君の声で起こして
無音の暗闇の中を走る夢を見る。
足音も息遣いも鼓動の音さえも聞こえないそこにはロウソクの明かりほどの光源すらないのに、自分の姿だけがくっきりと見えた。幾ばくか走ればすぐに目覚めることを知っている私はただ無心で手足を振り動かして、何処に進んでいるとも知れない中を駆け抜ける。
そんな夢を何度も見るようになったのは一体いつからか、もう覚えていない。起きた時に休んだ気がしないことだけが難点だが、特に実害がないから誰に話したこともなかった。
ただ走るだけの疲れる夢。
今夜は暗闇の色が一層濃いような、どこか赤みを帯びているような気がした。しかし、それで何が変わるでもなく、私はいつも通り目的地すらない中を駆け出した。
踏み出した足が地面についた瞬間。まるで私だけを照らすような月影を抱く岩壁に囲まれた戦場にいた。
ざわりと首の後ろが痺れる。ああ、総毛立ったのは空間の変化のせいだけではない。
親しみすぎた殺気。
振り向きざまに得物を抜いて、まさに頭上へ降ろされようとしている刃を受け止める。圧倒的な強者のにおいが金色の雨と一緒に落ちてきて、このひとときの間に私の額から首を濡らしていった。
いつも隣りに在る死の香りが強く、むせ返りそうになる。
気を抜けば終わる。私を飲み込まんと美しい影から放たれる緊張感が辺り一面を炎で包み、肌を焼く。じりじりと押され始めた具足が一面の花畑を踏み、月影は目を焼くほどの真っ赤な夕焼けに逆巻いていた。
夢から醒めなければ。
しかし何かを語ることも強すぎる力を押し返すことも叶わず、ただ薄い唇が開かれる様を見詰めることしか出来ない。幾度も私を奮い立たせ、絶望させた言葉を形作る──『友よ』と。
「おい! 起きろ!」
「っあ……!」
重なる声に驚いて飛び起きると、そこは月夜のラールガーズリーチでも、夕焼けの空中庭園でもない。野営のために張ったテントの中だった。
勢いづいて起こしてしまっていた背中を丸めて額に手をやると、じっとりと汗ばんでいて気持ち悪い。顔を洗いたいが、でも今は体を動かす気にもなれなくて。やがて、恐るおそる背中にふれる感覚がして、ようやく指の隙間からその人を垣間見ることが出来た。
「大丈夫か? すげー魘されてた」
「……うん、もう大丈夫」
異様な質感を持つ夢の中で聞こえたどの声とも違う気遣わしげな声音がよく耳に馴染み、激しく波打っていた鼓動と呼吸が徐々に落ち着いていく。しっかり湿っているだろう背中をさすってくれる手がこんなにも有り難いだなんて。
「ごめん、起こしてしまった……」
「いいや、いいんだ。もうじき起きる時間だったし……何処行くんだ?」
「川で顔を洗ってくる。グ・ラハはもう一度寝直していて」
「……はあ、あんたって人は……オレも行く」
片手で私の背を撫で続けながら、もう一方で暗い中からかんたんに二人分の手拭いを探り出しているグ・ラハは妙に手慣れているような感じがした。私が動き出すのを待って一緒に立ち上がってくれた彼に伴われて、二人は薄明かりの中、水音を目指して歩き出す。
まだ夜の気配を色濃く残す時間だからだろう、生き物、草木、精霊に至るまでまだ微睡みの中にいるように静かだ。
「……なあ、聞いてもいいか?」
「答えるかは分からないけれど、いいよ」
「あんたって友達いるのか?」
唐突、且つ失礼な質問に思わず吹き出してしまう。そこでようやく言葉を間違えたことに気付いたグ・ラハが慌て出して面白い顔になっていた。
「ち、違うんだ! その、魘されてる時に『友よ』って言ってたから……」
「大丈夫、分かっているよ。でも、そっか……」
悪夢を見ることなんて今までほとんどなかったから、声が漏れてしまっていただなんて恥ずかしい限りだ。それも、よりによって『友よ』だなんて。
川まではまだもう少し歩く。長話にしないためには丁度いいくらいの時間になるだろう。
「……さっきさ」
「うん」
「今までで一番手酷く負けた時の夢を見たんだ」
それが何故『友よ』に繋がるのか、考えながら話の続きを待つグ・ラハの方は見ず、朧げになりつつある月明かりと夕焼けを手繰る。
「そいつ……その時の相手は私を『唯一の友』だと呼んだ」
だから、あの瞬間に聞こえた声は一人分のものではなかった。それは夕焼けが呼び水になったのか、それともあの人の快活な呼びかけが何より好きだったからなのか。
「……怖かったのかもしれないな。何もかも塗り潰されそうに感じて」
顔にぶつかりそうな葉を手で避ける。
「怖がってもいいんじゃねーの」
ようやくついた川辺にしゃがみこむグ・ラハがぽつりと零す。砂利を踏んで進み、同じように隣りに座ると彼は真っ直ぐにこちらを見据えてくる。ようやく起き出した太陽を受けてやわらかく光る紅い目が美しいと感じた。
「あんたがどんなに強くて、英雄だって呼ばれてもただのヒトなんだから」
「……君がそれを言う?」
「オレだからだよ。物語の英雄みたいなあんたも、怖い夢にびびるあんたも、オレは知りたい」
一度言葉を切り川に手を突っ込んだ彼は顔を豪快に洗って、一つ大きく息をつく。
「またそいつの夢を見たらオレが起こして、川まで連れてきてやるよ!」
びしょ濡れの顔をそのままにしてニッと笑ってみせたグ・ラハは、彼ならもしかして本当に、と思わせてくれる。彼の肩にかけられたままの手拭いを抜き去って、ぼたぼた水滴を落としている彼の顔を拭ってやる。痛い、だなんて抗議の声が聞こえるけれど今の私の顔を見せるわけにはいかなくて、聞いてあげられない。
「さっきの質問だけど」
「ん?」
「みんなも、何より君がいる。だから、もう大丈夫」
表情こそ手ぬぐいに隠れていて見えないけれど、ぼわりと膨らんだ尻尾が雄弁に気持ちを教えてくれる。声を上げて笑えば拗ねたように水をかけられてしまったが、手拭いを顔から離して肩にかけ直してあげたら彼は満更でもない表情でいた。
そして、グ・ラハがやっていたように自分も手で水を掬い上げて、勢いよく顔を濡らす。まだ熱を残していた頬にひんやりとした朝の空気に冷やされた水はとても心地良い。
顔を拭って目蓋を上げると、彼の背後から朝日が射し込んでくるところだった。
「そうだ、言い忘れていた。おはよ、グ・ラハ」
「ああ、おはよう!」