寄り添う淵

その指先は届きそうで届かない。

爪先立ちをしてみたり、手元の棚板を持って背伸びをしてみたり。周りに助けを求めるよりもまず、自分で何とか解決出来ないか試してみるところは青年の長所だった。

だが、どうにもならないことは世の中にありふれている。たとえば誰かの性根の不器用さであったり、誰かの破天荒さであったり。そして、未だ成長過程にある彼にとって、高いところの物を取ることも自分一人ではどうにもならないことだ。

他にもイデアの閲覧者はいれども、背の高い棚の影に隠れてしまって小柄な青年の奮闘に気付く者はいなかった。満面の笑みを浮かべて彼を見守る、ただ一人を除いて。
「やあ、これがお望みかな」
「!ありがとう、ヒュトロダエウス」

背後から青年の求める物──あるイデアが収められた結晶を手に取って渡したヒュトロダエウスへ、青年は仮面をつけていても分かるほどに破顔する。胡散臭いと悪友に評されるヒュトロダエウスの笑顔とは全く質の違う、純な笑顔だった。
「エリディブスもあの人のイデアに興味があるんだね。フフフ、ワタシとお揃いだ」
「なんだ、これはアゼムのイデアだったのか。綺麗なクリスタルだったから見たかったのだけれど……納得だな」

その内容を知らずにいても魅かれる輝きに青年、エリディブスは得心がいったようだ。ふむふむ、と手にしたクリスタルを眺めながらしきりに頷いている。その熱心な姿にヒュトロダエウスは一つ、楽しいことを思いつく。
「エリディブス、そのイデアを実際に見たくはないかい?」
「見たい……けれど、そんな勝手に持ち出したらいけないだろう」

しい、と指先を口に当てて、ここからは周りの者たちには秘密だというように、ヒュトロダエウスは声を潜める。
「フフ、ワタシを誰だと思っているのかな、エリディブス。それに、持ち出さなくとも、既にイデアを識っている人に見せてもらえば問題ないさ」

「だからといって、どうして私のところに来る……」

勤務時間中であったエメトセルクは、当然のことながら執務室で割り当てられた仕事と、何処からともなく降ってくる管轄外の仕事をこなしていた。同僚が悪友に伴われて訪ねてきた時点で厭な予感はしていたが、それでも真面目な彼はちゃんと用件を訊いてしまうのだ、
 そして、徐々に眉間の皺が深くなっていく様子をヒュトロダエウスはまたいつものニヤニヤ笑いを浮かべながら眺めていた。
「アゼムは今も外遊中だからね、キミが適任だろう?」
「なら、審査をしたお前が見せてやれば良い。一度流し見た私より余程しっかりと再現出来るはずだ」
「ワタシよりもキミの方が魔術は得意じゃないか」

さっさとお前たちも仕事に戻れ、と手をひらひら振って追い出そうとするエメトセルクと、なおも食い下がるヒュトロダエウス。そんな二人を交互に見遣るエリディブスから、少し落ちた声が漏れる。
「ヒュトロダエウス。やはり、彼の仕事の邪魔をしてはいけない。イデアなら今度、本人に見せてもらうから」

彼もまた十四の座に就く者だ。最優先するべきは役目の完遂であり、それぞれが最大限に働き、世界を在るべき形に導く調停者である。エメトセルクもヒュトロダエウスも、それは重々承知していた。世界を運営するという大きな力そのもの、もしくは近い位置にいるからこそ、私情で動くことは避けなければならない。

二人は顔を見合わせ、一方はニヤけ顔を、もう一方は眉間の皺をより深くする。自らの軽率さを悔やむエリディブスはそんな二人には気付かず、仕事に戻ろうと踵を返しかけていた。
「……」
「そうか……残念だけど、そうだね。最強の魔道士なら、あの人のイデアもきっと美しく扱ってくれると思ったけれど。やはりオリジナルに見せてもらった方がいいものね」
「おい、それは聞き捨てならない」

エメトセルクが彼らしくなく、悪友の安すぎる挑発に乗ってみせる。ガタンと椅子を跳ね飛ばして、広い執務机から出てくる。大きな溜め息を吐きながら、だがあたたかい横顔をエリディブスはこれまでにも何度か見たことがあった。

それは決まって、今見せてほしいとねだっているイデアの創造主が関わる時であると、ニヤけるヒュトロダエウス以外は気付いていない。
「全く……見ていろ」

頭上に上げられた指がパチンと鳴らされると、執務室の天井から照明のやわらかい光と共に、ふわふわと何かが降ってくる。エリディブスがゆっくりと落ちてきたものを掴み取ると、それは薄縹色の花弁だった。

次々と霧雨のように降ってくるその花こそ、アゼムが収めたイデアだ。特に薬効があるわけでもない、降ってくる花弁が美しい、ただそれだけのもの。

ちなみに、創造物管理局に提出された時に窓口で受付をしたのは、たまたま通りがかった局長たるヒュトロダエウスその人だ。本人に実演を求めたお陰で管理局のフロントが花弁だらけになって、帰還を聞いて駆けつけたエメトセルクの説教が長くなったのは記憶に新しい。
「どうかな、エリディブス。アゼムのイデアは美しいだろう?何の役にも立たないけれどね」
「きれいだ……ありがとう、エメトセルク」
「……ああ」

何の役にも立たないイデアでも、美しいと喜んでくれる存在がいるのであればたまには良いのかもしれない、と少しばかりエメトセルクの眉間の皺が緩む。
「二人とも、掃除はしていけよ」