噂の竜

ふらっと立ち寄った酒場で面白い噂を聞いた。

この森の奥には竜が棲んでいるらしい。

人と竜が長く争いを続けていたらしい昔話の時代――彼らにとってはついこの間のことらしいが――には住処も分かれて、交流と呼べるものは戦以外なかったらしいが、今時は人里の近くに竜がいること自体はそう珍しいことではない。ただ、その竜は常に住処にいるわけではなく、時々いずこからか帰ってきては翼を休め、またどこかへと飛び去っていく。同胞たちや土地を守り生きることが多い竜たちの中にあって、まるで旅人や冒険者のように振る舞う彼、もしくは彼女は少し毛色が違うように聞こえた。

おまけに、あまりにも動きが素早いせいで誰もその竜の姿をしっかり見たことはないと言う。ならば、と思った翌日、森の奥へ続く道を辿っていたのは冒険者の性だ。

深い緑の中をぐんぐん分け入っていく足取りは軽い。鱗や瞳の色はどんな色なのだろう、吐き出すのは炎か氷か、そして何よりこれまで得てきた旅の記憶をどんな声で謳うのだろう。

獣道を進めば、森の空気は澄んだものになっていく。時折、頭の上に木の実が落ちてくる以外は順調な道のりだ。手がかりなんてないまま、気の向くままに土を踏み締めて行く。
「おい」

唐突に真横の草むらから声がかけられて驚いている最中、襟首を引っ掴まれて体がつんのめる。何が起きたのか理解出来ず、咄嗟に腰に差した剣に手を伸ばすも軽く蹴飛ばされて柄にふれることすら許されなかった。
「そっちは崖だ、気を付けろ」

混乱の中、言われてやっと半足先の土がなくなっていることに気付く。パラパラと落ちていく砂利に視線が吸い込まれていく前に、掴まれたままだった首が後ろに引き戻されて思い切り尻餅をつかされた。
「ってぇ……あ、ありがとうございます。お陰で助かりました」

ぬっと顔に落ちてきた大きな影を見上げると、長い銀髪をざっくりと後ろで結わえた男が無言で手を差し伸べてくれていた。旅の途中の厚意には、たとえそれが見え透いた罠であったとしても、応える主義の自分はその手を迷いなく取って、体を引っ張り上げてもらう。荷物も装備も付けたままの人の体はそれなりに重いはずだが、男は特別力を入れている風もなく、涼しい顔をしていた。

それにしても、この男は一体何者だろう。かなり森の奥まで進んでいたはずだが、自分と同じ竜を探しに来たのだろうか。
「お前、土地の者じゃないな。ここらは戦の名残で崖だらけになってやがる。さっさと帰った方が身のためだぞ」
「あ、でも……ちょっと探しものがあって」

私の言葉に柳眉がひくりと持ち上がる。さっきの口振りから、男はここの土地勘がありそうだ。もしかしたら竜の手がかりを何か知っているかもしれない。
「探しもの?こんな何もない森で?」
「竜が棲んでるって噂を酒場で聞いたんです。あ、お兄さん、何か知りませんか?」

ふ、と視線を空に向けた男は思い出そうとしてくれているようにも、何かを迷っているようにも見える。
「……聞いたことないな」

たっぷり時間をかけて出てきた小さな舌打ちと溜め息混じりの回答は私の肩を落とすだけの力が十分にあった。本当に知らないのだろう、あからさまに不機嫌になってきた命の恩人にこれ以上迷惑を掛ける前に退散した方が良さそうだ。
「そうですか……まあ、もう少し探して、見つからなかったら諦めます」
「ああ、そうしろ。じゃあな」
「あっ、その、何かお礼を……!」
「早く人里に戻れ、それだけで良い」

さっさと振り向いて道なき道へ身を沈めていこうとする背中に追いすがるように言葉も手も伸ばすも、呆気なく落とされてしまう。この惑星ハイデリンにいろんな人がいるのは旅の間によくよく知っていた。あの男にとって望ましいことが関わらないことだというのなら、それを叶えるのが助けられた者の筋というものだろう。
「……本当にありがとうございました」

深く一礼を残して、私は足元に気を配りつつ更に森の奥へと続く道へ向き直った。もうあと少しだけ深く潜ってみて、手がかりが見つからなければ男に言った通り、縁がなかったと諦めよう。

それにしても、あの男は結局何者だったのだろう。私はこれでも戦場に身を置くこともある冒険者だ。余程の手練でもない限り、近付いてくる気配に気付かないなんてことは起こり得ない。もしかしたら、何処かの高名な武人なのかもしれない。
「……おい」
「はい?」

反対方向に去ったはずの男の声が随分と近くで聞こえた気がした。
「この森の竜は銀色の鱗を持つらしいぞ」
「えっ」

言葉を重ねようと振り返った瞬間、森の木々を、腹の底を震わせるような大きな音――いや、空をつんざくほどの咆哮が響き渡る。咄嗟に視線を空へ上げる。

そこには、陽の光を浴びて燦々と煌めく白銀の竜が翼を拡げていた。

誰に教えられずとも分かる。あの竜こそ、この森の主。旅に身を置く、渡りの竜そのものだ。

翼を一つ羽ばたかせる度に高く、高く昇っていく紅いエーテルの軌跡を私はただ目に焼き付けた。