魔導士の気まぐれ

01

ほんの気まぐれだ。

仕事がひと段落した今、たまには森林浴でもしながら昼寝を楽しもうと、原初世界に降り立った。薄い木洩れ陽しかない深い森は、昏い淵を飼う私にとって心地が良いものだ。だからこそ、人目につかない塩梅の良さそうな枝を探し歩く時間も楽しむことが出来る。

サクサクと草を踏み締めて森の奥へと進んでいくと、近くでエーテルが明滅したような気がした。取るに足らない、弱々しい光だ。

だが、この時の私はとても機嫌が良かった。何か暇潰しになるようなことがあるのではないか、と好奇心が首をもたげているのを感じる。面倒事になるのであればさっさと消えるなり、消すなりすれば問題ないだろう。そんなことを自分に言い訳しながら、私はその残光を追った。

歩くこと数分。群生する背高草を分け入った先に光の主、子どもは倒れ伏していた。やわらかい草木の匂いに包まれて、穏やかに眠っているようにも見える。だが、エーテルの流れは乱れ、目も当てられない酷いものだった。生気のない血色と断続的な呼吸がその深刻さを物語っている。

元々脆弱な魂は簡単なことで崩れ、深きへ還っていく。何があったかは知る由もないが、大方野盗にでも遭ったのだろう。魔術も使えない、戦う術すらまともに扱えない弱者が生きるには、この不完全な世界は厳しすぎる。

ここで終わることがこの小娘にとっても幸せだろう。せめて冥界までの道は迷わないように、この手で導いてやろう。

エーテルを練り上げ、その細い喉を絡めとろうと手を伸ばす。闇の力が穏やかな眠りを与えるだろう、そのはずだった。
「……エーテルが吸い取られている……」

まさかこんな小童にエーテルを食う芸があるとは予想外だ。確かに意識のない子どもの青白かった肌には赤みがさし、心なしか呼吸も深く穏やかなものになっている。この世を生きる誰よりも濃いエーテルを極少量とはいえ飲み込んだのだ。その小さな身を回復させるには十分すぎる量だったのだろう。

なるほど。この子どもは見た目に似合わず、最近ニームで考案された軍学に通ずる者ということか。なぜこの黒衣森にいるのかは不明だが。

それよりも、純度の高い闇のエーテルを吸い取っても尚腹を下さないどころか体に馴染んでいるところを見ると、これは駒に相応しい器の可能性がある。たまたま昼寝のために通りがかっただけだったが、私は掘り出し物を見つけたようだ。

首へと伸ばしていた手でその小さい体を抱えもって、拠点に繋がる闇の回廊を呼び出す。ああ、こんなにも軽い。

さて、そのまま使えるようならすぐにでも、まだ不十分なら魔術でもなんでも必要なことを仕込んでやってもいい。それに、国ひとつ作り上げ、滅ぶまでを導いてやったのだ。これくらいの遊びは許されてもいいだろう。幸い、時間はある。種を撒き、水をやり、じっくり収穫を待つことくらい、瞬きの間に終わってしまう。

そう、ほんの気まぐれだ。

02

手のかかる子ほど可愛い、とは誰の言葉だったか。
「プルトン!」

まだ耳に馴染まない名を呼びながら、ウッドデッキで読書を楽しんでいる私めがけて子どもが駆けてくる。が、すぐに視界から消え去ってしまった。

代わりに派手に滑る音と土煙とが静謐な森を揺らす。どうやら木の根に足を引っかけたらしい。昨日も同じところで引っかかっていたが、こいつは学習しないのだろうか。
「ちゃんと前を見ないからだ。ほら、一人で立ってごらん」

咄嗟に手をついて顔面から滑りこむことはしなかったようだが、半ズボンから剥き出しの膝を思い切り擦りむいたらしい。

大きな瞳いっぱいに涙を溜めて、溢すまいと我慢している。学習は遅いが、負けん気はあるようだ。

「うぅ」だの「ぐぅ」だの小さく唸りながらも、地面についたままの手にめいっぱい力を込め、両足をしっかり地面につけて立ち上がってみせた。赤くなってしまった膝が何とも痛ましいが、それすら勲章のようにも見えてどこか誇らしげだ。

成果を見せたのだから、それ相応の報酬が必要か。今は冥界に融けている友ならばどうしただろう。ふと浮かんだ思考を試すべく、私はろくに読み進んでいない本をガーデンテーブルに伏せて、両腕を広げてやる。
「良い子だ、ポプラ」

それが合図になったのか、耐えきれなかった濁流を目から鼻から溢れさせながらまた走ってくる。今度こそ転ぶと手がつけられなくなるだろう、かんたんな魔法で足を取りそうなものはひとまず端に避けておいてやる。

かくして短く長い距離を旅してきた小さな影は、無事に私の腕に収まった。なんとも弱々しい、取るに足らない魂か。
「泣くな泣くな。膝を見せてみろ」
「ぶえぇ」
「ああ、こんなものはすぐに治る。ほら、見ていろ」

片腕に持ち直して、擦りむいた膝を自由になった方の手のひらに収めてやる。治癒魔法における初歩の初歩、ケアルが発する淡いエーテルの光が潤んだ瞳にも灯る。

次に手を離してやれば、擦りむいた膝はすっかり綺麗になっていた。正直、今後のためにかさぶたくらいは残してやろうかと思っていたが、仄かな引力に持っていかれたエーテルがそれを許さなかったようだ。
「プルトンすごい!」
「この程度、お前もすぐに出来るようになるさ」
「ほんとに?」
「ああ。お前には才能がある」

エーテルを食う技術、あるいは体質を明かす手がかりになるだろう、と森で私に拾われるまでの過去を問うてみた。だが、要領を得る答えは得られずじまいだ。少なくとも親兄弟の影はなく、周りの大人たちに育てられていたらしい。名前すら与えない碌でもない奴だったようだが。

そこで、私は早々に過去を追及することを辞めた。森で拾われた時から、最早この子の過去など関係がない。こいつは私が名を与え、生きる意味を与え、器として育て上げる。

そして、最後は我らが宿願のための糧となるのだから。
「大いに学び、大いに成長しろ──我が子よ」

私の真意など知るよしもなく、腕の中に収まっている子どもはくすぐったそうな笑顔を咲かせる。控えめに、だが鈴のような心地好い音が森へと浅く広がっていった。
「さあ、もう今日は家に入ろう。夕食の用意を手伝ってくれ」

小さな体を抱え直し、席を立つ。忘れずに回収した本を腕の中の子に持たせてやると、読めもしないのに熱心に中を覗いている。
「そうだ、今夜から寝る前に本を読んでやろう。どんな物語が良い?」
「あのね、プルトンと同じのがいいなあ」
「私と同じ?それはまだお前には難しいだろう」
「でも、いっしょのほうが楽しいよ?」
「ふむ、一理あるが……では、ある国の女王騎士たちの物語を聞かせてやろう。私のお気に入りだ」
「きしさま!」

大きな瞳を期待に輝かせ、今からでも聞きたいと視線で以てせがむ様は、アラグの市井や未だ胸を満たす故郷の子どもたちと同じだった。無邪気な存在は何処でも変わらないということか。
「プルトン、くつおちた!」

それにしても、ああ、本当に手のかかる。