少女は冥界の淵にて

※2021年6月6日(日)にオンライン開催された「頭割りだョ!ヒカセン集合2」の無料配布ペーパーです。

「もういいもん!」
「あっこら!待ちなさい!」

幼い子どもの叫び声がカテナリー居住館に響くのは、最近そう珍しいものでもなくなった。バタバタと駆けていく足音とそれを追うように母親が呼ぶ声、そして赤ん坊の泣き声が廊下に響くが、住人の多くはいつものことだと微笑ましく、あるいは無関心にそれぞれの生活を営み続ける。

水晶公がもたらす強固な障壁と衛兵団が昼夜問わず街を守り続けているお陰で、クリスタリウムの内部には長らく罪喰いの侵入を許していない。外敵の脅威がない街の中は衛兵をはじめ住人の目があり、そうそう危険な目に遭うことはないと大人たちは自身の経験から知っていた。常々入ってはいけないと言い含められている場所には入れるはずがないし、街から出るには常に衛兵が詰めている水晶公の門を通るしかない。

夕飯時になれば帰ってくるだろう。誰もがそう思ったからこそ、母親が足音を追えなかったことにも、衛兵の交代を見計らって小さな影がクリスタルタワーに滑り込んだことにも気付く者はいなかった。

静かすぎるほど静かな塔の内部は幼い少女──ヤナの足音だけが存在していた。両親に履かせてもらったお気に入りのサンダルはさっきまでの剣幕とは裏腹に、機嫌良さげな足音を高らかに踏み鳴らしている。勝手に入ってはいけないと普段きつく言い付けられている場所にうっかり入れてしまったことへの高揚感と、少しの後ろめたさが彼女の手を引いてどんどん奥深くへとその歩みを導いていた。

ヤナが塔の中に入るのは三度目である。一度目はヤナが生まれた直後で、これは本人も覚えていない。二度目はつい最近ヤナに妹が生まれた時、彼女の両親が街の管理者たる水晶公に我が子の誕生の報告に訪った時だ。ヤナも彼女の妹も、他の子どもたちと同様に塔から射す碧い輝きに見守られて育ってきた。

ヤナは水晶公のことをよく分からないけれどとても好きな人だと感じている。たまに塔から出てきて大人たちと話している合間にも、遠巻きに見ている子どもたちを見つければ手を振ってくれるし、何よりあのひんやりとしていて実はやわらかさもある水晶の手が大好きなのだ。

彼女の友達の中には大人たちや他の子には秘密という約束を公と交わして、塔の中の特別な部屋で『物凄いもの』を見せてもらったことがある子もいたが、ヤナはそういった機会に恵まれずにいる。羨ましくないと言えば嘘になるが、そういう体験は自分から欲するのではなく巡り合わせなのだろうと聡いヤナは子ども心に理解していた。

そんな察しの良さが彼女が心のまま「寂しい」と母や父に訴えることを許さなかったからこそ、積もり積もった不満が爆発して、今ここにいる。

後ろ髪を引く寂しさを振り切るように勢いよく扉を入ってすぐの大広間を突っ切って、両翼を広げるように伸びる階段を小さな体で必死に登りきったヤナはここで一つの達成感を得る。誰の手も借りずに何かをやり遂げるなんて、まだ十にもならない彼女には経験がなかったのだ。そして開けた視界に二つの選択肢が現れた。一つは上階へ向かう階段、もう一つは壁にぶち開けられた大穴だ。

とんでもない階段を登って公の部屋に行くのはいつも大変だが、あの景色を見られると思うと楽しみにしてしまう、という話を少女は酔っ払った大人たちから耳にたこが出来るほど聞かされていた。つまり、上階へ向かう道は誰でも入れるし、誰かに見つかってしまうかもしれないということだ。

ならば、好奇心に背を押されている彼女が大穴を潜って地下へ続く道を選んでしまうのは仕方がないことだった。ヤナがそれまで薄く募らせていた寂しさは、もうどうでもいいものになりつつあった。恐らくクリスタリウムの誰もが知らない、とびきりの秘密にふれているという予感が幼い少女の肌をひりつかせている。
「そっと、そっと……」

自分に言い聞かせるように呟きながら大きな階段を用心深く降りていくと、やがて広い空間に出る。これまで見たことのないくらい深い大穴の周りを廊下が囲い、等間隔に淡い光を湛える扉が並ぶ中、ミーン工芸館で見かける丸い玉っころや見たこともない機械たちがあちこちで自分の仕事をこなしていた。

