだ。かつてこの腕に抱いていた小さな孫娘や、街と共に生きた子たちと同じように。

きっと好ましいものを見れば、気分は上がるだろう。それとも、もしかして子ども騙しだと思われるだろうか。

今更不安になって、いつの間にかちゃんと上げられていた顔を見ると、その目には星々の輝きが宿っていた。
「前にも見せてくれた星だ」
「ああ。前に見せた時に気に入ってくれたようだったから。綺麗なものを見て、少しでも元気になってくれると嬉しい」
「……ありがとう、水晶公」

ここはひたすら静かだ。本当の海にはある漣や命の音がない代わりに、やさしい静寂がある。

この場において、言葉は要らないだろう。

穏やかに揺蕩う天幕を破らないよう、静かに深く呼吸をしていたと思うと、どうやら気分も落ち着いてきたらしい。砂漠から持ち帰ってしまった針の気配が薄くなっていく。
「ありがとう、水晶公」

再びの言葉は先ほどとは違う音をまとっていた。見通しの悪いヴェールを掻き分けて、光がさしていく。どこまでも沈んでいけるような心地よい闇で、確かに己の内側にある灯を見つけられたようだ。
「気を遣ってくれてありがとう。もう、大丈夫だよ」
「私がしたくてしたのだ。好きなだけゆっくりしていくといい」
「うん……じゃあ、もう少しだけ」

英雄はしなやかな動きですとんと床に座り込んで、掴んだままだった私の手を引いてくれる。努めて平静を保ちながら、特に抵抗することもなく隣りに腰を降ろした。杖は転がらないように、肩と右膝に立てかけるようにして右腕で支えておく。

その仕草でしばらくはこのままいられることを感じてくれたのだろう。横顔に満足そうな色が滲む。
「綺麗だね」
「ああ、綺麗だ」

稀に流れ星が泳いでいく星海を眺めていると、今が夢か現か分からなくなってくる。オレは何気ないひと時をあんたと一緒に過ごすことを長い間夢に見てきた。そして、夢は夢のまま終わるはずだった。

オレはそれが奇跡に等しいと識っているし、いつかそれにも終わりが来ることを理解している。

だから、夢から覚めるまでは、この星を浮かべる小さな海を独り占めする欲を許してほしい。