いつでも臆していた

ふわふわの雲に包み込まれているような、心地よいあたたかさの中で目が覚める。窓からは薄く日が射していて、すでに活動を始めている人々の声が時折聞こえてくる。

穏やかな朝だ。

生地にもこだわっているのだろう、さらりとしたなめらかな肌ざわりの羽毛布団からのろのろと抜け出して、朝陽を浴びようと窓に近づきながらぐっと体を伸ばす。久し振りにちゃんとした寝床で休んだ体は、いつもより軽くて調子が良い。
「さて、行こうか」

身仕度をすませてから、還っていった不法侵入者へ声をかけて、扉に手をかける。

今日は一日の終わりに水晶公へ原初世界での出来事を報告しにいく予定だ。昨日は帰還が深夜ということもあって「報告は明日だ」と、有無を言わせない笑顔に押されて早々と居住館に突っ込まれてしまった。

あれはフードを取った後に彼が覚えた、私とクリスタリウムの人々に特別よく効く必殺技の一つだ。

しかし、今日ばかりはあの笑顔に抗わないといけない。ずっと胸の奥に詰まったままの彼の言葉。アリゼーとの約束があの時の感情をあの時のままで残していてくれた。いつも忙しそうな彼だけれど、今日だけは少しの我が儘を許してもらおう

頼まれていた用事を全てすませた頃には、夕陽が沈もうとしていた。鞄にお駄賃をたんまり詰め込んだまま、約束の時間が近い星見の間まで足早に向かうと、幸いなことに扉が少し隙間を残して開いていた。

気付かれないように中を覗くと、既に水晶公は大量の書類を両手にかかえて何やら考え込んでいるようだった。ふよふよと紅色の尻尾が右へ左へ漂っている。

普通に扉を開けていつものように振る舞ってしまえばよかった、と今更後悔が沸いてきた。今日一日、ずっとシミュレーションしていた言葉も行動も忍術のごとく何処かに隠れてしまった。ぐずぐずと扉の前で踏み出せないでいる姿は、みんなが知っている闇の戦士と言うよりは、駄々をこねる子どもに近い。

どうして伝えることはこんなにも緊張するのだろう。しかも、自分のこととなるとどうしても口が重くなってしまう。言葉がつっかえて出てこない、もう止めてしまいたい。

また今度でもいいのではないか、と永遠に来ない今度に任せて部屋へ帰りそうになる足を何とか奮わせて、誰かに背中を押されたように星見の間の扉を思い切りよく開ける。
「水晶公!」

音と声とに驚いたのだろう、赤い尻尾をぶわっと膨らませてこちらを凝視している紅に向かって、容赦なく言葉を投げつける。今日の私はあなたの都合など知らない、気にしない。
「おっどろいた……急に大声なんて出して、」
「これから一緒にご飯食べに行こう。報告はそこでする。彷徨う階段亭集合ね。じゃ!」
「はっ?え、ちょっと、ちょっと待て!」

背後を追ってくる声に振り返ることもせず、スプリントでその場から逃げ出す。バサバサと本らしきものが崩れる音と悲鳴にも似た嘆き声、そしてやや遅れて追いかけてくる足音が聞こえるがそれもこれも全部無視して目的地へ急ぐ。

驚いた顔の通行人たちをすり抜け、どんどんスピードを上げてクリスタリウムを駆け抜ける。危ないだろー!とか怒った声が追いかけてくるけれど知らない。現役冒険者の足と反射神経を舐めてもらっては困る。

「やっと……ゴッホゴホ……やっと、追いついた!何なんだよ急に!」
「一緒にご飯食べたくて。まあ、とにかく座ってよ」

まだ夕飯時には早いお陰で客もまばらな彷徨う階段亭。席を取って優雅に待っていると、息も絶え絶えの状態で水晶公がやっと追いついてきた。

ただでさえ目立つ水晶公が走り込んできた上、やたらと砕けた口調を闇の戦士に投げている。もう目立つとか注目を浴びるどころの話ではない。やっと己の状況に気付いた彼は、恥ずかしそうに勧められるまま席についた。
「はい、かんぱーい」
「……乾杯」

