近くて遠い

白波がまたたいた。

無意識にその影を捉えようと視線を巡らせると、確かにあの人が居た。少し眉を下げるように顔をほころばせて、マーケットの顔馴染みや通りすがりの人たちとの談笑を楽しんでいるらしい。

闇の戦士様帰還の折には、いつもああやって街の人に囲まれるらしい。なかなか居住館の部屋まで辿り着けないのだと困ったように、でも嬉しそうに話していたことを思い出した。

今は小さな子どもたちから花と手紙を受け取っている。あの人が花を髪にさして見せると、きゃあきゃあと嬉しそうな声が少し離れたここまで聞こえてくる。

あの人は何処にいても人の中心に居る。

人好きしそうな朗らかな笑顔や、楽しそうな様子を見ていると何だか安心する。そこで生きていると実感できるから。

さて、各地を飛び回るあの人とようやくクリスタリウムに滞在する期間が被ったのだから、私も輪の中に入ろうと歩き出す。お互いに自分にしか出来ないことを持つ身、次はいつになるか分からない。

でも、あの人が私とは違う方を見て、それまでと違う笑顔を見せたことで、足がバインドを食らったように動かなくなってしまった。

私には向けられないそれは、大階段を降りてくる碧の輝きに注がれている。人の波の中から大きく手を振ってあの人が呼びかけると、キラキラと眩い光は『嬉しい』を全身から溢れさせて駆け寄って行った。

いつもの偉そうな態度は始まりの湖にでも捨ててきたのかしら。

半日も離れていなかったのに、何年も会っていなかった友達の顔を見たような二人の喜びように、周りの人たちも何となくほんわかとした空気に包まれている。

だけど、私はブリザジャでも当たったのかと思うくらい冷え切ってしまっていた。

会話を聞かなくても分かる。あの人の仕草が、視線が雄弁に物語っている。楽しそう。あの人が楽しいことは、私も嬉しいことなのに微塵も笑えない。

一緒に話に入れば良いのに何だかここに居たくなくて、あの人に向いていた爪先は真逆を目指していた。

背中から誰かに呼ばれた気がするけれど、今は誰とも楽しくお喋りなんて出来る気がしなかった。

そっぽを向いた足はそのままアマロポートへ行き、モルド・スークへと私を運んだ。大罪喰いを全部倒しても尚、息が詰まるような砂漠にかつて旅をしたウルダハの熱風を思い出す。

旅立ちの宿へ行っても良かったけれど、こんな私を見られたくなかった。行き場のないまま、たまたま見かけた木人に抱えてきたもやもやをぶつけて、ぶつけて、ぶつけ倒すことにした。

あの人が笑うと嬉しいのに、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。

たまに一人でふらっと居なくなって、傷だらけで帰ってくるのはどうしてなの。

他人のことは人一倍心配するのに、自分のことはどこか投げやりで不安になる。

細剣が熱気に揺らぎ、煌く。

いつの間にか夢中になっていたらしい、日が傾いた頃にようやく気持ちが落ち着いてきた。少し休憩しようと、手近な岩場に腰を下ろす。意外と体力を消耗していたらしく足が少しだけ震えていた。明日は筋肉痛かもしれない。
「私ってば、何やってるの……」

座って息をつくと、ここに来るまでの私の行動が嫌でも脳裏に蘇る。私らしくもない、あの人から逃げ出したも同然だと気付いてしまって、解消したはずのもやもやがまた帰ってきた。

あの人とアルフィノ、あの人と水晶公、あの人と私はみんな違う。関係性だって、これまで過ごした時間だって全然違う。だから、さっきみたいにあの人が私には見せてくれない表情を持っていたって驚いたり、落ち込むことじゃない。その逆だってあるのだから。

そう、理解していても何故だろう。この引っかかりは何。
「……帰ろう」

分からないことを悩んでいても無意味だし、時間がもったいない。帰ったら真っ先にあの人を探して、夕飯にでも誘おう。仕方がないからアルフィノと、タイミングさえ合えばリーンも。少しでも一緒にいて、話したいことも、聞きたいことも沢山あるんだから。

アマロポーターに行こう、と腰を上げると頭上から影と羽ばたきの音が降ってきた。まさかはぐれ罪喰いか、と視線を広げながら細剣に手を伸ばす。だが、影と羽ばたきの正体は漂白された罪喰いではなく、艶やかな毛並みを夕陽で艶やかに照らされたアマロだった。その大きな体の向こうから、あの人がひょっこり顔を出す。
「アリゼー」
「っはあ?!あなた、どうしてここに……?」

