花は風に揺れて
「では、この手筈で。何か問題があればすぐに相談を」
水音を背景にやわらかいロウソクの火を囲んでいた面々が一様に頷く。
自由弁論館での定例会議は今日もつつがなく、とは言えないが想定外に大きな問題が出ることなく終えることが出来た。役割を背負った大きさの異なるいくつかの背中が足早に、しかし確かな志を隣人に従えて視界から出ていってしまうまで私は会議の定位置から見送る。
誰も近くにいないから、と一度だけ深呼吸をするとごちゃつき始めていた思考が少しだけ整頓されたような気がした。罪喰い対策、住居の拡張、資材や食料不足問題、環境エーテルの偏りによる未知の病、交易。やることは山積みだが疲れは感じていない。
今日のところはやっと完成が見え始めた召喚術式にかかろう、と塔への道を行こうとしたところで、ツイとローブを引かれて視線を落とす。そこにはいつの間にいたのか、ヒュム族の小さなお嬢さんがローブの端を握ってこちらをじいっと見上げていた。
「こんにちは。この爺に何かご用事かな?」
「公、これあげる」
杖を側に置いてしゃがんだところでお嬢さんの小さな手が差し出される。その手にはレイクランド全域、勿論クリスタリウムのそこかしこにも自生している紫色の花が握られていた。その子は恥ずかしそうに頬を染めてそっぽを向いてしまっていたが、きっと丁寧に土を払って綺麗にしてきてくれたのだろう。花と彼女のサンダルが少しだけ濡れているようで、その気持ちがどうしようもなく嬉しい。
「綺麗な花だ。ありがとう、大切に飾らせてもらうよ」
「うん……」
折角の贈り物を潰してしまわないように左手でそうっと受け取ると、やっとお嬢さんは安心したように視線を合わせて微笑んでくれた。少しだけ背伸びをした心がいじらしい。
「あのね、お父さんと毎日お水あげてたお花なの」
「毎日? そんな大切な花を私がもらってもいいのか?」
「うん、公がいいの」
お嬢さんは言っちゃった、と小さな両手で頬を包んでひゃあひゃあと恥ずかしがっている。気持ちが溢れたのは彼女ばかりではなかった。椀のようにした右手に花を置いてから、愛しい我が民の丸い耳ごと形の良い頭を左手でやわらかく撫でる。サラサラとした子ども特有の細い髪が指の合間を滑る度に心地良く、細められる瞳に胸がいっぱいになった。
「……ありがとう、本当に嬉しいよ」
きっと何日も前からずっとこの日を楽しみに、そして緊張して待っていたのだろう。すっかり表情がやわらかくなったお嬢さんは名残惜しそうにしながらも父の待つ家へと駆け戻っていった。小さな影と足音が水路のせせらぎの向こうにかき消されてから、私もまた塔への道に就く。嬉しいことがあれば擦れ違う人々の表情も心なしか明るく朗らかなものに見えてしまって仕方がない。
かくして、彼女の花は空気も、ともすれば時間も止まったままの深慮の間にレイクランドの風を連れてきてくれた。丁寧に手入れをされて咲いた花だったから随分と長く綺麗な姿を保っていたが、やがて水を換えても元気を取り戻せなくなってきてしまった。
限りあるものと理解していても、少しでも長く手元に置いておきたいと我ながら必死になっていたのだろう。それなりに長くなってきた人生で得た知識を総動員してやっと、昔、原初世界で姉妹たちがしていた押し花遊びを思い出した。自分はやったことがなかったが彼女たちが楽しげにしていた記憶を掘り起こして、早速、彼女の花が萎れきってしまう前に当時つけていた日誌に挟んむ。
そうして、レイクランドの風は栞に形を変えたのだ。まるであの子の気持ちがずっと寄り添ってくれているかのように、特別な術をかけずとも綺麗なままでいてくれた花の姿は宿願の時に向けて歩き続ける私の背中を押し続けてくれている。
それは私が一つの役目を終え、新たな冒険の旅に漕ぎ出した今も変わらない。
「グ・ラハ。本の整頓、終わりそう?」
「……た、多分」
ひょこり、と戸口から顔を出したあの人が軽い口調を投げかけてくれるが、朝から変わらずたくさんの本や紙に囲まれたままのオレは曖昧に笑って誤魔化すしか出来ない。
この人とその美しい枝の力を借りて第一世界から石の家に運び込まれた資料や史料の整頓、それがオレの目下の課題だった。ただ、懐かしい本を前にすれば開きたくなるのが人の心というもので。例に漏れずオレは日誌を開いてしまい、彼女の花を見つけてあの日の風を思い出していたのだ。
「あっ! 君、まーた本読んでただろう? 何読んでたの、歴史書?」
「いいや、オレがつけてた個人的な日誌。あっこれは駄目だぞ!」
深慮の間に近い様相になっている部屋の床を器用に跳ねてオレに近付いてきた英雄はそのまま開いたままにしていた本に手を伸ばしてくる。だが、こればっかりは流石に読ませるわけにはいかず、慌てて表紙を閉じて背中に隠した。残念そうな顔を見せても駄目だ。
「ちぇっ……ん? それ、押し花? レイクランドの花かな」
本を閉じた拍子に抜け出たのだろう、オレの膝の上に例の押し花が残ってしまっていた。流石に手を伸ばさずにじっと眺める瞳が好奇心でキラキラと輝いていて、なんだかオレまでドキドキしてきてしまう。
「ああ、昔クリスタリウムの子どもが水晶公にってくれた花なんだ。綺麗だろ?」
「うん、すごく綺麗だ。君は物持ちがいいな」
「へへ、あの子が大切に育ててくれた花だからだな」
一緒に歩いてくれた民たちが誇らしくて自然と頬が緩む。彼方で受けた想いを感じる瞬間、この人が側にいてくれることが何よりも嬉しくて、顔を見合わせてはまた笑みが深くなった。
「ねえ、片付け手伝うからその子の話聞かせてよ」
「勿論!」
きっと二人でやっても片付けは遅々として進まないだろうし、揃ってタタルに叱られてしまうのだろうとは本の虫でもある英雄も重々承知の上だ。だけれども、この人が知りたいと望むのなら共に記憶の海に漕ぎ出そう。帆を押す風は湖を抱く彼方から今も吹いているのだから。