明滅

まるで血を思わせる、不吉な気配さえ含んだ夕陽が沈んだ。

雪がちらつき始めた濃い灰色の空を見上げて、今日も来なかったなと独ごちたところで、よく知っている気配が近付いてくることに気付く。あの人が日没後に雲霧街へ続く階段を訪れるとは珍しい。
「フレイ」
「こんばんは、今日は随分と遅── 」

言葉を遮るようにガタンと大きな音がしたと思えば、伏せ気味だった視界に待ち人の後頭部が滑り込んできた。突然のことに一瞬止まった思考はすぐに溶けて、一気に血の気が引く。

また誰かのために怪我をしたのかと、まずその顔を見ようとうつ伏せになっている体を引き起こし、そのまま上半身を膝に乗せて横抱きにする。血の匂いはない。だが、日の光の名残すらない空の下でも分かるほど、その頬は涙で濡れていた。
「……珍しいこともありますね。遂に重責に押し潰されましたか……?」

尋常ではない様子に詰まる呼吸を隠して、溜め息交じりの言葉を吐き出す。

そっと顔を寄せて囁いた毒にしかならない言葉にか、それとも階段から落ちた痛みからか眉間に皺を寄せながらその人は薄く目蓋を開いた。後頭部に付いた布が君の顔に当たるか当たらないかのところで揺れる。

この距離なら見えてしまうバルビュートの奥にある僕の目はさぞかし醜く、そして甘い誘惑の色を映しているだろう。
「何でもないんだ、本当に……君に会いにきただけなんだ……儀式、約束だから……」
「そんな目の下に濃い隈を作っている人に、儀式は耐えられませんよ……眠れていないのですか?」
「少しだけ……でも、大丈夫。もっと……」

辛いことはあったから、と言いたかった唇は戦慄いたまま引き絞られて、続きを紡ぐことはなかった。篭手も、手袋すらしていない右腕で目を覆うが、きっとその下ではまた熱い涙が滲んでいる。

何があったのかは訊かない。けれど他人の前では「英雄」として振る舞い続けるこの人が折れそうになるなんて、余程のことだろう。例えば、特に近い人が居なくなった、とか。
「……ごめん、もう大丈夫だから……重いでしょう」

脱力しきっていたその人に再びこめられる力が接している膝と腹のあたりから伝わってくる。折角捕まえた光に僕が自由を許すはずもなく、上着すら着ていないせいで震える肩を押さえて、起き上がろうとする体を制する。
「フレイ……?」
「少し眠ってください。心配せずとも、君が眠ったら宿へ運びますから、凍死なんてさせませんよ」
「でも、私は……」

なおも渋って体を起こそうとするが、更に力を込めて押さえつける。

どうしてこの人はこんなになってまで耐えようとするのだろう。

いつだって自分は二の次三の次。お陰で体と心は常に傷だらけだ。

既に顕になっていた瞳が怪訝な色を見せているが、それをそっと僕の手で塞ぐ。もう温度を持たない手でも、英雄ではない姿を見せてくれた僕の手なら、きっと選んでくれる。
「我慢しなくていいです……今、君には休める場所がいる……大丈夫、起きるまで僕がいるよ」
「……ぁ……」

無理矢理こめられた力は再び抜け落ちていき、膝に重みが戻ってくる。先程まで目元に置いていた右手が行き場をなくしたように宙を彷徨い、やがて目を塞ぐ僕の手に重ねられる。

このまま僕を選んでくれるなら、どんなに良いだろう。戦場も何もかもが遠い、穏やかな凪のような日々をこの人と過ごせれば、どんなに。
「……あ、りがとう、フレイ……」

つ、と僕の手から溢れた雫はしんしんと降る寒花に紛れてしまう。僕の膝で眠る人がもっと深くまで意識を沈めるまで、しばらくは白く塗り潰されつつある皇都の静寂にいよう。