英雄様は渋滞中
石の家に入った瞬間、腹の虫を刺激する匂いが立ちこめていた。鍛錬後の疲れた体はその匂いに誘われて、ふらふらと半分無意識に匂いの出処に足を向ける。
今日はあの人が帰ってくると聞いているから、もう戻って料理でもしているのかな、とキッチンを覗くとそこには想定していた背中ではなく、銀糸の君が鍋とフライパンの間を慌ただしく行き来していた。
「アリゼー?料理なんて珍しいな」
「私だって料理くらいするわよ。あ、おかえりなさい」
「ただいま」
なかなか見られない可愛らしいエプロン姿が眩しくて、忙しそうに動き回る背中を戸口に寄りかかってじっと見ていたら、遂に振り向きざまに脇に置かれていたエプロンを投げられてしまった。
「ちょっと。見てるなら手伝いなさいよ」
「まだ作るのか?もう何人前か分からないくらいだぞ」
キッチンに備え付けられた大きめの作業台だけでは足りず、ガーロンド社が置いていった便利グッズの上にも皿が並べられている。そのどれもに色とりどりの料理が乗っていて、ぐるると腹が鳴る。
「当たり前じゃない。あの人の胃袋を舐めちゃ駄目よ」
「……そうだな。あとは何を作るんだ?」
「本菜が三品とデザートをたくさん。まずはその鍋でキャベツ巻きを仕上げてくれる?私はデザートを始めるわ」
「分かった」
受け取ったあの人のエプロンを手早く付けて、彼女の兄よりも華奢な影の隣りに並んで指示通りキャベツ巻きの仕上げに取りかかる。とは言っても、下準備が整えられたものを鍋に入れていくだけだが。
煮込み終わるまで待つ間、改めてすでに完成している皿を見遣ると、見事にあの人の好物が取り揃えられていて思わず頬が緩む。そのままバレないようにちらりと真剣な顔でスポンジケーキに木べらでクリームを塗っているアリゼーを盗み見ると、自然と小さな手に視線が吸い寄せられた。
遠い次元の向こうにいるあの子が初めて料理を振る舞ってくれた時の手と重なる、努力の跡だ。
「アリゼー」
「……ちょっとまって……今、真剣なの……」
「……あんたもあの人が好きなんだなぁって」
「……そうね……っはあ?!ちょ、ふざけないでよ!って、ああ!!クリームがズレちゃったじゃないの!!ラハのバカ!!」
「ご、ごめん……!」
「もう!……というか、『も』って何よ」
「ん?」
「だから!私もあの人のことがす、好きってことは、ラハもってことでしょ?!言わせないでよ!」
「あぶな!で、でも当たり前だろ!?一番憧れの英雄なんだから好きだよ!!」
ぶんっとクリームのついた木べらと一緒に突きつけられた言葉のせいで、アリゼーの耳と同じくらいオレの顔にも熱が集まる。彼女の真っ直ぐな言葉は賢人たれと取り繕う年季モノの衣すら難なく取り払う突風のようだ。
そりゃ百年かけてみんなで街を造ったり、次元の向こうから呼び寄せたり、好きじゃなきゃやってられない。ただ、この好きはきっと彼女のそれとは違うだろうけれど。
二人揃って顔を真っ赤にしながら、若干勢いがつきすぎているくらいだが料理を作り続ける手は止めない。ぎゃあぎゃあとキッチンで大騒ぎしながらも完成した皿は増えていった。
あの人が帰るまであとどれくらい時間が残されているだろう。焦るアリゼーと一緒になって作業を進める手はどんどん速度を上げていく。
「あとは、このトッピングを……出来た!」
「やったな!間に合った!」
「良かった……手伝ってくれてありがとね、ラハ。悔しいけれど、一人じゃ到底間に合わなかったわ」
「良いんだ、オレも久し振りに料理が出来て楽しかったぜ」
す、と手のひらを挙げて見せると最初は怪訝な顔をされたが、すぐに意図を理解してくれたらしく、傷とマメだらけの小さな手が合わさる。乾いた音が高らかに鳴ったと同時に、誰かが近づいてくる気配を感じた。
「ふふ……二人共、リボンが縦結びになってるよ」
聞き慣れた声に二人ともバッと効果音が付きそうなほどの勢いで振り向くと、くっくと喉奥で笑う赤い装束に身を包んだオレたちの待ち人がいた。
「おかえり!」
「おかえりなさい!」
「ただいま。アリゼー、グ・ラハ」
コツコツとブーツを鳴らしてキッチンに入ってきた英雄の笑顔はすぐに驚嘆の色に染まる。
「これ、全部二人が作ったの?すごいね、今夜はパーティーだったのかな」
「そうよ。たまたま、あなたが帰ってきてくれて良かったわ」
「……たまたま、こんなに作りすぎてしまったんだ。あんたも食べていくだろ?」
ふい、と肝心な時にそっぽを向いてしまったアリゼーに代わって我らが英雄を晩餐にご招待する。パチリ、とウインク付きだったお誘いにちゃんと意図を汲んでくれたらしい。
「それなら、是非いただいていこう。わ、キャベツ巻きだ!大好物なんだ、嬉しいなぁ」
知っているとも、だってこれはあなたのためにアリゼーがたくさん練習して用意したものなのだから。
「そ、そう?なら良かった。さ、冷めない内に大広間に運んじゃいましょ!」
「じゃ、じゃあオレは運ぶもの探してくる!」
危うく口を滑らせそうなオレはキッチンから皿を運び出すためのトレーを探しに戸棚を漁る。真っ直ぐあの人に向けられる好意に何だかオレまで嬉しくなってきた。
あんたは本当に一生懸命愛されているんだな。
「……ラハ」
「うん?どうした?」
「ありがとね」
すす、といつの間にか隣りに並んでいたアリゼーはニッと華やぐ笑顔を咲かせ、エプロンの裾をなびかせてあの人の元へ駆け戻っていった。二人の背中はそれは幸せを絵に描いたようで、今この瞬間が在ることがどうしようもなく嬉しくて。
少し滲んだ目元をぐいっと拭ってから、オレはその幸いの背を追った。