やわらかいところ

薄暗い廊下を裸足で歩く。

足裏からひんやりとした冷気が伝わってきて風呂でゆっくりあたたまった体には丁度良く感じられるから、少し行儀は悪いけれど一人で家にいる時は靴を脱いでしまうことが多い。本来の私なら。

大判のタオルで髪を拭きながらリビングの扉を開くと、エスティニアンがラグに座って背中はカウチに預け、ゆったりとした姿勢で愛槍の手入れをしている背中が見えた。彼の手が動く度、穂先がゆらゆらと揺れる。近付くほどに親しんだ手入れ用オイルの匂いが強く香って、不思議と気持ちが落ち着いていった。たとえ戦場から遠く離れているとしても、私が、いや、私たちが居るべき場所が何処なのかを教えてくれるように。
「お先、お風呂空いたよ」
「おう」

二人で座ってもまだ寛げる広々としたザナラーン様式のカウチだというのに、彼と同じようにすぐ隣りのラグの上に腰を下ろしても彼は何も言わない。それどころかローテーブルに置かれたクロスを取ってほしいと目で訴える姿、彼のそんな仕草一つ。渡したクロス越しに指先がふれても今更表立って何も示したりしない私たちの距離感を示していた。

くたびれたクロスで愛槍を一通り磨いてからやっと雪のような淡い色の視線をこちらに寄越すなり、彼は呆れの色を帯びた溜め息をつく。
「お前、また裸足なりで……冷えるから辞めろと言っているだろう」
「だって暑かったから」
「ほう、余程風邪を引いて明日の朝市に行きたくないらしいな」
「く、靴履く……!」

分かれば良い、とタオル越しに頭を撫でる手つきにはやさしさが滲んでいた。しかし、まだ少し湿り気が残る私の髪を梳いて、長い銀糸の向こうで満足げに細められる瞳がどこか遠くを見通しているようで、喉の奥が引きつる。
「ねえ」
「ん?」

絞り出した声はいつも通りを取り繕えていただろうか。絡んだ視線で手繰り寄せたエスティニアンの呼吸が次の言葉を待ってくれている。何も考えていなかった私は内心焦って、次の言葉を探してまだ頭の上に乗せられたままだった大きな手にふれた。
「髪、洗ってあげる」
「……はぁ?」

どこから出てきたのか分からない提案はやはり彼の柳眉を歪ませた。しかし、咄嗟の言葉は我ながらひどく魅力的だ。後戻り出来ない状況に背中を押されて、勢いのまま出処の分からない言葉を継いでいく。
「折角長いんだから、ちゃんと手入れした方が良いでしょ。槍と一緒だよ」
「一緒ではないだろう……」
「ね? 良いでしょう?」

少しわざとらし過ぎただろうか、二人の間に言葉が落ちる。ややあって彼は大きく深く溜め息をつきながら、また大きな手で頭を掻き回した。
「……今日だけだぞ」
「うん!」

自室で寝間着の代わりに濡れても問題がない服に着替えるついでに、棚の奥から小瓶を二本探り当てる。普段使いにするには少しだけ上等な薬草を使った、特別な時のための手製シャンプーとトリートメントだ。甘さの薄いさわやかな香りならきっと嫌がることはないだろうけれど、エスティニアンはどんな反応をするのか。新しい一面を知れることが楽しみで彼が待つ浴室へ向かう足取りも軽くなる。

浴室の扉の前に行くと、中からは水音が響いてきていた。
「準備出来たよ。入ってもいい?」
「いいぞ」
「はーい」

念の為、ノックをして声をかけるとすぐに了承の声と湯船のお湯が揺れる音がした。小瓶を抱えたまま扉を開くと、ぼわりと湯気が立ち昇って頬を撫でていく。中に入ると、エスティニアンは湯船に浸かり、縁に背中を預け腕をかけて肩から上を湯船の外に乗り出させていた。大小いくつもの傷や引き攣りが残る背中はいつ見ても広く、泣きそうになるほど羨ましい。それにしても、さっきは仕方ないという風だったのにちゃんと洗いやすい体勢で待っていてくれるだなんて、本当に不器用な人だ。

膝をついた側に小瓶を置いて、いつもより近くなった耳にふれると彼はくすぐったそうに鼻を鳴らす。まるでフェンリルパップみたいだ。
「じゃあ、まず濡らすね。目、閉じていて」
「ああ」

