色彩に出会う日

存外、浮き足立っていたらしい。

指定された時間よりも随分と早く到着してしまった港には同じ目的らしき人影もなく、かといって道行く見ず知らずの大人に話しかける訳にもいかず、仕方なく街の中の散策に足を向けることにした。もっとも、これから永いながい時間を過ごす街をゆっくり一人で見て回れる時間を得られたと思えば苦にはならないし、良い経験だとすら思える。

まずは将来通うことになる官庁街を見にいき、それから街をぐるりと一回りしてアカデミアに行こう、ととっくに頭の中に入っている街の地図を広げた。そして、持ち込んだ荷物は圧縮して新調したばかりのローブのポケットに詰め込み、私は世界の中心──我らの都アーモロートへ第一歩を踏み出す。

穏やかな陽の光が射し、ゆるやかにローブの裾を揺らす風がそよいでいる。少し歩いただけでも議論する人々の静かさと熱さを感じさせる声々がそこかしこから聞こえてくる。やっとアーモロートにやってきたのだと、これからここで仲間たちと共に世の理を正しく動かしていくのだという実感が湧いてきた。

感慨深さにそっと深呼吸をすると、ふと潮の香りが鼻をくすぐっていく。何故かどうにも抗いがたい引力に引き寄せられる。こういう時の直感には従う方が良い、と官庁街に向かっていた足が道を逸れていくままに任せ、私はひとまず人々の声の合間から潮騒の方へと身を寄せていった。

じきに到着した砂浜には静かなさざなみの音だけがあった。港からも都市部からも離れた砂浜は誰と擦れ違うこともなく、自分がきめ細やかな白い砂を踏みしめる度に鳴るサクサク小気味良い音が楽しい。

こんなに良い場所に出会えるとは、初日から幸先が良い。きっと考えることが多くなるこれからの日々、行き詰まったり一人になりたい時は気分転換に訪れることにしよう。

誰も見ていないのをいいことに、白い仮面とフードを取ってぐっと伸びをする。すとん、と無駄な力が抜けた体はところどころ凝り固まっていて、やはり首都のアカデミア初日とあって自分も緊張をしていたのだと思い知らされた気がする。ふ、と誰にでもなく笑みを漏らすと、それに誘われるように海からではない波が肌を掠めていった。

エーテルの波紋だ。

恐らく近くで誰かが魔法を使ったのだろう。ただの魔法であったなら、世界の知恵の全てが集うアーモロートにおいては珍しくもなんともない、極々ありふれたものだっただろう。

だが、今、視界の端に捉えたエーテルの色はあまりにも異質だった。

生きとし生けるもの全てが持つエーテル、つまり生命の源たる魂はそれぞれ固有の色を持つ。それはその者が創り出す魔法とて同じで、たとえ血縁であっても似た色になることはあれど、全く同じ色になることはない。もっとも、今を生きる多くの人々にとって自らの魂の色を自力で知覚する機会はほぼないに等しい。そう、たとえば自分のように元より視える者でない限りは。

仮面とフードをつけ直しながら可能な限り大股で砂浜を行く。細かい砂に足を取られながら、ただ、確実にエーテルの波紋の出処に向かって近づいていく。

ゆるやかな曲線を描く海岸線に沿って強く吹き付ける潮風を和らげるために植えられた木々が生い茂っていて、見通しがやや悪くなっている。きっともうじき魔法の紡ぎ手の姿も見えるだろうと一際大きな影を超えたその瞬間、見たことのない色が、否、光が視界に溢れた。

アーモロート市民と同じローブをまとったその人は木陰に座り込み、ただひたすら近くを飛ぶ海鳥を集めてそっくりな個体を創り続けていた。お世辞にも造形は完璧とは程遠く、ところどころ甘さや隙があると言わざるを得ない。

