先は長いのだから
※冒険者はアウラ・ゼラの男性です。
閃光。
くらりと眩む視界とは真逆に、冬の夜明けの冴えざえとした空気のように澄んでいく思考が全ての動きを鈍化させ、この後起こるだろう展開をいくつも脳裏に見せつけてくる。ああ、どれもこれも痛そうだ。だが、護り手として培ってきた全てを引き出せばきっと耐えられる。
決して油断した訳ではない。ただただ力が及ばなかった、最善を選びそこねただけだ。たった一つの誤答が俺の命を、冒険を終わらせようと迫ってきていた。
出来うる限りの護りを固めようと呼吸を整え、熱源がこの身を捉える衝撃に備える。致命傷さえ避ければ後は何とでも出来る。
この間、まばたき一回分。
「危ない!」
警鐘と、想定よりもずっとやさしく容赦ない衝撃。
横薙ぎに吹き飛ばされた体が岩肌を削って酷い音と土煙を立てる。同時に角に、顔に雨がふれる。それはさっきまで自分がいた、自分がいるべき場所に飛び込んできた影が落としたものだった。
ここまで、まばたきもう一回分。
ヒトは死ぬまでの間に何度まばたきをするのだろう。無意識のそれを数えたり、記憶したりすることは常ならないことだろう。だが、その一瞬の内に目の前で全てが消えようとしていたらどうだろう。
二度の暗転の最中、俺を庇ったグ・ラハ・ティアが負傷し、目を閉じ続けて三日が経った。それは同時に俺が彼の眠るベッドの脇を定位置にした時間と等しい。
石の家に連れ帰ってすぐ治療士に診てもらったが、その場にいたアルフィノが治癒魔法を迅速にかけてくれたお陰で命に別条はないらしい。あとはゆっくり休ませて、自然と目覚めるのを待つだけ。
そうと分かっていても。冒険者として生きているからには何度と経験したはずだった、あの瞬間が妙に目蓋に焼きついて離れない。
目を閉じるのが怖い。
眠ることさえ恐ろしい。
ふと、肩を叩かれる。頭垂れていた身を起こし、手の主を見上げると星空を宿す魔女がやさしい眼差しを降ろしていた。
「……代わるわ。あなたもそろそろ休みなさい」
「いいや、ここは俺が。君にしか出来ないことがあるんだから、そっちに行ってくれ」
「全く……聞かん坊なところばかり、出会った頃からちっとも変わらないのね」
「そう言う君は……随分ときれいになった、シュトラ」
「そういう軽口は別の時にしなさいな」
戯れに頬へ伸ばした手をパチリと叩かれ、大きな溜め息まで吐かれてしまう。行き場をなくした手で近くにあった椅子を引き寄せ、彼女にすすめると、素直に腰を下ろしてくれた。話を聞いてくれるつもりはあるらしい。
「体内エーテルは滞りなく巡っているわ。あなたが休みなく診ていたからね」
「彼の生命力の強さだよ、俺は手助けをしただけだ。それに、俺もちゃんと休んでいるから大丈夫」
不意にヤ・シュトラの指が俺の頬を撫でる。呪具を外したやわらかい指先が丁度目の下を労るようにふれるのを視界の端で捉えていると、やがてあたたかい癒やしの波動と淡い光を感じた。
「……本当に、無茶ばかり……」
「悪い」
「そう思うなら、自分の身も大切になさい。あなたが護りたい人たちに心配させちゃ駄目よ」
収束していく光に合わせて離れていく指先を捕まえる。長い付き合いに甘えて、言葉を発することを辞めた俺を夜空が見詰めていた。
何もかも見通す彼女にはきっと隠せない、我が身を吹き荒らす悲しみ、後悔、そして怒り。瞳の中の星海がもたらす光のお陰でそれは徐々に凪いで、伝えるべきを明らかにしてくれる。穏やかな潮が何処からか手紙入りの酒瓶を運んでくるように、偶然が重なった結果とも必然とも感じられる不思議な感覚だった。
「……ごめん」
「たまには良いんじゃない?でも、ちゃんと言葉で伝えなさい。特に、あなたと同じくらいの聞かん坊には、ね」
するり、と擦り抜けていく指先を追うことはしない。しなやかな動きで椅子を立ったヤ・シュトラが俺の真正面に来て、それでも俺の視線と近い位置にある夜空に見下される形になる。
「彼が起きてきちんと伝えられたら休むこと。約束出来て?」
幼子に言い聞かせるように、頬を両手で挟まれて紡がれる言葉はやさしい強制の力を帯びていた。ここまでしないと俺も、俺によく似た彼も言うことを聞かないと思われているなんて、情けない話だ。
「はい……ありがと、その約束は守る」
「良い子ね」
もう一度、そうっと離れていく手を眺め、まろやかな微笑みを残していった黒衣の背中を見送った。
そして、まだ目蓋を固く閉ざしたままのグ・ラハに向き直る。ヤ・シュトラはじきに目を覚ますと言ってくれていたから、きっとその時は近いのだろう。彼女は余計な期待を持たせるようなことを言ったりはしない、特にこういう時には。
サイドチェストに置いてあるガラスの水差しがふと目に入った。もう起きるなら新しいものに替えておいた方がいいだろう、と半分ほど水が入っているそれに手を伸ばす。だが、かんたんに届くはずの水差しにはふれられなかった。
服の裾を摘む小さな引力に逆らわず、上げかけた腰を椅子に戻す。
「おはよ、グ・ラハ・ティア」
「……おはよ、う……?」
薄く開いた目蓋から垣間見える紅が忙しなく俺や辺りを見回している。ややあって、未明の間にいることを把握したグ・ラハは深く、ゆっくりと掛け布団に包まれた胸を上下させた。
