淡いの向こう

閉じていた目蓋に淡い碧を感じて、目を開ける。

夜闇によく映えるやさしい燐光に出迎えられてようやく緊張していた肩から力が少し抜けていった。それまで気にならなかった装備の重さに思わず溜め息が出そうになって、慌てて何でもない風を装う。

せめて部屋に戻るまでは公の友人らしく、しゃんとしていなければ。

エーテライト・プラザを見守るレスティールに笑顔で手を振れば、彼もまた朗らかな笑みを向けてくれて、上手くまとえた外套に内心安堵の息をつく。

常なら街の様子を見ながらぐるりと都市を一周歩くが、この数日間ほぼ休みなしに強敵と渡り合ってきた体に最早そんな体力は残されていない。今日は特別だ、と誰に言い訳するでもなく、ついさっき昇ってきたエーテライトに改めて手をかざして地脈に身を躍らせた。

遠くから陽気な歌声が聞こえて、一呼吸の後テレポの時はついつい閉じてしまう目を開けば、もうペンダント居住館の前に辿りついている。

初めてクリスタリウムを訪れた時、水晶公と一緒に街を巡ったことがあった。各所のエーテライトに交感をする最中、後に通い詰めることになるムジカ・ユニバーサリスと部屋を与えられるペンダント居住館との間の設置ポイントがやたらと近いことに疑問を持ったまま、終ぞその意図を直接教えてはもらえなかった。しかし、特に珍しくもない交感の様子を彼がじっと眺めていた理由と、あの頬の緩みの意味を今なら推し量ることが出来る。思い出に釣られて上がりそうになる口角を宥めつつ、肩にかけた荷物を背負い直した私は与えられた部屋への短い帰り路を歩き出した。

もう月が高くまで昇っていることもあって、エントランスを往来する人もおらず、ハンギ・ルアさんも店じまいをしてしまっているようだ。階上の部屋から幼子の泣き声も珍しく聞こえてこない、ひっそりとした静けさの幕が降りている。その幕の中にそうっと身を滑り込ませれば、真新しいロウソクの淡い火に顔を照らされた管理人さんが変わらずにそこにいた。

もう眠りに支配されつつある居住館に響く足音に気付いた彼のオリーブ色の瞳がこちらを捉え、やわらかい微笑みが浮かぶ。
「おかえりなさいませ……!」
「ただいま戻りました」

ここに来てからそんなに長い時間が経ったわけではなく、過ごした時間なら石の家の方が長くて思い出もたくさんある。勿論、良い思い出ばかりではないけれど、それにしてもどうしてだろう。いつだって、どんなに厳しい状況の中であっても彼の『おかえり』が聞けた時に緊張の糸が解けていく。

帰還を告げると、安心した様子だった管理人さんの瞳がロウソクの炎に揺れ、持っていたペンを机に置いてカウンターから出てきてしまった。縮まる距離に何故か呼吸が少し遅れて、自分でも驚く。
「……差し出がましいようですが、かなりお疲れのご様子……お夜食をお部屋までお持ちしましょうか?」

顔色を覗き込もうとやや屈んでくれた長身に合わせて、心配げな声音が追いかけてくる。余程ひどい顔をしていたのか。申し訳ない気持ちと一抹の雑念が胸を浸していく。
「あ、りがとうございます。でも、大丈夫です。食事は済ませてきましたから」
「……では、お部屋までお荷物をお持ちします。どうか、それくらいは……」
「ありがとうございます……でも、悪いので」

油断すれば舌を上滑っていきそうになる言葉をゆっくり丁寧に押し留めれば、彼の瞳にロウソクの明かりが揺らぐ。
「左様でございますか……大変失礼いたしました」
「いいえ、心配かけてごめんなさい」

部屋に戻ります、と一言断りを入れて重い足を目一杯の力で引きずって歩き出し、階段に足をかけたところで、こちらに来ていくらか呼ばれる機会が増えた自分の名前が耳ざわりの良い低音で紡がれる。ただ振り向けば良いものを、何故か一呼吸置いてから管理人さんを見ればカウンター越しにいつもの姿勢の彼が佇んでいた。
「無事にお帰りになったこと、大変嬉しく思っています……この甘やかな夜、どうかやさしい夢を。おやすみなさいませ」

大切なものを慈しむような人に安心を与える笑みと、彼が整えてくれるベッドシーツのようにやわらかくしなやかな仕草で彼は夜の挨拶を手渡してくれた。彼が何百、何千回と繰り返した言葉も今、ロウソクに照らされるこの時だけの特別なものに聞こえてしまう。

今、カウンターを踏み越えようとする言葉をなんとか押し留めることだけに集中して、しかし、その残滓をここに置いていこう。
「いつも、ありがとうございます。あなたも佳い夜を……おやすみなさい」

荷物を支えていない方の手を振って、ようやく彼に背を向ける。あたたかい視線に見守られて、私は階上の部屋を目指した。