余程恥ずかしかったのか、差し出された麦酒のジョッキを大人しく受け取り、乾杯に応じてくれた。ゴッと木製のジョッキ特有の気持ちいい音が響く。

ゴクゴクと勢いよく喉を鳴らして麦酒をあおっているところを見ると、星見の間からここまでの全力疾走は相当老体に堪えたらしい。
「ふは、クリスタリウムの麦酒は美味しいねぇ」
「……喜んでもらえてよかったよ」

まだ納得はいっていないと、じっとり睨めつけてくる姿すら今は全く怖くない。ああ、いつもならここで怯んでしまうだろう。でも、今日の私は少し違う。今日こそは伝えなければいけないのだから。
「それで。何か大切な話でもあるのだろう?」
「……どうして分かったの」
「あなたは自分に関する話は苦手だから、勢いよく来たのかと思っただけだよ。まさか本当に当たっているとは思わなかったが……」
「流石だ、よく見てくれている」

実りの季節を迎えた稲穂のように、内側に溜め込んだものの重みでしなだれていた背筋を伸ばして、ゆっくりと彼の紅を認める。穏やかな風に、常にはない色が混ざっている。
「アーモロートでさ、私を独りにしないって言ってくれたこと。覚えてる?あれね、すごく嬉しかった」

両手で持っても余りあるジョッキを弄びながら、一つずつ言葉を拾う。想定していた流れは霧散し、もはや流れ続ける濁流の中から言葉を掬い上げていくしかない。
「だから、グラン・コスモスに行く前……そうだな、悲しかった。あなたが自分の命を犠牲にしようとしたことも。それを言わせてしまった私自身の不甲斐なさにも」

言葉を一度切る。ジョッキの中の琥珀色を眺める水晶公とは、もう目線が合わない。ちゃんと聞いていることは、彼の正直な耳が教えてくれている。木目の合間からそろりと顔を出した声は、いつか潜ったリェー・ギア城近くの水没都市のようだった。
「……あなたを悲しませるつもりはなかった」

彼の視線はまだ琥珀色に注がれている。
「そうだろうね。だって、あなたは私があなたを切り捨てることが出来ると思っている」
「だが、もしもそれしか方法がないとすれば、あなたは選び取れる。それが私の、俺の知っているあなたという英雄だ」

彼にとって『最高の英雄』たる私がそんな感情を残しているとは思わないのだ。殊に水晶公という存在がいなくなっても、ただの冒険の一幕で終わらせられるとしか思っていない。

悲しみこそすれ、それは乗り越えられるものだと思っているのだ。
「本気でそう思っているなら、あなたは私のことを誤解しているよ」

ただ置いたはずのジョッキが思ったよりも勢いづいて机に当たる。木目をなぞっていた指をやわく組んでおく。
「私はね、あなたが消えてしまうような未来なんて選べないんだよ」

ああ、やっぱり彼は目を大きく見開いた。驚嘆か、それとも失望か。どちらにせよ、己に向けられた感情を信じられないのだろう。絞り出された声はいつもより低く、少し掠れていた。
「……それしかないとしてもか」
「そう。誰かが犠牲になるしかない方法は、そんなものは希望がないことと同じだ。そうなればもういっそ、全て滅んでしまった方がいい」
「滅多なことをいうものではないよ」
「滅多でも何でも自分の命で解決しようとするあなたには言われたくない。下策も下策。そんなものを私は選ばないし、暁の皆もそうだ。どうして、暁や私を頼ってくれない?私たちが何も出来ない守られるだけの存在だと?」

かつて無力な私たちが前に進むために、いくつもの背中が道を作ってくれた。それがなければ私は今、ここにいない。

冷静な頭は理解していても、悲しくないなんて言えるはずがなかった。本当はずっと一緒にいたかった。
「そ、んなはずがないだろう!あなたたちがいたから……あなたがいたから!この世界は救われたのだ」
「なら、もっと信じてくれよ!」

