両手いっぱいの愛を君に

エーテライトの淡い光が目に飛び込むと同時に、ひたり、と靴の先に水がふれた。

また水のないところに着地出来なかった、と浅い溜め息をつけば少し強めの、だが随分と印象の良くなった香りが鼻孔をくすぐっていく。そういえば、初めてアルフィノとユールモアを訪れた時、臭いから体中に香水を吹きかけろと言われたことがあった。

相棒の名前を出してやると慌ててシャワールームに引っ込んでいった少年の背中を思い出し笑いしつつ、上品に散らされた花弁を踏まないように注意して目当てのカウンターに向かう。

すると、道すがらのグランドデイム・パーラーからパッと華やぐ声が挙がった。
「あらあら、まあまあ! あなたじゃないの! こちらに来ていたのね」
「ご無沙汰しています、チャイ夫人。お元気そうで良かった」

最近はクリスタリウムまで来てもユールモアまで足を伸ばすことが少なかったから、彼女の顔を見るのも久々だったが、とこしえに咲く花のような笑顔でドゥリア・チャイ夫人はいつもの席に座っていた。私まで嬉しくなって駆け寄ればますます深くなる笑みが愛らしい。
「うふふ、旦那様も私も元気よ。アルフィノちゃんは元気にしているかしら?」
「ええ、毎日頑張り過ぎなくらいです」
「あらまぁ、あの子らしいわぁ」

軽く近況報告を交わしながら視線だけで彼女の愛する旦那様を探すが、珍しく近くにはいないようだった。
「あら、旦那様は大切な会議で今日一日中いないのよ。きっとあなたに会えたら喜んだでしょうに」
「そうですか……久し振りに会いたかったけど、お仕事なら仕方ないですね」

夫人の話を聞いて一つ得心がいった。

時間が空いたからこそ分かる、ユールモアを占める空気が変わっているのは、やはりチャイ氏やレンデンさんを始め率先して動き出した面々の努力の成果なのだ。

流れることを知らない川の淀みのようなかつての生ぬるさは最早微かに残すばかりとなり、滔々と新しい流れをそこかしこで感じた。停滞の象徴がやがてクリスタリウムと同じように、しかし彼ららしい在り方で駆け出す日も近いだろう。自分は何ら力にもなれていないのに、なんだか嬉しくなる。
「そうだわ! あなたに会えたらお願いしようと思っていたことがあるの。お時間があれば、頼まれてくれないかしら?」
「夫人のお願いなら何なりと! 街の外へのお使いですか?」
「そうねぇ、街の外には違いないわ」

そう言って、夫人は側に控えていたエルフの男性に一つ合図を寄越す。何も言葉はなかったというのにその人は素早く奥に引っ込んで、すぐに大きな荷物を車輪付きの荷台に載せて戻ってきた。
「これをアルフィノちゃんに届けてもらえないかしら?」

にこやかな言葉と凄まじい物量の乖離に、思わず夫人の笑顔と荷物との間を視線がうろうろしてしまった。『山のような』という言葉が形を持つとこうなるのだろう質量は、誰かさんの部屋に積まれた本や書類の山を片っ端から寄せ集めた時よりも多い。
「アルフィノちゃんもあなたも、旦那様と同じように忙しいでしょう? たまには息抜き出来るように、と思って用意していたの」

手を引かれるまま、荷台の近くに寄ってみるとよりその物の多さに圧倒される。荷物の大多数は食べ物のようだが、他にも洋服や絵の具なんかも混ざっているようだ。

それはそれは大層嬉しそうに荷台に積まれたものを一つずつ手に取って私に見せてくれる夫人の眼尻はやわらかく細められていて、ああ、この荷物はやさしい彼女から私の大切な友への気持ちの大きさなのだと理解することが出来た。

頭では分かっていたことが胸にストンと落ち着いたとも言える感覚は、どうしようもなく駆け出したくなるほどの衝動を私の内側に巻き起こしているが、そんなことはおくびにも出さず夫人の言葉に一つ一つ相槌を打ち続ける。
「こんなにたくさん……アルフィノ、絶対喜びます」
「そう? あなたがそう言ってくれるなら私も安心したわ。旦那様には多すぎやしないかって心配されてしまったのだけど……」
「大丈夫。夫人と旦那様の気持ちごと、責任を持ってお届けします」

彼女は真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる。なら、それに応える私も誠実に、いつもより素直な言葉を伝えよう。

少しだけ不安気だった夫人の頬から薄い影が消え、代わりにコルシア島のさざなみに照り返す光のような明るい笑顔が浮かぶ。やはり、この人には笑顔がよく似合う。
「もしまた絵を描いたら、その時は私たちにもアルフィノちゃんの作品を見せてちょうだいね」
「必ず伝えます。お届け物ならこのお使いのエキスパートにお任せあれ!」

とん、と拳で軽く胸を叩いて見せれば嬉しそうに声を立てて笑った夫人はそのまま私の手をやさしく握ってくれた。ふくふくのやわらかい手は私のゴツゴツとしたものとも、普段ふれてくれるあの人とも違って不思議な心地だ。
「ありがとう。食べ物もたくさんあるから、あなたもお仲間のみなさんも召し上がってね」
「嬉しい、ありがとうございます!」