まさか塔の地下がこんなに広くて、こんなに不思議な場所だったなんて。

ヤナは興奮しながらも、あまりの光景に何から驚けばいいのか分からずにいた。ぽかんと大きな口を開けて、動き続けている機械をぼうっと眺めていると、なんだかクリスタリウムの大人たちが働いているムジカ・ユニバーサリスを思い出させる。みんなで協力して仕事をこなすのは人も機械も同じなんだ、とヤナは塔の中に隠された秘密をまた一つ見つけ出した。

中でも忙しなく動き回る一際大きな腕を持った機械は大層ヤナの興味を引いた。その機械は仕事で行き来する道中でヤナを見つけると、久々の来客を喜ぶように蒸気を出してくるりと腕を回して見せる。彼女もお返しに母に教わった特別丁寧なお辞儀を返して見せると、機械は満足したというようにもう一度蒸気を短く吹き出して、また自分の仕事へと戻っていった。

面白い。

もっといろんなものが見たい。

そんな気持ちばかりがヤナの中でむくむくと膨らんで、止めていた足をまた踏み出そうとしたその時。
「誰かそこにいるのか」

背後、恐らく大穴の向こうからいつもなら嬉しくてたまらない、でも今だけは聞きたくなかった声が聞こえてしまった。きっと見つかれば怒られてしまう。ヤナは細い肩をビクリと跳ねさせた勢いで、踏み出しかけていた足を思いきり前に飛び出させる。

足音で気付かれてしまうなんてことは幼い少女には考えられなかった。ただこの場を離れなければいけない、と懸命に奥へと駆けていく。だが無情にも通路は途中で途切れてしまっていた。
「ど、どうしよ……」

他に道はないか辺りを見回すがそれらしきものはない。いよいよ迫る足音がその姿を現そうとした時、ふとヤナの隣りをさっきの大きな腕の機械が通りがかり、事もなげに床の模様にふれた。途端に模様、もとい転送装置は淡い光を放ち、大きな機体とヤナとを対岸へと吹き飛ばす。
「ひゃっ!?」

歴戦の冒険者ならともかく、急に宙に浮いたことにも着地の体勢を整えることにも対応出来るはずがない。ぶつかる。少女はすぐに訪れる痛みを前にただ目をつぶることしか出来なかった。

だが、装置を発動させた機械がビビッと機械音を鳴らし、その大きな腕を滑り台代わりにして浮遊する少女の体をやさしく着地させる。お陰で少女が予想していた衝撃は来ず、小さな尻餅をつくだけに留めることが出来た。何が起こったのかすぐには分からず、ぽかんと口を開けたままの少女の周りを一周した機械は、無事を確認出来て満足したように蒸気を短く吹き出し、また自分の仕事へと戻っていく。軽やかに床を滑って去り行く背中が下層へ続く転移装置に身を躍らせた頃、少女は機械に助けられたことを理解し、まだ夢見心地ながら見えなくなってしまった恩人へ感謝の気持ちを込めて手を振った。

その振られていた手は少女が気付く間もなく駆け寄ってきた大人の少しかさついた手にしっかりと掴み取られる。ハッとして振り返った時にはもう手を引かれて、ヤナは顔から揺蕩う布の海に飛び込む形になった。博物陳列館に似ているようでもっと深みにあるようで、ちょっぴり汗っぽさが混じった匂い。自分が抱き締められていると気付いた時にはまた体が海から引き上げられて、頬をあたたかさとひんやり感のある手が挟み込んだ。
「怪我は!?痛いところは!?」

心配で普段の余裕が吹き飛んだ水晶公の様子に驚いたヤナはふるふると首を横に振るばかり。ペタペタと全身にふれて怪我がないか確かめる手も隠しきれない動揺で震えていて、少女は水晶公も慌てるんだ、とまた一つ新しい発見をした。
「良かった……!しかし、一体どうしてこんなところまで……いや、それよりアンナ……お母さんも心配しているだろうから、早く帰ろう。私も一緒におうちまで行くから」

それを聞くや否やヤナは絶対に帰りたくないという強い意志を込めて、さっきよりも数倍必死に首を横に振った。水晶公はまた驚いたように、少しだけ困ったように口元に手を当てて考える仕草を見せた。少女がここまで必死になる理由は何だろう、とかつて最も身近にいた幼子を思い出しながら彼は一つ一つ言葉を練り上げる。このくらいの年頃の少女はもう立派なレディだと知っていたからこそ、水晶公はヤナに目線を合わせて真っ直ぐとフードの向こうから眼差しを送っていた。
「……おうちに帰りたくないのか?」