私が座っていた岩場の近くに着地したアマロから悠々と降りたあの人は、手綱を引きながらこちらへと近づいてきた。『どうして』で頭がいっぱいになった私にやさしい笑顔を見せて。
「さっき、広場で見かけたのに急にいなくなったから。何処に行ったか誰にも言わなかったでしょう?心配したよ」

徐々に上がる体温を自覚してしまった。大丈夫、まだ冷静さは残っている。

確かに誰にも言い残さずに出てきてしまったことには途中で気付いていた。でも、引き返すには遅すぎたし、すぐに帰るつもりだったし、それに心配をされるほど私は弱くないつもりだった。
「もしかして何処かで帰れなくなってるのかも、と思って水晶公に大きいアマロを借りたんだ。この子だったら二人で乗れるよ。さあ、一緒に帰ろう?」

朗らかに告げられた一言に冷水を浴びせられたような心地になる。まただ。心配してくれて嬉しいはずなのに。
「……大丈夫よ、私だって鍛えているもの。少しくらいの遠出、一人で出来るわ」
「あー……ごめんね、一人になりたい時もあるよね。でも、まだはぐれ罪喰いだっているから……」

まるでへそを曲げた子どもみたいな口振り。困ったように眉を更に下げて曖昧な表情を見せるこの人が今は少しだけいい気味だと思ってしまった。

それでも何となく顔を合わせにくくて、視線を足元に落としたままでいる。きっと今の私をアルフィノに見られたら、またあの腹立つ笑顔で生暖かい視線を寄越してくるのだろう。想像しただけで腹が立つ。やっぱり夕飯に誘うのは辞めよう。
「アリゼーがいっぱい鍛錬を積んでいるのは、よく知っているよ。でも、みんなの今の状況を思うと、どうしても……ね?」

両手を顔の前で合わせて、チラチラとこちらを伺う様子に思わず肩の力ががっくりと抜ける。つくづく私は、いや私たちはこの人に弱い。

この人はいつ魂の限界が来るのか分からないことを恐れて、きっと私たち自身より焦燥に駆られている。現に出始めた予兆は、確実にこの人を削っている。

私以外のみんなが第一世界に渡ってしまった時だ。原因が分からない中、戦を放っておくわけにもいかず、知識ある人たちにみんなを託していかなければならない。外ではいつも通り振る舞っていたけれど、みんなの寝かされている部屋や宿での憔悴は見ていられるものじゃなかった。

知っていながら、こんな軽率な行動をするんじゃなかった、と今更になって後悔がのしかかってくる。
「……忙しいのに遠出させてごめんなさい。それと、心配して迎えにきてくれて、ありがと……」
「ううん、私がしたいだけだから。一緒に帰ってご飯にしよう」

やわらかく注ぐ太陽のような、穏やかな月の光のような人。

軽やかにアマロに飛び乗って、今は私だけに見せてくれている光の中から手を差し出してくれる。そっと手を取ると私の小さな手をかんたんに握って、あっという間に引き上げてくれた。

ただ、背中側に乗せられるのかと思ったのに、まさか私を前にして後ろから抱えられたのは予想外だった。
「ちょ、ちょっと!私が後ろでいいから!」
「落ちちゃうと怖いから。はい、しっかり掴まっていてね」

たくさんの大切なものを守った手が、背中から伸びてきて一緒に手綱を持つように誘導してくる。諦めて一緒に手綱を握ると、キュウと一声上げてアマロの四枚の翼が羽ばたく。

浮遊感のせいか、痛いほど暴れ回る心臓の音がうるさい。それに木人を叩いていた時に気にならなかったのに異様に暑い。
「アリゼー」
「どうしたの?」

頭上から降る声に振り返り、その視線を追う。まだ力強い残照を受けてキラキラ輝く瞳が、私を捉えていた。きれいな色。
「なんでもない。怪我してなくて良かったと思って」

いつの間にか手綱を片手に持ち替えて空けた右手で、風に靡いて乱れてしまった髪を梳いてくれる。お祖父様やお父様とも違う手は、確かに子ども扱いをしているのに何故か嫌な気がしない。大人だから何も言わないで好きにさせてあげる。
「もう置いていったりしないわ。約束する」
「……うん、ありがとう」

髪を梳く指がやさしく揺れる。いくつかの意味を、聡いこの人はきっと掬いあげてくれたのだろう。それでも取りこぼした感情は私が拾い上げて、この人にとってそれが必要になった時に渡してあげることにする。

不意に強い風が吹いた。さっきまでの熱風が嘘みたいに、ひんやりとした風が頬を撫でていく。

もうじき夜がやってくる。