星の願いと

普段よりも多く仕事をこなしたにも関わらず、いつもよりかなり早く片が付いてしまった。補佐官に促されるまま退庁したならそのまま帰って家でゆっくり余暇を過ごせばいいものを、のこのこと指定された場所へ赴く自分も愚かなのだろう。

帰り路につく者、仕事終わりに弁論を交わす者、私とは逆に官庁街へ入って行こうとする者。静かな活気に満ちた街は郷愁を想わせる橙色の代わりに、穏やかな夜の青い空気がひたひたと隣りに並ぼうと追いついてこようとしていた。
「エメトセルク!あなたがこの時間に執務室の外にいるなんて」

呼びかけに振り向けば、顔馴染みのミトロン付き補佐官が人好きのする笑顔でこちらに手を振っていた。一緒にいるのはアログリフの補佐官だ。上司と同じく、補佐官同士も仲が良いらしい。
「ああ、今日はたまたま早く終わったものでな」
「やあやあ、それは良い。ミトロン様とアログリフ様は、あなたが無理をしていないかいつも心配しているのですよ」
「もちろん、私たちも」

朗らかに微笑みと労りを向けてくれる同胞に笑みを以て返して、「そういえば」とやんわり話題を切り返した。
「さっきまで二人で議論していたのだろう?」
「ええ、そうなんです。今日は先日登録された『通信機』のイデアをについて話していたのです」
「そうだ、稀代の魔道士たるエメトセルクの意見も是非聞かせていただきたいのですが……」

言外にこの後の予定は大丈夫かと問うてくる二人は遠慮がちな視線だが、この座について何度となく経験してきた高揚感や期待を感じる。そんな目で見られれば断れるはずもない。ちらりと建物の隙間に見た空はまだ橙色の名残があり、一つ議論するくらいの時間はあるだろうことを私に報せてくれていた。
「勿論、参加させてもらおう」

二人との議論は月がくっきりと見える頃にお開きとなった。流石、十四人委員会の補佐官を務めるだけあって視点も思考のキレも眼を見張るものがあり、良い刺激になったと言える。

だが、空はすっかり夜のヴェールに覆われ、街角で議論している人影すらない。

ああ、今回ばかりは認めてやろう。予想外に盛り上がった議論によって遅刻していることを。やや大股で道を行き、指定されていた建物の屋上へ登る。だだっ広い屋上はいつかの月夜と違って誰の影もなく、流石に悪いことをしたかと胸がチクリと傷んだ。

歩みを進め、アーモロートに戻ってきたあいつが好んで座っている縁に近付くと、ポツリと小さな何かが落ちていた。落とし物だろうかと拾い上げると、それは親指の半分ほどの大きさの貝殻のようだった。

海が近いとはいえ、こんな建物の屋上に貝殻があるだなんて、もしかしてあいつが忘れていったのだろうか。

あいつがよく座っているあたりに適当に腰掛けて、しばらく小さなそれを摘んで眺めていると、不意に耳慣れない音が響く。驚いて視線を周りに巡らせるもこんな高台には何もなく、どうやらこの貝殻から鳴っているようだった。何かを呼ぶような音が鳴り止むと、何故か貝殻から今度は聞き慣れた声が微かに漏れ出てくる。疑問と仮定が浮かび、ものは試しだ、と少し潮の香りが残る貝殻を耳に近付けてみた。
『──い、誰か聞こえるか?』
「……アゼム、お前か?」
『あ、ハーデス?よかった、聞こえているね』

声の主はここに私を呼び出した張本人だった。どうやら既にアーモロートから離れているらしく、時折風を切る音が声に混じって聞こえてくる。それを証明するようにあいつのお気に入りの鳥をかたどった乗り物のイデアが鋭く鳴く声も聞こえてきた。
『誘っておいて悪い、でもどうしても行かなければならなくなって。それで通信機を残しておいたんだ。君なら気付いてくれると思っていたよ』

まさか遅刻の遠因に助けられるとは思わず、喜んでいいのか呆れればいいのか。きっと浮かんでしまっている複雑な表情はあいつに見られれば、しばらく笑いが収まらなかったことだろう。今、一人でいてよかった。
『これなら離れていても話せるから……ごめん、ハーデス』
「……私こそ、遅れて悪かった」

やっと返事をした私の声に呼吸音が寄越される。見ずともほっとした表情で破顔しているのが目に浮かぶようだ。
「それよりも、座の名で呼べと何度言えば覚えるんだ」
『まあまあ、君は勤務時間外なんだから細かいことはいいだろ?』

くっくと楽しげに話すあいつに溜め息ばかりが漏れる。これで許してしまうのだから、他の委員会メンバーや奴を知る人々を甘いとは私も言えない。
『ああ、そろそろアーモロートの方でも頃合いか……空をご覧よ』

まるで隣りで空を見上げているのかと思うほど、アゼムが空を指し示した時機はぴったりだった。月が薄雲に隠れ空が一際暗くなった瞬間、星海が視界の全てを埋め尽くす。

光の強さも大小も色もさまざま。何かを歓ぶように、歌うように瞬く星々の合間に揺蕩うエーテルの色も今夜はひどく眩い。
『君も知っているだろう?星々の彼方と此方に別れた恋人たちの伝説を。今夜は彼らのいる星の海が一等綺麗に見える日だよ』
「そうか、今日だったか……」

あいつも何処かで満天の星空を見上げているのだろう、感嘆の吐息を混ぜた言葉はやがて途切れる。通信機という細い流れの彼方と此方で結ばれたまま、感情を共鳴させた時はゆっくり一つ一つ刻まれていた。

私たちはこれでいい、これがいい。待ち合わせ場所で正しく待っている、いつでも手が届くあいつなど面白みも半減以下だ。

私たちは同じ空の下にいる。それだけでいい。
「……おい、」

意を決して、しじまを破るようにあいつ自身の名を幾年か振りに舌に乗せる。すぐに嬉しそうな声で応えるあいつも私と同じ気持ちでいるのだろうか。
「帰ってきたらこの通信機のイデアの実用化に向けて議論するぞ」
『そうか!ふふ、私も楽しみにしてる』

ピュイ、と一際鋭い鳴き声が風を切る。
『そろそろ目的地だ。じゃあ、またな。我らが偉大なる稀代の魔道士、エメトセルク』
「ああ、勤めを果たしてこい」

快活を絵に描いたような笑い声が響いたと同時に、高いところから落ちていくような強いつよい音が通信機から轟き、やがてふつりと途切れた。

腹の底から深く深く息を吐き落とし、建物の縁につけていた手でぐっと体勢を前に、そして体ごと宙に躍り出す。びゅうびゅうと耳の横で騒ぐ風の音はあいつがさっきまで聞かせてくれていたものと同じだ。

みるみるうちに遠くなっていく屋上をぼんやり眺めながら、短い呪文とエーテルを織り上げた。
「来い」

呟いた言葉に喚ばれるように、夜闇のような色の翼を翻して影が屋上から自由落下する私をその全身でかっさらう。もう少しだけ近くで星を見たくなった、それだけのただの気まぐれに付き合ってくれる影の名を持つものは私を連れて高く高く舞い上がった。