記憶が混乱しているのか、状況を掴みきれていない彼にこれまでの経緯と三日眠り続けていたことを伝えると、申し訳なさそうに耳を伏せてしまう。
「ごめん、迷惑かけた。でも、あんたが無事で良かった」
へらり、と心底安心したように、体も起こせないほど衰弱しきった彼が青い顔のまま放った言葉。隠しきれていない荒れた呼吸で、無事で良かった、なんて宣う。穏やかに伝えようと考えていた道筋は彼が閉ざしたようだ。
「何一つ良くない」
「……え?」
椅子からゆっくり立ち上がり、グ・ラハが横たえているベッドに片膝ずつ乗り上げる。目覚めたばかりで体を起こせない状況をいいことに、彼の身体を跨ぐ形で膝立ちになる頃には、明らかな定員超えにベッドがギシリ、と悲鳴を上げていた。見下ろした紅い瞳には困惑の色が射しているが、それを気にかけて途中で止めてやるつもりは毛頭ない。
「俺の代わりに、君が怪我をしてもいい道理があるか?みんながどんなに心配しているか、分からない君じゃないだろ」
「……それでも、あんたがあの熱線に焼かれるよりは──」
「アルフィノやアリゼーが同じことをしても、そう言えるのか?」
ぐ、と息を詰める気配と、同時にせめての抵抗にか顔を横に逸らされる。他人と話す時は目を合わせるものだ。そうっと両手で小さな頭を抱えて、仰向けに直してやり、そのまま離さずさっきよりも随分見えるようになった紅い瞳をじっと見詰める。
本当はこんなこと言いたくもないし、したくもない。つらつらと流れ出る言葉にはそんな後ろ向きの気持ちが出ないように、嘲笑とも取られかねない笑みを貼り付けて俺の真下でまだ動けずにいる恩人を見下ろす。
「俺はあの時、護り手として任務についていた。俺の役目はあの場の誰もを護り通すことだ、自分も含めてな」
アウラ族らしい長身が落とす影に、彼本来の爛々とした瞳の輝きは完全に隠れてしまっていた。怯えすらちらついている。でも、こうでもしないと彼は、本当の意味で俺の言うことすら聞き入れることはないだろう。
「なのに、君は俺を庇って大怪我をした。それがどういう意味か、剣と盾も持つ君ならよく分かるだろ」
何かを言おうとして止めて、はくはくと何度か開いた口もやがてしなだれきった耳と同じように閉じられてしまう。
彼は長い永い間、時を待ちながら人々を守り続けてきた人だ。だからこそ、分からないはずがない。いつまでも胸を苛み続ける無力感を、遣り場のない憤りを。
それに、分からない人にここまで話して聞かせるほど俺は優しくなれない。グ・ラハなら、グ・ラハだから。
「護り、護られる俺たちには信頼がないと戦えないし、戦っちゃいけない。なあ、俺がそんなに頼りなかったのか?」
「そんなこと、ない!」
「でもな、グ・ラハ・ティア。君がしたことはそういうことなんだ」
どうか伝わるように、無理矢理に視線を合わせたまま距離を縮める。グ・ラハの汗ばんだ額が目の前にあって、近過ぎる距離にこちらが目を逸らしそうになるが、今しかない機会を逃すまいという意志だけで上がりそうになる体をどうにか留めた。
「頼む……自分の身を投げ出すようなこと、もうしないでくれ……」
渾身の言葉が降ると同時に、結わえた髪の一房が彼の顔の横に垂れ落ちる。彼の赤と俺の紺は交わっても混ざることはない。
だが、ゆっくりと伸ばされた手が紺色の髪にふれる。紅い瞳に広がる波紋が俺の投じた一石が少しでも彼に届き、響いたことを報せてくれた。
「……すまなかった……いや、ごめん……オレ、あんたを傷つけたいわけじゃなかったんだ」
「分かってる、俺を想ってのことだって。でも、俺の……いや、いい。目が覚めて、良かった」
ふっと短く息を吐いて両手を離してやりながら体を起こすと、まるで生き物のように指の合間から逃れた紺色の流れをグ・ラハは目で追っていた。ゆったりと瞬く目蓋がじき彼をまた眠りの世界に引き込もうとしているのが見て取れる。
必要以上に揺らさないようにベッドをそうっと降りてから、椅子に座り直して彼と出来るだけ視線を合わせた。また眠ってしまう前に言わなければいけないことがもう一つある。
「言い遅れた。助けてくれてありがとう、グ・ラハ・ティア。君には借りを作りっぱなしだ」
パチ、と丸まった瞳は満足気に細まり、やがてゆっくりと微睡みへと引き込まれて閉じていく。
「しっかり休んで、それからまた旅に出よう。丁度良い季節だからさ、海とか……」
俺が乗り上げたせいでずれていた掛け布団を胸まで上げてやりながら、眠りに落ちるまでここにいると示すように他愛のない、今この瞬間に話さなくても良いことばかりをポツポツ落とし続ける。ゆるゆると首肯をしていた小さな頭が動きを止め、穏やかな寝息に代わった頃、彼に微睡みをもたらしたものが俺にも手をかけ始めた。
抗いがたい強い力に従って、しかし彼の眠りの邪魔にはならないように、椅子から床に降りてベッド脇のサイドチェストにもたれかかり、落ち着く場所を探す。ここなら彼が起きても気がつくだろう。そうしたら、また俺が一番に「おはよう」と言ってやるんだ。
小さな楽しみを想い、俺は目を閉じた。