市井の人々

人というものは欲が深い。

百年以上も夜を知らずに生きてこれたというのに、その静かな暗闇と星々の輝きを知ってしまった今は空を見上げてはその帰還の時を待ち焦がれ続けている。くるくると表情を変える気候や時間によって移り変わる色彩、それぞれに物語を持つ天体も。今は厚い光の幕の向こうに在る愛しいものたちは、きっと彼らと共に帰還するだろう。だから私は、否、私たちは気がつけば空を見上げるのだ。少しの変化も見逃さないように、いつでも私たちの英雄を迎えられるように。
「店長さん。頼まれていたもの、仕入れて来たよ」

早朝、開店前の時間にカウンターで帳簿を書きつけていると上から影と言葉が落ちてくる。顔を上げると、馴染みの旅商が木箱を抱えて店先に立っていた。光を直接浴びないように作られたゆったりとした服装と全身に砂をつけているところを見るに、どうやらアム・アレーンを経由して来てくれたらしい。前回に顔を見せてくれた時から変わりない様子に毎度のことながら安堵の息をつく。
「いつもありがとう。丁度良かった。試作品が出来たから食べていって」
「お、じゃあ遠慮なく」

すっかり店に馴染んだベンチに男がどっかり座ったのを見てから、私は自分用として店に置いてあるコーヒーと試作のクッキーを取り出した。コーヒーを入れている間に摘んでもらおうと先にクッキーを手渡すと、さっそく一つ口の中に放り込んだ彼の顔が綻ぶ。本人は強面に似合わないからと隠しているらしいが、実は結構な甘党なことを長い付き合いの中で私はひっそりと気付いていた。
「あんたの作るもん、なんだか御袋の味に似てるんだよなぁ……」
「お母様は何処の出身?」
「コルシア島の漁村。もう今はなくなったんだけどさ」
「そうか……私も出身はコルシアだから、味付けが似てるのかもしれない」
「……なんか、あんたから自分のこと話してくれるのって珍しいな」
「そうかな?」

旅商の男はうんうん、と大きく頷きながら次々とクッキーを口の中に放り込み続けていた。余程家族の味が懐かしかったのか、気に入ってくれたなら嬉しいことだ。クリスタリウムにはノルヴラント各地から人が寄り集まって生活をしている。このクッキーが店頭に並ぶ日が来れば、彼のように故郷の味を思い出して懐かしんでくれる人が他にもいるかもしれない。それは誰かにとっては痛みかもしれないけれど、誰かにとっては心が安らぐひとときになるだろう。

沸かしたお湯を挽いたコーヒー豆に注ぐと、ふわりと芳ばしい香りが立ち上った。だが、ゆっくりとした時間が過ぎていくことに心の何処かで居心地の悪さを感じている。焦燥感は最奥に押し込めて、努めて平静を保つ。それが私の役目だと信じているから。
「……なあ」

コーヒーを淹れている私に目を向けていた彼がふと口火を切る。その声音に常の豪快さは感じられない。
「はい」
「俺たち、いつも通りにしていてもいいのかな」

ケトルを置いて彼を見遣れば視線が交わる。いつの間に脱いでいた砂まみれのターバンの布を膝の上で弄っている彼の手元がその胸中を全て物語っているような気がした。
「他にもやるべきことがあるんじゃないかって……不安になっちまう」

彼の胸中に渦巻くものの欠片が言葉となってこぼれ落ちている。湯気の立つコーヒーが入ったマグカップを彼に手渡すと、弱々しい笑みを向けてくれた。一口だけ飲み込んだ喉元がこくりと上下に動く。

先日お客様が旅立たれてから、否、公がお戻りにならなかったあの日からクリスタリウムの底に流れる不安の流れがここにも支流を伸ばしている。旅先での体験や未知の商材との出会いを期待して光っていた瞳は不安の雲で陰ってしまっていた。彼だって本当は答えを持っている。それでも押し潰されそうなほどの不安がいつだって隣りにいて、今は郷愁と一緒になってやってきたそれが親しげに彼の肩に腕を回しているのだ。
「いつも通りを提供し続けることは、私たちの大事な役割だよ。それが回り回って剣を持つ人たちの助けになる」

マグカップを片手に、ベンチに座っている彼の隣りに腰を下ろす。一口飲んだあたたかいコーヒーは程よい濃さで、まだ薄く残っていた眠気を何処かに追いやってくれた。入れ替わりにやってきたのは、お客様がご友人に向けていらっしゃったあの眼差しだ。
「……危険だと分かっていても街を出て、行く先々でお商売をして。そして、またこの街に物資や新しい土産話を運んでくれる。それは剣のない最前線で戦う旅商のやるべきこと」

指先でマグカップの縁を撫でる。いつだって抱えている、旅商の彼や他のみんなへの想いが立ち上る湯気のように、自然とやわらかい言葉となって湧いてきた。
「私はあなたが運んだ物資や時には土産話を街の方々に提供し、経済を回す。これは私のやるべきこと」

見えない隣人の手を払うように彼の肩に手を置いて、今度は彼の目を見て言葉を紡ぐ。まるで迷子の子どものように揺れる瞳が空から注ぐ光を受けて、虹彩の色を鮮やかに魅せていた。
「大丈夫。だって、公のお客様は必ずこの街に帰ってきてくださっていたんだ。だから、大丈夫」