うん、と消え入りそうな声はゴウゴウと低く響く機械の駆動音の中でも水晶公の耳に届いた。
「そうか……どうして帰りたくないのか、何が嫌なのか、この水晶公に教えてくれないか?」

ゆっくりで良い、言葉を聞かせてほしい、とヤナの両手を温度の異なる手でやさしく握って水晶公は少女が紡ぐ胸の内をただ黙して待つ。

明日をも知れぬ世界で共に歩んでくれるクリスタリウムの人々は、言葉そのままの意味で彼にとっての宝なのだ。街の中は勿論、この世界で生まれた子どもたちはノルヴラントの未来そのもの。最大限の慈しみとやさしさを贈り、それが連綿と続いていくことが水晶公と呼ばれる男が持つ願いの一つだ。
「……あのね、おかあさんが赤ちゃんばっかり。お話きいてくれないからやだ」
「そうだ、ヤナはお姉ちゃんになったんだったな」

水晶公は街に生きる人々の名前と顔を可能な限り覚えるように習慣づけていたから、ヤナも彼女の妹も彼女の親、その更に親のこともしっかり覚えていた。ヤナの母親、アンナは衛兵団に所属する腕利きの兵士だ。第二子を産んだ後の療養がじきに終わり、任務に復帰する日が近くに迫っていることも水晶公は報告書に目を通していて知っていた。これまで任務続きで寂しい思いをさせたお姉ちゃん──ヤナとの時間をたくさん楽しんでおきたい、と言っていたことも。

だが、厳命城に詰める治療士の旦那も非番の度に帰ってきてはいるものの、二人の子どもを育てるというのは思いの外大変だったようだ。水晶公は街の管理者として支援体制の不足に申し訳なさを感じつつ、もう一度ヤナに向き直る。
「ヤナ、お母さんの代わりに私とお話しするのはどうだろう?」
「……いいの?」
「勿論!私はクリスタリウムのみんなのお話が大好きなんだ」

こてん、と首を傾げて答えを待つ水晶公がフードの奥からでもやさしい眼差しを注いでくれていることが少女にも感じ取れた。それにヤナの友達の誰もがこんなに長い時間、水晶公を独占したことなんてないだろう、と心地良い優越感がとっぷりと小さな胸の内に満ち始めていた。それを伝えるのはかんたんだったが、ヤナはあくまでお姉さんとして控えめに公へ返事を返す。
「……うん、いいよ」 
「ありがとう!じゃあ、ここまでの冒険のお話を聞かせてくれないか?あの機械たちとお話ししていただろう」

立ったままでは疲れてしまうから、と水晶公は床に座って豪快にローブの裾を広げ、小さな語り部のための特等席を用意した。ヤナは照れながらも嬉しそうに、招かれた膝の上に座って大好きな碧い輝きを見上げる。
「あのね──」

大いなる旅路の過程で見て、聞いて、感じたことを少女は身振り手振りを交えて水晶公に語り聞かせた。気持ちの良いタイミングで打たれる相槌に促されてまろび出ていく言葉一つ一つは拙くても、そこに宿る熱は確かに百の時を数えるクリスタルにも響き、淡い光を灯してみせる。いつか来る『もう一度』を彼に諦めさせまいとするように。

「……寝ちゃったか」

初めての冒険と一生懸命に話した疲れからか、ヤナは水晶公の膝の上でくったりと眠りに落ちてしまっていた。そうっと左手で細い髪を撫でて彼女が深い眠りについていることを確認した水晶公はピピッと心配そうに二人を伺い見るエンフォーストロイドに人差し指を立てて見せて、慣れた手つきで小さな冒険者を抱えて冥界の大空洞に背を向けて歩き出す。

かつて孫娘が小さかった頃にも遊び疲れて眠ってしまったあの子を抱えて塔を歩いたことを、水晶公はまるで昨日のことのように思い出していた。今や街を護る者となった立派な姿を想い、同時にそんな道を選ばせてしまったことを彼は口惜しく感じずにはいられなかった。もしもっと早く計画を成していたなら、と取り戻せない時間を振り返る。だが、彼は決して自らの歩んだこれまでを悔やんではいなかった。これまでも、これからも自分の歩みは必ず未来へと繋がっていく礎になると信じているから。

ようやくドッサル大門まで引き返してきた水晶公は仄かに明るい塔の中から出た瞬間、空から降り注ぐ強い光に目を細める。こればかりはいつまで経っても慣れないな、と小さく息をつけば眠っている少女も賛成してくれているのか小さく身動ぎを返してくれて、細めた目が緩く弧を描く。
「水晶公、お出かけ……えっ!?」