素直に目蓋を閉じたことを確認して、私は髪に指を通す。湯気で少し湿っていてもなお、なめらかで指通りの良い髪は普段ぞんざいに扱われているとは思えない。もしかして私が知らないだけで、彼は意外とちゃんと髪を手入れをしていたのだろうか。
「すっごくサラサラだね。普段、どんなシャンプーを使っているの?」
「お前も使っているだろう?」

指差された先には確かに普段、私たちが共用している石けんが置かれていた。ただ、あれは体を洗うために用意したのもので、髪を洗うとゴワゴワになってしまう。
「……まさか、全身同じ石けん……?」
「ああ。おい、何だその顔は」
「別に? ねえ、今日はこれ使ってもいい? 私の手作り」
「好きにしろ」
「分かった」

小瓶を揺らして見せてもろくに見もせず、エスティニアンは気怠げに手作りシャンプーを使うことを許してくれた。早速、小瓶からとろみのあるシャンプーとお湯をそれぞれ手に取って泡立てる。するとすぐに薬草の香りが広くない浴室をふわりと満たした。
「香りは大丈夫?」
「悪くないな。こういうものは匂いも考えて作るのか?」
「そうだね。気持ちがほぐれる効果がある薬草やハーブを使っているんだ」
「そうか。しかし、あちこち飛び回っているくせに、まめな奴だな」
「それ、褒め言葉だよね?」
「さあな」

機嫌良さそうなエスティニアンはくっく、と喉奥で笑っている。やや腑に落ちないところはあるが、ひとまずは今夜の大仕事に取りかかることにしよう。

シャンプーで泡だらけになった両手で彼の耳横から髪に手を差し込んだ。泡を髪全体に拡げていきながら絡まった毛先を梳かしていけば、彼の呼吸が徐々に深くなっていくのを感じた。ならば、と頭頂部から首までを指先で滑らせ、ゆっくりとほぐしていく。
「痒いところはないですかー?」
「ああ。もう少し強く押しても大丈夫だぞ」
「はーい」

希望通りに力を込めると、ひどく凝り固まっていて指先はなかなか思うように沈んでいかない。そこにも本人すら自覚していない積み重なった負荷を感じて、遣る瀬ない想いが指先に宿っていった。せめてこの家にいる間くらいは少しでもくつろいでほしくて、丹念にゆっくりと時間をかけてマッサージを施していく。

シャンプーの泡立ちが悪くなったら一度濯いで、もう一度新しいシャンプーを手に取る。二回目は軽く全体をマッサージしてさっと流してから、今度はトリートメントだ。

石けんでも綺麗な髪だからもしかしたら要らないかもしれないけれど、出来ればこの時間を終わらせたくなくて、シャンプーの時より輪をかけて丁寧に塗り込めていく。シャンプーよりとろみのある半透明の液体で髪の一本一本労る作業は、まるで裁縫用の糸を紡ぐ工程に似ていて、元来の職人気質も相まって存外気分が上がってくるものだった。
「……楽しそうだな」
「うん!」

指先から伝わっていたのか、それともいつの間に盗み見たのか、少し眠気を含んだ低い声が浴室に反響する。もし寝てしまっても最悪寝室まで運ぶことくらいは恐らく出来るし、私にとって丁度良い大きさの湯船では彼の長身は溺れることもないのに、妙なところで律儀だ。そんな一面を見せてもらえることが今更嬉しくて、だらしなくゆるみそうになる口角をなだめる。いよいよ最後の仕上げに移ることにしよう。

トリートメントのぬめりがなくなるまでしっかり濯げば、大判のタオルで水分を吸い取っていく。時間はかかるけれど、折角丁寧に手入れをしているのだから最後までこだわり抜きたいと思うのは、きっと我侭ではないだろう。
「はい、じゃあ後はお風呂上がりに乾かして終わりね」
「分かった」

私がさっさと浴室から出ないとエスティニアンが湯船から上がれないから、持ち込んだ小瓶とタオルを手早くまとめていると、湯船の中で体の向きを変えた彼がじっとこちらを見つめていた。
「何? マッサージが足りなかった?」
「……お前は入っていかんのか?」
「もう、馬鹿」