だが、私はこのひとときで気付いてしまった。

この色、このたった一人のためにこそ、私の世界には色彩が欠けていたのだということに。

待ちわびていたのだ、この瞬間を。

全身全霊で喜びを謳うような、その魔法と魂の在り方、その根源。

まるで大嵐に見舞われた暗い夜の海でたった一筋だけ見つけた灯台の光のような、まばゆいばかりの道標。

一体どれほど呆けてしまっていたのか、はたと気が付けばその人は呼び寄せた海鳥と創り出した鳥のようなものに囲まれ、ローブの端すら見えなくなってしまっているようだった。流石に助けが必要ではないか、と一足だけ砂に踏み出せば、それが合図になったかのように鳥たちは一斉に大きく羽ばたきの音を響かせて飛び立っていってしまう。踏み出しかけていた勢いを無理矢理止められた格好で目を閉じてしまっていた私がもう一度木陰を見遣っても、もう既にその人の影も光も視えなくなってしまっていた。
「何だったんだ……今のは……」

結局、あの鳥に塗れていた人の顔も見れず、名も訊けず仕舞いになったが焦りは感じていなかった。アーモロートで暮らす内にきっとあの決して忘れられない色には出会うだろう、と予感めいた確信が胸の内側にあったからだ。その時はもう逃してしまわないように、こちらから手を伸ばしてみよう。

この静かな砂浜を訪れてからそう時間は経っていないと思っていたが、すでに太陽の傾きは所定の時間まで急がなければならないことを伝えてくれていた。初日から遅刻になることだけは避けなければ、と足を取られながら急いで元来た道を引き返していく。まだ高揚したままの心のざわつきは、アカデミアに着く頃には凪いでくれるだろうか。
「やあ、キミも散步かい?」

突然、横っ面に声がかけられて思わず肩が小さく跳ねた。気配すらしなかった。いや、いつもなら気付けていたのだろうが冷静ではない私では難しかったようだ。

恐るおそる声の方向を見れば、何がおかしいのか、くっくと喉奥で笑いを堪えている男──真新しいローブと仮面で私と同じアカデミアの新人だと分かる──が木の上から降りてきているところだった。キミも、というからにはこの人もアーモロートを散策していたのだろうか。見た感じ同期なのであれば興味も在るが、しかし、急に気安く話しかけるような失礼な輩には用心するに越したことはない。
「……そんなところだ」
「そうか。じゃあ、さっきの鳥もキミが創ったの?」
「いやいや、知らない奴が創っていたようだ」
「へえ、そうなんだ」

木から降りてこちらに近付いて来た奴はニヤニヤと胡散臭ささえ感じる笑みを浮かべて、そして何かを探すように水平線を眺めていた。黙したまま何も言わなくなってしまった男に段々と焦りが膨らんでくる。

転移魔法で移動するなんてはしたない真似をする羽目になる前にそろそろ行くことを伝えようと海を眺めている男に声をかけようとした、その上からそいつの声が被さってくる。
「それにしても、珍しいきれいな色だったね」

ぴたり、自分の起こす全ての動作が止まる。今、何と言った。色、しかも珍しい色だとこいつは言ったのか。

海を眺めていたそいつは何も答えずにいる私に向き直り、またあのニヤニヤ笑いを見せた。もしかして普通に笑っているだけだと思っているのか。
「あの人の魂の色、キミにも視えているだろう?」
「……お前にも視えるのか」
「フフ、視えるだけだよ。ねえ、ワタシたちは良い友人になれそうだ」

エーテルの色を見ることが出来る者は少なくはない。だが、魂の色ともなれば話は別だ。今まで生きてきた中で終ぞ出会うことのなかった同じ目を持つ者にまさかこんなにも早く出会うことになるとは思わなかった。

馴れなれしい言葉と一緒にスッと差し出された手が握手を求めている。海面から照り返した陽の光がゆらゆらとそいつの仮面と瞳とに反射していて、余計に表情が読めない。言いたいことも訊きたいことも山ほどあるが、はあ、と溜め息を以てまずは最初の一言だけを選び抜く。
「そう言うなら、まずは名乗ったらどうなんだ?」
「おっと、そうだね。ワタシはヒュトロダエウス。今日からアカデミアに通うんだ」

仮面の奥で細められた目と仰々しささえ感じるほど弧を描く口元に、これから長い付き合いになるなら、やはりこいつには少し用心したほうが良いかも知れないと妙な予感が胸を過ぎっていった。

そして、差し出された手を取って、ゆるく握ってやる。
「……私は、ハーデスだ」