月明かりの許、夜の滸
明かりの少ない海の上だといつもよりたくさん星々が見える。強めの風が雲を押し流してくれる今夜はきっと星空が美しい、と見当をつけてリムサ・ロミンサから次の目的地へ向かう船での不寝の番を買って出たのは正解だった。自分以外の見張り番もそれぞれの持ち場で空を見上げていることだろう。
風に押されて落ちてきた髪を掻き上げながら、初めてエオルゼアに来た時のことを思い出した。長距離航行をする船に乗ってリムサ・ロミンサに向かっていたあの頃はまだ髪も短くて、どんなに風が強くてもこんなに邪魔になることはなかったのだった。今は結い上げてもそれなりの長さが垂れるほど伸びた髪と同じように自分の旅路も長く、遠いところまで来たのだと、始まりをなぞるような船旅が思わせてくれる。
またその瞬間にいたい思うほどの楽しい思い出も、心を押し潰すほどの苦い記憶も、全て。
月が中天にさしかかろうとしている。ラノシア外海の風も少し冷えてきた。イシュガルドの雪風と比べればまだまだあたたかいものだが、あの銀世界を思ったからだろう、風に混じって嗜めるような色を含んだ快活な声が体は資本だと囁いたような気がした。持参していたストールを大人しく羽織って、また空を見上げる代わりに背後をくるりと振り返る。そこには、赤毛の青年が驚いた姿勢のまま固まってこちらを凝視していた。
「お、っどろいた……完全に気配消してたのにバレるのかよ……」
「これでも旅慣れているもので」
「ちぇー」
グ・ラハは悔しげにおどけて、厚手の毛布の裾を翻しながら俺が座っている見張り台まで軽快な足取りで登ってくる。嬉しい反面、ついつい眉を顰めてしまった。そろそろ夜更けと言ってもいい頃だというのに、また夜更しが止められないようだ。
「今日は当番じゃないだろう? ちゃんと寝ていないと」
「本読んでただけだって。もう寝るよ、これ飲んだらな」
グ・ラハは毛布の影に隠していた湯気が立ち上るブリキのマグカップを引っ張り出し、そっと手渡してくれた。俺がマグカップの取っ手を握るまで器用に指先で縁を持っていてくれる、そんな仕草の一つに慣れを感じてまだ飲み物に口をつけていないのに胸があたたかくなる。掌全体でブリキ越しに伝わる熱を包むと、じわりじわりと冷え始めていた指先の感覚がほどけていった。
「ありがと。あったまる」
「ジンジャーティだ。あんた、それ好きだろ」
自分も腰を下ろしながら事もなげに言う、その言葉にどれほどの想いを込めていたのだろう。どんな想いでその一幕を描いたページを捲ったのだろう。こんな時ばかり上手に仕舞い込まれた揺らぎが湯気に吹きかけられる吐息の中に微かな気配を残していた。
「……よく知っているな、流石の知識量だ」
本心を明かせば安心したように、へへ、と笑う彼と視線を渡し合って、マグカップを軽くぶつけるささやかな乾杯を交わした。一足先に一口すすればジンジャー特有の香りが通り抜けた喉から腹の底から、やわらかい熱を起こしていく。この調子なら夜明けの交代までは寒さに凍えることもないだろう。
ふうふう、と息を吹きかけては一口試し、吹きかけては試しを繰り返していたグ・ラハもようやくゆっくりとではあるがジンジャーティを啜れるようになった頃。暗い星が空を飾り始め、いよいよ夜も本番を迎える。もし流星が見えたら何を願おう。そんなことを考えるほどに、海上の空は星々に埋め尽くされていた。
「なあ、あんたはさ。本当に終末が来たらどうするんだ?」
不意にかけられた問いに思わず目を丸くしてしまった。そのまま顔に出てしまったらしい、グ・ラハが面白いものを見つけたと言わんばかりに吹き出しかけている。
「なんだよ、その顔」
「ああ、実は前に同じようなことをエメトセルクにも訊かれてさ」
「エメトセルクに? 答えたのか?」
「そりゃあ答えない理由もなかったし……」
そういえばあの時はまだ水晶公の正体も本当の目的も、第一世界のことも何もかもまだ知らなくて、自分なりに焦っていた時期だった気がする。おまけにそれまで倒すべき敵としか見ていなかった、否、考えずに討ち果たそうとしていたアシエンから手を差し伸べられて、それなりに混乱していたのだった。