ペチ、と額を叩いてやれば、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべる彼を浴室に残して扉を閉めた。湯気でほてる頬を片手で扇ぎながら、ひとまず私は小瓶を片付けに自室へ向かって裸足の足音を鳴らした。

さっきより涼しく感じる自室の棚に小瓶を戻して、心なしか軽い足取りでリビングに戻ると、すでにエスティニアンはさっきまで槍の手入れをしていた場所に座り、物珍しげに自分の髪をいじったり匂いを嗅いだりしていた。

ウィンドシャードとファイアシャードを活用しているらしい送風機を手に背後から近付くと、彼は神妙な顔つきで毛先を摘んだままカウチの背もたれに腕をかけて私を見上げてくる。
「どう?」
「お前の髪みたいになった」
「それは良かった。さあ、早く乾かしちゃおう」

銀糸の束を手に取り、機械のスイッチを入れるとあたたかい風が巻き起こった。どういった仕組みで動いているのかは皆目検討つかないが、自力で扇いだり魔法を使わなくても風が起きるなんて便利なものだ。

手ぐしで髪をほぐしながら風に当てていると、薬草のさわやかな香りが風に混じって部屋に広がっていく。今夜はエスティニアンも私も、寝る直前までこの香りに包まれてよく眠れることだろう。

不意にエスティニアンの頭がゆるゆると舟を漕ぎ出した。浴室でもかなり丁寧に時間をかけて手入れをして、今もゆっくり風を当てていることに加えて、気持ちを落ち着かせる効果がある薬草の香り。くつろぐために誂えたかのような空間が仕上がっているのだから、もしかしたらと予想はしていたが、まさか本当にうたた寝しだすなんて。きっとアルフィノやグ・ラハが今の彼を見れば「新しい一面だ!」と興奮気味に観察するだろう。
「お疲れ様。終わりましたよ、お客様」

機械を止め、彼の厚い肩に手を置いてやっとエスティニアンはもう重くて仕方ないという風だった頭を起こしてこちらを振り向いた。眠そうな瞳が瞬かれる。
「……ん、手間をかけたな」
「いいんだ。私が言い出したことだし、何より楽しかったしね」

いつも以上にサラサラで艷やかに仕上がった銀髪を見て、これ以上ないくらいの達成感が胸を満たしていく。きっとこれは手に取れる幸せだ。
「もう今日は寝よう。君も眠そうだし、私もなんだかこの気持ちのまま寝ちゃいたいや」
「そうだな……」

ふ、と後頭部に長い腕が回されて彼の長い睫毛が近付く。やさしい引力に従うように反射的に目を閉じれば、軽い音が頬に落とされた。
「おやすみ、相棒」

「では、お二人共。お気を付けていってらっしゃいでっす」
「ああ! 土産も期待しててくれ!」
「いってらっしゃい、グ・ラハ、エスティニアン」

今朝の石の家は少しばかり忙しなかった。

急な調査依頼が数件転がり込んで、班分けで揉めに揉めて──とは言っても、私が複数回ると言ったら怒られたというだけだけれど──、やっと決まった振り分けごとに続々と出発していく面々を見送っていた。

今は、珍しくエスティニアンと二人になったグ・ラハが嬉しそうにぶんぶん、と手と尻尾を振って出ていったところで、残すは私とヤ・シュトラ組が出発するだけ。優雅にお茶を飲んでいたヤ・シュトラに寄って行くと、彼女は愛用の杖を手に椅子から立ち上がりながら綺麗でいて、何やら意味深な笑みを見せた。
「ねえ、今日の彼は一段と男前じゃない。お気に入りを出すなんて、あなたも本命には随分いじらしいのね」

一瞬何のことか理解出来ずに思考も動きも固まるが、彼女の言葉を飲み込んでいくと同時に、まるで火の側に置かれた氷が溶け出すようにじわじわと嫌な汗が背中を伝っていく。隠しているわけではないけれど、それでもまさかそんなにあからさまだったなんて。
「安心なさいな、アルフィノ様以外はみんな気付いていよ」
「ぜ、全然安心出来ない……」

どうか、どうか私の学士様はそのままでいて、と願いを込めて崩れ落ちた私は石畳に膝を強かに打ちつけたのだった。