ヒュム族とエルフ族の守衛は正しく敬礼を寄越すと同時に、公の腕の中で丸まっている子どもを目にしてぎょっと目を剥いた。恐らくそういう反応をするだろうな、と予想していた水晶公は塔の中の機械たちにしたようにまた人差し指を口元に立てて「後で話そう」と音なく唇を形作る。自分たちの見落としに気付いて彼らが肩を落とすのをぽすぽすとやさしく叩いてから、水晶公は小さな冒険者の帰り路を辿った。

丁度、ミーン工芸館やムジカ・ユニバーサリスの店仕舞いの時間と重なったお陰で、幼な子を抱えた水晶公は大層目立ったが、隠しているつもりの喜色に街の住人たちは嬉しげにその後ろ姿を見送るばかり。時折、擦れ違う子どもたちが元気に挨拶をして駆けていく以外は特に声をかけられることなく、彼はヤナが家族と住むカテナリー居住館に辿り着いた。

管理人と挨拶を交わし、勝手知ったる足取りで階上の部屋まで登っていくと赤子の元気な泣き声が廊下にまで響いてくる。それが眠っていても聞こえたのか、彼の腕の中で小さな塊がビクリと震えてすぐに周りをキョロキョロと見渡し始めた。
「……ここ、おうち……?」
「そうだ。ヤナ、よく聞いておくれ」

腕の中にあった少女をそうっと降ろして、水晶公はまたその眼差しを真正面から向ける。全てを理解出来なくても、今分かる範囲で少女が彼や街、そして母にとって大切な存在であることが少しでも伝われば良い。そう願いを込めて、水晶公は言葉を紡ぐ。
「ヤナ、これからもきっと君には寂しい思いをさせてしまうかもしれない。それは私の力が足りないせいだ、本当にすまない……でも、どうか覚えていてほしい。ヤナ、どんなに寂しくても君は独りではない。決して、一人にはしないよ」

きゅっと小さな手を潰してしまわないように水晶公は大切な宝物の手を取る。幼いヤナは全ての言葉を理解出来たわけではなかった。それでも、大好きな水晶公のやさしい声音がその意味を確かに伝えてくれる。だから、水晶公の名の由来となった碧いクリスタルを彼女は握り返すことが出来た。
「ヤナ、私と一緒にお母さんとお話し出来るだろうか?」
「……うん」

本当はヤナは喧嘩して飛び出てきてしまった手前、気乗りしないなんてものではなかった。だけど、ゆっくりと話を聞いてくれた水晶公が一緒なら大丈夫だと彼女は一つ大きくなった心を持って、我が家の扉を叩く。だが、一向に返答がない。もしかして擦れ違ってしまったか、と水晶公が周りを見回すとその瞬間。
「ヤナ!?」

凄まじい勢いで近付いてくる足音と泣き声、そして滑り込んできた影に二人は肩を跳ねさせる。かっさらわれた小さな冒険者に水晶公は慌てることなく、むしろ微笑んで影に言葉をかけた。
「ただいま、アンナ。ほら、ヤナ」
「……ただいま、お母さん」
「ああ、ヤナ!何処に行って……っ」

赤子を腕に抱えて飛び出してきたヤナの母がそのままの勢いで娘をぎゅうぎゅうに抱き締める、一目見て分かるほど汗に濡れたその背中、そして母の熱い胸に頬を擦りつけるヤナを見て、水晶公は胸の内で安堵の息をつく。母の尋常ではない様子に大音声を響かせていたはずの赤子もいつの間にか泣き止み、すぐ隣りにある姉の頬にメープルのような手を伸ばしていた。
「水晶公も……私が至らぬばかりに、ご迷惑を……」

両腕に大切な宝物を抱えて水晶公に向き直ったアンナは深々と頭を下げるが、水晶公は膝をついて母の肩に手を置く。彼にとってクリスタリウムの住人は我が子に等しいからこそ、大人になったとしてもしわしわの老人になったとしても愛しい宝物だ。
「いいや、私がヤナと話をしていたんだ。私のことは気にせずに……それより、アンナ。この子は今日大冒険をしたのだよ」
「大冒険……そうなの?」
「うん……きいてくれる?」
「勿論!そうだ、とっておきのお菓子も出しちゃいましょう。公も是非一緒に!」
「え、私も?」
「うん!」
「……では、お言葉に甘えて」

母の腕の中で嬉しそうに笑い、妹を撫でる小さな冒険者にローブの袖を引かれて水晶公も思わず頬が緩む。もちもちとした質感のかんばせにふれ、ここにある幸せの形を確かめた彼は今日という大冒険の語り部と共に居室へと入っていった。