普段は問えば答えるとの言葉通りに世界の仕組みも彼ら自身のことも語り聞かせてくれたエメトセルクからの問い。それは今も鮮明に、指が浅瀬の砂に沈むようなとっぷりとした深い声音さえも思い出せるほどに焼き付いている。
「……ふぅん……それで、なんて答えたんだ?」
本心では知りたくて仕方ないだろうに、あくまで穏やかな風を装っているグ・ラハに笑んで見せ、あの時の言葉を再び音にする。
「いつもと変わりなくご飯を食べて、それから出来ることをする。もし一人でもって答えたんだ。でも……今はちょっと違うな」
この旅は星の命運を賭けた戦いの途上。テロフォロイの塔とテンパード、荒れ狂う偽神たちと確かに相対した俺たちは今、アシエンたちの言う終末の端にいる。
それでも、心はひどく穏やかだった。今、俺の中にあるのは新たな冒険の地への期待ばかり。シャーレアンもラザハンも、三国やイシュガルドとは違った文化や経験を見せてくれるだろう。それを自分がどう感じ、考えるのか。今から楽しみで仕方がない。たとえ、終末が迫っていたとしても冒険の旅路は決して終わらないと信じていられるからだ。
「俺には隣りを歩いてくれる人も、背中を押してくれた人もたくさんいる。だから、いつだって独りじゃない」
膨らむ期待感の隙間、探していた言葉を見つけた俺はそのまま真っ直ぐグ・ラハに向き直って、その約束の瞳を見つめる。縁を結んでくれた旧い血の証がまたたき、そして一筋の星が降る。
「ははっ……あんたらしいな、なんだか安心した」
鼻をすすりながら誤魔化すようにマグカップの中身を一息で飲み干したグ・ラハは、深くふかく息を吐いた。ブリキに残った熱の余韻を名残惜しそうに両手で包んで守っている彼は、何を想ってこの終末を見ているのだろう。数えきれないほどの明るい夜を越え、永い旅路の果てにいるグ・ラハの答えに興味があった。
「グ・ラハはどうするんだ?」
待っていたように、グ・ラハは一つゆっくりとまばたきをする。マグカップを甲板の床に置いて、しなやかでいて力強い手が俺の膝にふれた。
「……オレはあんたの隣りにいる。背中を押すだけじゃない、一緒に立って歩くんだ」
ここにいる、側にいる、と訴えるように。瞳に満天の星空をたたえたグ・ラハは微笑む。その背には彼が連れてきた遠くて近い、強くて淡い光が共に在った。その光に充てられて俺は一度だけ大きく頷く。彼と自分自身が連れてきた人たちにもう大丈夫だ、と伝えるために。
今、自分はどんな眼差しでいるのだろう。満足そうに笑みを深くしたグ・ラハを見るに、それなりに良い顔が見せられていると信じたい。
「それにさ!」
若い体のバネをめいっぱい使って、グ・ラハが勢いよく立ち上がった。飛び上がりざまに俺の手を攫って一気に引き上げる手際の良さに驚きながらも、楽しそうに爛々と輝く彼を見れば文句も何も言うことはない。
「まだまだあんたと旅したい場所がいっぱいあるんだ。終末なんかに止められてたまるかってーの!」
「終末なんか、か。良いな、グ・ラハらしい」
腰に手を当てて胸を張り、堂々と言ってのける彼にまた笑みが漏れる。頼もしい仲間が隣りにいる。本当の意味で孤独との決別を実感した旅路の果てに彼がいた。いつだって怖かった夜を愛しいと、側にいる大切なものを失いたくないと想えるようになったのは、旅路の果てから届いた唄と言葉を聴いたからだ。
どちらからともなく俺たちは手を取り合い、固く握手を交わす。月明かりの許、熱と想いを交わしていた。
「……おやすみ、また明日な」
「ああ、また明日」
握った手を潔く解いた俺たちは、始めからそう決めていたように短い暇の挨拶を交わす。ひらひらと揺れる毛布の裾が見えなくなるまで、グ・ラハは一度も振り返ることはなかった。それでいいと思う、そう感じる。
また一人になった甲板で空を見上げた。ほぼ真円に近い月が煌々と航路を照らしてくれている。旧い契りも、今から創り出す足跡も、果てない未来も。全てを連れて俺は行こう。何処へだって、共に。