新月に隠して

※冒険者はアウラ・ゼラ男性、ジョブは戦士です。

あの人が書き置きだけを残して姿を消してから随分と時間が経った。

はじめこそ置いていかれた、と激怒していたアリゼーとグ・ラハも最近では落ち着いてあの人の帰還を待ちつつ、暁に舞い込んでくるさまざまな問題の解決や鍛練に打ち込んでいる。

私も負けてはいられない、と無意識に彼らの熱にあてられているのだろう。私は今夜もすっかり習慣になってしまった夜更かしのお供にあたたかい飲み物を準備していた。

今夜は新月だ。

月明かりのない大広間には人がまばらな深夜ということも相まって、シンとした心地よい静寂が横たわっている。活気に溢れる昼間の石の家も安心するが、ゆるやかな時間が流れる夜も好ましいと気付いたのはあの人が戦場へ発ってからだった。

ふと思いついて、あの人が石の家で自由に使っていいと与えられている小部屋へ立ち寄ってみる。すると、誰もいないはずの室内からかすかに物音が聞こえた。もしもを考え、念のためにカーバンクルを控えさせてしばし中の様子を探ろうと音に耳をそばたてる。

だが、そこから感じるのはあの人の気配だった。私にもエーテルの色を見る目があればよかったのに、とこれほど悔しく思ったことはない。確かにあの人の気配ではあったけれど、これはかつて山の都で過ごしていた時や、第一世界でも感じたことがあるひりつきに似ている気がした。本人はいつも隠してしまうけれど、かすかに残る余韻にようやく気付けるようになったそれは、この扉に隔てられている私たちのように、気付かなくても常にこの人の中に息づいている。
「……帰ってきたんだね」
「っ、アルフィノ……!」

他の誰にも聞こえないように声を潜めて、中にいるだろう部屋の主に訪いを知らせるととっくに気付いていただろうに、彼はひどく動揺しているようだった。
「長く空けてごめん。今、戻ったばかりで、全身臭くて汚いからこっち来ちゃ駄目だよ」

まだ装備を解ききっていないのだろう、声の合間にぼとぼとと何か硬いものが落ちる音が混じる。彼の持つ戦人としての顔を、その嵐のような彼の心核を隠そうと必死になって平静を装っている。

以前までの私ならここで引き下がっていただろう。だが、今夜はかんたんに退いてはいけないと、ここまでに培ってきた勘のようなものが背中を押してくれていた。そっと深呼吸をひとつして、彼にも分かるようにドアノブに手をかける。
「来るな、アルフィノ」
「すまないね。私は我侭だから、どうしても君の顔を見てからでないと眠れないようだ」

明確な拒絶の言葉は、普段温厚な彼にしては珍しい語気を孕んでいた。気にせず扉を抜けると、彼はこちらに背を向けて両手で顔を覆っていて、暗くて見えにくい表情を隠してしまっていた。

ただ、装備を脱いでいても尚、醸し出される硝煙のにおいと押し込めきれていない光に気圧されそうになる。これまでも肩を並べて、否、彼の背中を見ながら共に戦場に立ったことはあった。だが、彼のこんな面は見たことがなかった。一体、どれほど気を遣って私たちの前でこれほどの光を隠していたというのだろう。
「見ちゃ駄目だ」
「いいや、怪我がないかも確かめさせてもらうよ」

返事を待たずにカーバンクルと共にずかずかと部屋に押し入っていくと、かの地のレジスタンスと揃いだという軍装に包まれた肩が明らかに揺れた。傷だらけの戦斧を横目に、未だ顔を隠したままのその人に隣立つ。血のにおいはない。ひとまず大きな怪我をしていないようで、ほっと胸をなで下ろす。

だけど、傷ついているのは心だ。

彼はとてもやさしい。本来負わなくても良い傷も自らのものにしてしまう、ある意味での欲、傲慢さがある。目に入るもの全てを救おうという潔癖とも取れるその理想高さを実現出来る力があったから、いや、持ってしまったから彼は英雄たりえたのだろう。

でも、彼は私と同じだ。傷を恐れ、失うことを、無知を恐れる人だ。ならば、今は私たちの英雄ではなく、私の家族として彼の帰還を喜ぶべきだろう。

ゆっくりと彼の広い背に手を添わせると、押し殺すような呼吸が徐々に穏やかな水面のように凪いでいく。そこに確かに存在するあたたかい体温と鼓動を感じて、ようやく私も安心した。ふっと緊張が解けたように、内側で燻る熱を逃がすように、彼が深く息を吐く。
「──ただいま」
「おかえり、君が無事で良かった」

手を降ろしながら振り向いて、ようやく見せてくれた彼の目は未だに強い凶暴なまでの光を湛えていた。以前までならきっと身勝手にも恐ろしいと思っただろうその光を、月のない今夜はとても美しく感じた。瞳を見られたことが恥ずかしいのか、彼は大きな体を屈めて私の肩口にその光を落とした。
「ごめん、少しだけこうさせて」

返事の代わりに再び手を背に回して数度あやすように叩く。彼の姿を珍しいものを見るように見上げるカーバンクルに目配せして、扉を閉めるように指示をする。薄い明かりだけだった部屋は本来の闇を取り戻し、今はただの人でしかない私たちをやさしく隠してくれた。