空の裂け目にて

久しく鳴らす人がいなかったリンクパールが着信を知らせる音を静かな部屋に響かせる。

早く止めないと先に休んでいるだろうアルフィノやタタルを起こしてしまいかねない。日誌をつけていた手を止めて鞄を漁ると、奥底で貝殻が震えていた。
「……もしもし」
『私だ、夜分にすまないな。起きていてくれて嬉しいぞ!』

耳元に聞こえてきたのは、数日前にもドラヴァニア雲海で背を預け合った騎士の元気な声だった。不思議と暖炉に火も入れていない一人きりの部屋が少しだけあたたかくなった気がする。
「オルシュファン?どうかした?もしかして、ドラゴンヘッドに何か……」
『いいや、このオルシュファンの目が黒い内はお前の心配することは何一つとない。我が友よ、今夜は折り入って頼みがあるのだ』

いつになく真剣な声音に思わず唾を飲む。彼の望むことには全力で応えたい、それでも足りないほどの恩があるのだ。

たっぷり間を開けて口を開いた彼から出てきたのは、だが予想外の頼みだった。

「毛布にくるまるお前……イイ!だが、私としては今すぐ互いに身体をあたため合う稽古に興じたいところだがな!」
「ちょ、ちょっと!そんなにはしゃいだら他人にぶつかっちゃうよ」
「む、すまない。お前との熱い時間を想像するだけで、フフ……昂ぶってしまった」

時刻は日付がじきに変わるという頃、オルシュファンと私はファルコンネストを訪れていた。アルフィノやタタルにも、フォルタン邸の人にも秘密だから、とオルシュファンに導かれるまま窓から抜け出してきたからか、ずっと鼓動が跳ねている。

でも、きっとそれだけではない。

今夜は隣りに並んでいる友の風体は、いつも身につけているフォルタン家のホーバージョンと違っている。すらりと長い四肢がよく映える細身のシャツとウールセーター、ロングコートもしっかり厚手の上等なものを羽織っていて、全体的に白と黒で統一された服装は色素の薄い髪や瞳とあいまって、彼の魅力を最大限以上に引き出していた。ゆるく巻かれたマフラーが揺れるたび、冷えないようにと着せられた毛布の端を握る手に力がこもる。

そんな自分に何となく気付かれたくなくて、急いでさっと周りに視線を走らせると自分たち以外にも人がちらほらと空を見上げている姿が見られた。
「夜中なのに結構たくさん人がいるね。みんな上見て、何かあるのかな?」
「それは後のお楽しみだ。さあ、体を冷やす前に少しばかり歩こうではないか」

晴れたクルザスの空のようなアイスブルーの瞳がやわらかく微笑む。キャンプ・ドラゴンヘッドに出入りするようになってから教わった雪道の歩き方を実践しつつ、迷いなく歩いていく彼の後を追った。

ザクザク、と凍りかけた地面を踏みしめて喧騒を離れる。昼間なら活発に動き回っているモンスターたちも、深夜はそれぞれの巣に戻るのだろう、ただただ静かな雪原が広がっていた。びゅうびゅうと遙か西の山々から吹く冷たい風は体を冷やすが、雲一つない星空がひどく美しくてあまり気にならない。

ぽつぽつと会話を交わしながら歩いている内にいつの間にか夢中になっていたのだろう。気が付けば私たちは英雄ハルドラスの立像まで来てしまっていて、二人で顔を見合わせて白い息を吹き出した。ひとしきり笑ってから、来た方角を振り返るとファルコンネストの灯台がちらちらと揺らいでいて、やっと遠くまで来た実感が湧いた。私たち以外誰もいないハルドラス像の周りには真っ新な白い雪が積もっていて、きょろきょろと周囲を確認するオルシュファンの横で足踏みをして跡をつけてしまう。
「この辺りなら丁度イイだろう。む、耳が赤くなっているではないか!このマフラーを貸してやろう」
「駄目だよ、マフラーまでもらっちゃったらオルシュファンが寒いでしょう」
「私は暑いくらいだから気にすることはない。それより、まだイシュガルドの寒さに慣れていないお前が風邪をひく方が大変だ」

そう言ってオルシュファンは問答無用で既に毛布でぐるぐる巻きの私に、濃い灰色のマフラーを巻いてくれた。マフラーからはオルシュファンが好んでつけているコロンと同じ匂いがふんわり香って、お世辞にも上品とは言えない冒険者風情には少し勿体ない気がした。
「そろそろか……友よ、空を見るのだ」
「空?」

彼が指差すのは西の空、聖フィネア連隊が陣地を敷いている方角だ。今夜はよく晴れているからか、随分と長い間凍土に伏せたままの古竜の影すらも遠くに佇んでいるのが見て取れる。

一体何を見てほしいのか、と彼へ問おうとした瞬間。

空の全てを覆い尽くすように、光が降りてきた。

まるで一枚の見事な織り物のような光の帯は、霊峰から吹く風に揺れてまばたきの間に色も姿も変えていく。その圧倒的な光景に言葉は恐れをなしたように胸の奥で詰まり、ただひたすら空を見上げて立ち尽くすしか出来なかった。
「……どうだ?美しいだろう」
「……すごい……」
「オーロラといってな、稀にこのクルザスの空に現れるのだ。今日の私たちは運がイイ」
「……すごいよ、オルシュファン。すごく、綺麗だ……」

ほう、と言葉の代わりに溜め息が漏れる。白く色づいたそれはふわふわと踊るように浮き上がり、霧散していく。この気持ちをどんな言葉で表せば良いのか、きっと私に学があれば余すことなく伝えることも出来たのだろうけれど、代わりに出てくるのは同じようなものばかり。それでもオルシュファンは満足げに目を細めて、何も言わずにやわらかそうな白い息を吐いていた。

どれほどの時間、二人で空を見上げていたのだろう。戦場で舞うように戦う武人の鎧に反射する炎のようにさまざまな表情を見せていた光は、やがて姿を現した時に開けた空の裂け目へと帰っていった。それでもしばらくは名残りの星々を眺めて、その余韻に浸る。なんて贅沢な時間なのだろう。
「オルシュファン、ありがとう。とても、きれいだった」
「私こそ礼を言うぞ。どうしてもお前と共に見たかったのだ」

幾分か勢いを弱めてそよぐ風が彼の目元にかかる髪を撫でて、やさしい瞳を見せてくれる。本心からだと分かる、真っ直ぐでささやかな願いにさっきまで言葉がつかえていた胸にじんわりとしたあたたかさが広がっていった。
「ところで、友よ。ものは相談なのだが、このまま日の出も見ていくのはどうだ?」
「見る!」
「はっはっは、イイ返事だ!やはりお前はそうでなければな!よし、朝日が出るまで稽古だ!」

上品なコートを無造作に脱ぎ捨てるオルシュファンはやっぱりオルシュファンで、そんな彼だから友と呼ばれることが、一緒にいることがこんなにも嬉しいのだろう。ぐるぐる巻きにされていた毛布だけは置いて、マフラーを靡かせ徒手で待ち受ける彼に向かい合う。まだ薄暗い中、じゃれあう犬のように雪原を転がり回って取っ組み合う姿は、確かに私たち以外の何者でもなかった。

じきに彼の背中越しに太陽が昇る。オルシュファンの髪を透かす朝日の輝きは、今までに見たどんな日の出よりも美しく見えた。