もう一口コーヒーに口をつけた彼は大きく息をついて、強く頷いた。
「……ありがとな、気持ちが軽くなった」
「不安なのはよく分かる。でも、信じているんだ。もうじき公とお客様が鉄橋を越えて戻って来られるって」
「なら、帰還祝いのためにも良いもん仕入れて来なきゃな!」
「そうだね。私も、もっと頑張らなきゃ」

少し気恥ずかしそうにしているが、キッパリと気持ちを切り替えられるところは彼の長所だ。新たに見えた次の目的地に向かうべく彼はクッキーを口に放り込んで残ったコーヒーを飲み干し、ベンチから勢いよく立ち上がった。
「よし、そろそろ行くわ」
「いつでも私はここにいるから。また良いものとお土産話、楽しみにしているよ」
「ああ、任せろよ。それが俺のやりたいことなんだから」

ニッと笑ってみせた彼にもう不安の色は見えない。安心してカウンターの奥に引っ込んで二つのマグカップを片付けていると、いそいそと荷物をまとめていた彼が思いついたように声をかけてくる。
「あ、なあ。いつでも良いんだけどさ。あんたが良かったら、いつか一緒に仕入れに行かねぇか?」
「……え?」

それは思いもしないことで、しっかり聞こえてはいたものの意味をすぐに理解することが出来なかった。
「あんたがここにずっといるって思うと、俺も多分街の人も安心出来るんだけどさ。あんた、いっつも俺の話聞いてる時、うずうずしてるんだもん。いつか外の世界も見せてやりてぇなって思ってたんだ」

そんなにも私は分かりやすかったのか、と愕然とした。確かに彼や水晶公のお客様から旅先のお話を伺うことは、店に立つ日々の中でも特に楽しみなひとときではある。それがまさか話し聞かせてくれる本人にまで伝わっていたなんて。もしかしてお客様にも筒抜けだったのだろうか。もしそうなら。顔に熱が集まって熱くなっていく。
「だから、気が向いた時でいいからさ。考えといてくれよ」
「……ありがとう、考えておきます」
「おう、そうしてくれや。それじゃあ、コーヒーとクッキーご馳走さん。これ、絶対売れるぜ」
「ふふ、ありがとう。気をつけて、いって──」

すっかり旅商に戻った彼が手を振って去っていこうとする横顔に私も倣って手を振ろうとした。しかし、唐突に視界が揺らぐ。この感覚。気付いた時には総毛立ち、視線は空へと差し向けられる。
「見て!」
「……あ」

まるでヴェールが風に揺れるように、空を覆っていた目を焼くほど苛烈な光が揺らぎ、その奥から白んだ空が現れて時を報せる。

これは朝日──新たな一日の始まりの色だ。

空が色彩を取り戻した報は瞬く間に街を駆け抜けた。同時にコルシア島から一番速く飛ぶアマロによって、じきに御一行が帰還される報告がもたらさる。粛々と日常を維持していた奥底で『もしも』を考えなかった住人はいなかっただろうが、その一報でクリスタリウム中を流れていた不安は全て吹き飛ばされていった。

そして、夜がまた空を紺色に染め上げる頃。待ち焦がれた碧い君がお客様方と共に橋の向こうに姿をお見せになった。そう、ずっと私たちを見守ってくださっていたその双眸を露わにして。夜闇の中でも強い光を称えた紅い瞳がお客様──公にとって一番大切な方へやわらかく細められた瞬間を認めた時、自然と涙が溢れた。やっと、公は何をも隠さずに向き合うことが出来たのだと思えばこそ、これ以上嬉しいことはない。
「まさか、あんたがあんなに泣くとはなぁ」
「……それくらい、私にとっても大切な方々だったんだ。自分でも驚いたけど……」

くっくと喉で笑う彼の言葉でまた少し思い出して、じわりと目尻が湿り気を帯びる。いけない、切り替えなければ。

愛しいものたちの帰還を祝う宴が夜っぴて催された翌朝、私は宴の心地よい疲れを残す体を引きずっていつもの時間に店を開いていた。一緒に宴を楽しんだ旅商の彼とコーヒーを啜りながら、常よりも静かな朝のムジカ・ユニバーサリスを眺める。今日はきっと二日酔いや喉の痛み、筋肉痛に効くものを所望される方が多くなるだろう。それほど盛況な、それこそ生まれて初めて経験する最大級の宴だったのだ。

ぼうっとコーヒーを飲んでいる彼に渡すために今回の仕入れで依頼したい物資をメモに書きつけていると、また頭上から影が降ってくる。待ちきれなかった彼が近づいてきたのだろうか、とゆっくり顔を上げると不意に懐かしい匂いが香った。
「すまない、少し良いだろうか?」

続いていつかの時よりも溌剌とした、しかしやさしいお声が耳をくすぐる。見上げた紅い瞳には驚いた表情の私が映っていた。ああ、この方はこんな風に微笑まれていたのか。
「いらっしゃいませ、水晶公、お客様。お待ちしておりました」