夜の散歩、ホルトリウム園芸館にて
昼間は活気に溢れるクリスタリウムの街も、夜になるとヴェールが降ろされたかのように音が少なくなる。
クリスタリウムに滞在している間は、街のあちこちへ散歩に出かけるのが最近の楽しみだ。特に、まだ夜を取り戻せていない地域から帰ってきた後は体内時計が狂ってしまうのか、眠れない夜が多い。少し夜風に当たると心が落ち着くから、と早く寝た方がいいと叫ぶ自分の側面に言い訳をしつつ、はぐれ罪喰いの襲撃に備えて不寝の番にあたっている衛兵に挨拶をして今夜も散歩へと出かける。街の中は昔誰かが設置したという街灯がやさしく照らしているから、歩きにくいということはない。
今夜はホルトリウム園芸館へ行こう。馴染み深い原初世界の植物がこの第一世界でも生息していることに気付いてから、こういう夜は園芸館の隅にあるベンチに座ってぼうっとして過ごすことが多くなった。故郷も覚えていない私には分からないけど、もしかしたらこれがホームシックという感覚なのかもしれない。それに、園芸館は好い匂いがする。深呼吸すると、澄んだ空気と一緒に土や草花の生きている匂いが肺いっぱいに染み渡っていくのが分かる。この世界はまだちゃんと生きていると、体の奥底から感じられる。
水晶公が救おうとしている世界。
こちらに喚ばれてからいくつかの地方を回ったけれど、光の氾濫、罪喰い、停滞するエーテル。問題は山積みだ。私は私が出来るこ全てをやり尽くしたとしても世界一つを救うなんてことが出来るのだろうか。
「……い、けない」
原初世界で〈暁〉のみんなが立て続けに倒れた頃からだ。一人で考えるとどうしても深みへと落ちていく。今はそんなことを考えている場合ではない。今は暗い沼に足を取られている場合ではない。要らない思考を振り払うように頭を軽く振る。
「やあ、あなたも夜の散歩かな」
余程集中してしまっていたのだろう、近づいてくる気配に明るい声が降ってくるまで気付けなかった。園芸館の人たちは客人の私に気を遣ってくれているのだろう、一人でここを訪れた時は挨拶だけすると話しかけることなく放っておいてくれる。その心地よい距離感もここが好きな理由の一つだ。園芸館の人ではないとすると、この声は。
「少し眠れなくて。水晶公もお散歩ですか?」
「ああ、やっと溜まっていた仕事が一区切りついたところでね。折角の夜だから、風にあたろうと思って街中を見て回っていたんだ」
私の座っているベンチを指して、座っても?と律儀に訊く彼に首肯すると、しなやかな動きで彼は私の隣に腰を下ろした。ふう、と水晶公は小さく息をついて、ベンチの横に咲いている低木の花に触れながら静かに話し始めた。
「あなたがホルトリウム園芸館を頻繁に訪れていると職員の者たちから聞いている。植物が好きなのだろうか?」
「いえ、特別好きというわけではないのですが……その、ここには原初世界に似た植物もあるし、夜は特に静かで空気も澄んでるから居心地が良くって」
「そうか。大切に育てている植物があなたの癒しになっていると聞けば、きっと皆とても喜ぶだろう」
「本当に?邪魔になってないですか?」
「邪魔だなんて。あなたはこの街の客人だ。皆、あなたがここに来てくれるのは嬉しいと言っていた。どうか、今度気が向いた時にでも伝えてあげてくれないだろうか」
「分かりました、ぜひ」
それからは心地よい静寂に包まれた。水路を動かしている設備の音や遠い足音の他は時折、水晶公の深呼吸が聞こえるばかり。さっきまで仕事をしていたと言っていたから、彼もまた疲れを癒すためにここに来たのだろう。よく見ると、フードに隠れていない顔色はあまりよくないような気がする。ライナさんに休むように怒られている姿を頻繁に見かけるが、彼は一体いつ眠っているのだろう。そういえば、座って食事を摂っているところも見たことがない。ゆっくりと深呼吸をする彼の気配を隣で感じながら、目の前に植わっている背の高い花を登っている小さな虫をぼうっと眺めながら取り留めのないことを考えていた。
「……さて、そろそろ私は戻ることにしよう。一人の時間を邪魔してしまってすまなかった」
どれくらいの時間が経っただろう。水晶公は緩慢な動きで立ち上がって、私に向き直ってくれる。本当に律儀な人だ。
「いえ、お気になさらず。むしろ、ありがとうございます。お話出来てよかったです」
「そう言ってもらえて、嬉しく思うよ。では、あなたもあまり遅くならないように。ゆっくり休んでくれ」
「はい。おやすみなさい、水晶公」
彼はテメノスルカリー牧場の方へと歩き始めた。が、すぐに立ち止まって、こちらを振り向く。
「水晶公?」
「その……」
振り向いたはいいものの何かを言いかけては止め、顔を伏せてから決心したようにこちらを見たかと思えばまた俯いてを何度か繰り返す。普段、街の管理者としてテキパキと指示を出している彼からは考えられない、煮え切らない様子に少し心配になる。
「……急にこんなことを言うのは不躾だと思うが、その……あなたさえよければ、私と話す時も〈暁〉の皆と同じように楽な言葉で話してくれないだろうか……」
そう、まさに不意打ちだ。彼の言う不躾だと言う申し出に思わず目を丸くしてしまった。言われるまで自分でも気付いていなかった。彼と話す時だけ、普段使い慣れない言葉を使っていたらしい。バレないように、そっと深呼吸をしてベンチから立ち上がるって、もじもじという擬音が聞こえてきそうなくらい落ち着かない様子で所在なさげに手を握ったり離したりしている彼に近付く。無意識に作っていた言葉の距離は、今までの経験がそうさせていたのかもしれない。第一世界に来る時に聞こえたたくさんの声。その中には私を勇気づけるものもあれば、心を揺らがせるものもあった。それでも、今目の前にいる彼が踏み出してきてくれるのならば。
もっと長い距離に感じた、ものの数歩を詰めて、彼の前に右手を差し出した。すると、今度は彼が驚いたようで、弾かれたように地面に落としていた視線を私に向ける。フードで見えない目元はきっとさっきの私と同じようになっているだろう。
今、私も踏み出そう。
「これから、改めてよろしく。水晶公」
「ああ……ああ、よろしく頼む」
私の手と顔を交互に見遣ってから、水晶公は恐々と大切な器に触れるようにやさしい力をこめて手を握り返してくれた。初めて触れた彼の碧色はひんやりしていて、すべらかな質感が心地良い。街灯を受けて散乱する光がとても美しいと思った。