すると、荷台を持ってきてくれた人が夫人にひそりと耳打ちをする。みるみる内に今日一番の笑顔を咲かせる様子に内緒話の内容を察して、自分まで口角がじわりと持ち上がってしまった。
「ごめんなさい、旦那様が呼んでいるから行って来るわね」
「じゃあ、私もアルフィノの所に戻ります。また来ますね」
「ええ、待っているわ。どうかあなたもアルフィノちゃんも元気で、たくさん冒険してらっしゃいな」
「はい。いってきます!」

夫人の優雅なお辞儀に倣うように、最後の最後に握らされた手紙ごと手を胸に添わせる皇都仕込みの仕草で応え、夫人の笑顔に背中を見送られた私は愛しの我が枝の名前と彼らの愛の言葉を唱える。
『ご機嫌ね、私の若木』
「そうかな、そうかも」
『いつもの静かな水面のあなたも素敵だけれど、春の陽射しより浮かれたあなたも良いものね』
「そう? 君に気に入ってもらえたなら嬉しいな。さて、お願いは聞き届けてもらえるのかな」
『勿論、いいのだわ! ふわふわ珍しいあなたに免じて、このたぁくさんの荷物はあなたの銀糸に届けてあげる』
「ありがとう、私のアンスリウム、我が唯一の枝」

何か代わりのお願いごとの一つでもあるかと覚悟していたが、ひらひらと私の周りを機嫌良く飛び回る赤い花弁は悪戯にツ、と鼻先をつついてから荷物と一緒になって一足先に夢の中へと飛び去っていく。

彼女の残光を追うようにエーテルの深く長い流れに身を躍らせるその一瞬前、振り返ればドゥリア・チャイ夫人が笑顔で手を振ってくれていて。すぐにでも旦那様の元へ行きたいだろうに、私は目頭が熱くなるのを感じながら今度は大きく手を振って第一世界の何処からも質量を消し去った。

「こんにちは、アルフィノはいる?」
「ああ! おかえりなさいでっす、お待ちしてました!」

セブンス・ヘブンの扉をくぐった時から何となく漏れ聞こえていた声は、石の家に入るとそれはそれは鮮明なものになった。具体的にはフェオが先に届けてくれていた荷物を前に目を潤ませたアルフィノの周りで、見慣れない品物の数々に興味津々な暁の構成員たちの考察大会が繰り広げられている。

出迎えてくれたタタルに事情は分かっている、とウインクをして迷わず人の渦の中に歩みを進めた。
「アルフィノ」
「あ、ああ……おかえり! 見てくれ、この贈り物の山! 君の妖精に話は聞いたよ」
「そうか、なら良かった」

まだ嬉し泣きしているアルフィノにずい、と握り締めてきた手紙を渡すと、これもまた嬉しそうにパッと表情が華やいだ。美人が笑うときれいで困る。すぐに封を開けて中を読み出そうとした若き賢人の後ろから頭にのしかかるようにして相棒が輪に入ってきた。
「誰からの手紙だ?」
「私が第一世界でお世話になった、ご夫人からだよ」
「ああ、罪喰いとやらの支配下にあったっていう街の……」

遂にアルフィノの頭に顎まで乗せてくつろぎ出したエスティニアンの横腹をつつく。私たちのそんなじゃれ合いも今のアルフィノにとっては微笑ましい以外の何でもないらしく、益々笑みを深くして頭上の人に応えてやっていた。
「で、ご夫人は何だって?」
「ああ、今から読んで……いや、やはり手紙は一人で夜にゆっくり読むよ。すまない……」

心底申し訳なさそうなアルフィノに気にするなと声をかけるよりも前に、エスティニアンの大きな手が整えられたアルフィノの銀糸をかき混ぜる。
「ふん、まあ手紙とは本来そういうものだろう。さて、そろそろ荷解きせんとタタルにどやされるぞ」
「そうだね。ふふ、二人も手伝ってくれるかな?」
「勿論、な? エスティニアン」
「異世界の食い物も気になることだしな。さっさと片付けちまおう」

先に荷台に向かって歩き出したエスティニアンを追いつつ、手紙をそっとポケットに仕舞い込んでいるアルフィノに並べば、はにかみを向けてくれる。
「あちらの気持ちを届けてくれて、ありがとう。本当に嬉しいよ」
「なら、よかった。あ、夫人から伝言。また絵を描いたら見せてね、だって」

はにかみは一転、驚きから更に嬉しそうな笑顔にころころと移っていく。彼の表情がこんなにも豊かに、自然に育まれていたことが嬉しいと思えるほど、アルフィノの隣りにいたのだとまたじわりと実感が広がっていく。今日という日は再確認出来たことが多くて、何でもない日なのに新鮮だ。
「勿論! その時はまたあちらに持っていってくれるかな?」
「ふふ、お使いのエキスパートにお任せあれ」

夫人に見せた時と同じ仕草をして見せれば、アルフィノも真似をしてトン、と自らの胸板を軽く叩く。それが無性に面白くて、にやつきながら未知の世界からの贈り物に大盛り上がりの輪の中へと二人で進み行った。