組んだ指が遂にほどけ、向かいに座っている水晶公の胸倉を掴む。手ざわりのいい黒衣に無粋な皺が寄ってしまった。

いつの間にか混み始めていた階段亭に、少しのざわめきが起こる。喧嘩か、と注がれる興味の色があちこちから見えた。

テーブル越しに引き寄せられた水晶公は視線だけ私から外さず、碧の腕を気にするなと言うようにスイと横に薙ぐ。戸惑いがちではあるがこちらへ向けられた言葉と視線の波は引き、各々のテーブルへ戻っていったそうだ。

水晶公の意識がまたこちらに戻ったことを感じてから、言葉を続ける。渦巻く奔流は少しずつ、でも確実にしまいこんでいたものを流し出し始めていた。
「私はあなたの選んだ最強の英雄なんだろう?だったら光の加護でもなんでも使って、全部救ってやる。私だけで出来ないことなら何でも使う、何処にでも行って方法を探してきてやる。だから……!」

伝えたくても伝えられなかった。英雄として在ることを決められなかった私に重すぎたそれは、確かにこの内を満たしていた。
「誰かを犠牲にして立っているなんて、もうそんなのたくさんだ……これ以上、目の前から誰かがいなくなるのは耐えられない。もう、そんなことさせない」

交感するように、ローブを握る手に碧が添えられる。照明を受けてきらきらと反射する碧は、いつか見せてくれた星の海を思わせる輝きを放っていた。
碧に握られた手から移った視線は、再び紅を捉えた。さざめきが聞こえる。
「君と、また一緒に冒険をしたいんだ」

スッと鋭い呼吸を一つ、二つして、彼はまた目を伏せた。
「……あなたの中の光を引き受けて私がいなくなることで、暁のみんなもあなたも、全てが元通りになっているはずだった」

彼の中で、ごうごうと風が吹いているのだろう。じわじわと握られている手に力がこもっていく。
「私がここに生きていることが、私を送り出してくれたみんなに申し訳ないと……そう思わない日はない。一人のうのうと平和な時を……私自身の望みを叶えるなんて、そんなことが許されるのか……」

彼も不安を内側に溜め込んでいたのだ。凝り固まった覚悟をほどくには、少し時間が経ちすぎてしまったようだ。
「……百年という時間をかけて、クリスタリウムを作り、みんなの心に志を持つように育てたのは君だ」

脳裏にはユールモア軍に対抗すべく、立ち上がったあの日がよぎっていた。差し伸べられた手は、ただ戦場に見送られるのではないことを伝えてくれた。共に戦うために伸ばされた碧。
「個人の幸せを捨てて、今まで秘密を抱えて一人で頑張っていたのは君だ。そんな君を一体誰が咎めるというの」
「だ、だが……」
「もし誰かが君を咎めるなら、私はその人に君がこんなにも頑張ってきたことを、それで私が……いや、世界が救われたことを教えてあげる。分かるまで、根気強く」

碧に握られていない方の手を添える。いつかの夜のように、今度こそ余すことなくこの言葉と気持ちを伝えてくれ、と願いを込めて。
「私は水晶公にも、グ・ラハ・ティアにも幸せになってほしいよ」

やっと顔を見せてくれた水晶公は、白く色が抜けてしまった髪の合間から、ぐっと何かを堪えるように紅を揺らしていた。
「わ、私は……あなたと、生きていたい。また一緒に、冒険をしたい」

碧がそっと離れていく。水晶公はそうっと、泣き笑いのような微笑みを見せてくれた。もう彼からは、よく知っている雨のにおいはしない。
「それに……第一世界の良いところも、まだあなたに全部見せられていないんだ」
「一緒に見に行こう。君の思い出も、たくさん教えて」

彼が愛し、水晶公を育んだノルヴラント。思い出と共に巡るノルヴラントは、きっと今までの旅の中にはなかった表情を見せてくれるだろう。そこに冒険者としての、賢人としての好奇心がうずかないはずがない。

そして、識ることが彼の幸せへ繋がる糸になるように。いつまでも私は願い続ける。