しとど、雨を連れて

※冒険者はアウラ・ゼラの男性です。

無意識だったのだろう。

袖を引かれて振り向けば少女が俺のコートの背を掴む手を信じられないものを見るように凝視していた。幸いアルフィノより後ろを歩いていたから、彼女の行動は俺以外の誰にも見られてはいないようだ。
「アリゼー?」

固まったまま動かない彼女の名を呼ぶ。しかし、彼女は自らの手を見つめたまま言葉を失くしてしまっていた。衝動的な行動が彼女に与えた衝撃がそこまで大きかったということだろうか。
「どうしたんだい?」
「ごめん、先に行っていてくれ。忘れ物したからアリゼーと取りに行ってくる」
「そうだったのか。じゃあ、先に星見の間に行っているよ」

二人揃って歩みが遅れたことに気付いたアルフィノがすぐにかけてくれた声には俺だけで返事をしておく。大きな体がアリゼーを隠す壁になってくれたお陰で、丁度朝日の逆光も相まって振り向いたアルフィノにも妹君の姿は見えていなかったはずだ。きっと今のアリゼーは兄にも見られたくないだろうから。

アルフィノの背中を見送る間もアリゼーはまるで石化の呪いでも受けたかのように固まったまま動かなかった。しかし、力みすぎて白くなっている指先にふれると、やっと小さな身動ぎで反応がある。さて、これからどうするべきか。
「……落ち着けるところに行こうか」

こくり、と首肯してくれたことを見て、ふれたままだった指先を掬い取って一緒にゆっくりと歩みを再開した。

街の象徴、そして本来の目的地だったクリスタルタワー──シルクスの塔に見下ろされるエクセドラ大広場は、街の各施設へ通じている中継地のような場所だ。水晶公曰く、増築を重ねた結果複雑な構造になっているクリスタリウムの街で迷子になった時はここに戻ってくれば、ひとまず落ち着いて再出発が出来るらしい。

そんな街の中心と言える広場、更に言えば夜の帰還から数日、未だ冷めない興奮が街のそこかしこに燻っているクリスタリウムの何処に落ち着ける場所があるのか。俺は水晶公からこっそり教わっていた穴場、丁度スパジャイリクス医療館の横にある上層へ通じる階段の裏へ俺たちは滑り込んだ。

つむじしか見えないままでは不自由だ、と彼女の手を取ったまま真正面にしゃがみこんでみる。流石、水晶公お墨付きの穴場だけあって静かで人の気配もなく、おまけに奥まっていて光の差し込みにくいために昼間だというのに目の前にいる少女の表情すら見えないほど薄暗い。
「アリゼー」

普段口では勝てないと思うほど弾丸の如く繰り出される言葉は鳴りを潜め、ふっつりとした静寂ばかりが在る。

きっと今、俺たちの間に言葉は要らないのだろう。そもそも彼女が抱えると決めたことにとやかく口出しをするつもりはない。だが、否、だからこそ大切だと想う人の側で在りたいと思うくらいは許されたい。

怒られたならそれまで、と彼女の手を引いて防具のついていない右肩に小さな頭を引き寄せ、汚してしまわないようにコートの裾の上に座らせる。
「少し、ここで休んでいこうか。俺も疲れちゃった」

やや間があって微かな振動が肩に伝わってくる。どうやら雷を落とされることはなさそうだ。

ああ、だが雨は降ってきてしまったようだ。ぽつぽつ、額に当たって気付くほどの雨足は、ざあざあと酷い本降りになる。何もかもを洗い流してしまうほどの勢いで。

この雨は何度だって彼女だけに降ってくる。俺の頬を打つ雪風のように、ふとした折に降り出してくるのだ。

アリゼーも気付けるだろうか。雨で煙る向こう側には心配そうに、だが笑顔を向けてくれている人がいることを。

賢いアリゼーなら、きっと傘のさし方を知ればすぐに気付くはずだろう。最初は肩を濡らしても靴を浸水させても良い。まず、彼女が傘を手に取るまで、もうしばらくはシルクスの塔から降りてくる碧い光を眺めていよう。