息継ぎ

音に温度があるならば、この音は春の陽射し、暖炉の火、もしくは酒を飲んで程よく逆上せた頬に似ている。

イルサバード地方は帝都ガレマルドへの道を往く船は現在月明かりの下、夜間飛行中だ。さまざまな想いが渦巻く中ではどうしても落ち着かず、彼の地に着いてからが大変だからと押し込められた寝台からそっと抜け出した。無意識に人の声を避けながら宛もなく彷徨っていると、不意にその音を捉えたのだ。

艦の廊下を小気味の良い音を鳴らしながら進んでいくと、広い空間に出る。そここそがあたたかい音色の出処だった。顔馴染みたちに混じって、端の方には銀糸の三人組も音に耳を傾けている。みんなの視線、あるいは耳の先では同じ詩歌の師を持つギドゥロが竪琴を片手に夜想曲を朗々と奏でていた。勿論、彼のすぐ傍らには他のみんなと同じか、誰よりも集中して音色を辿るサンソンが腰掛けている。相変わらずなようで安心した。

一際わっと大きな歓声があがる。どうやら一曲終わったらしく、森都のエレゼンらしい優雅なお辞儀でもって彼は今夜のお客の拍手や声に応えていた。これまで敵対していた国へ向かうこともあって、誰もの奥底に横たわっていた緊張感は今夜この場においては少し和らいでいるような気がする。やはり、歌には人に寄り添うやさしい力がある。おまけに今夜の歌い手は戦場を駆けながら兵たちを鼓舞する戦歌の遣い手だ。歌を胸に宿したみんなはきっとガレマルドの冷たい風の中でも心と体が強張ることはないだろう。

自分の中にも響く音色に感謝の念を送っていると、あの軽薄とも捉えられかねない笑顔を振りまく今夜の主役、ギドゥロと目が合ってしまった。
「おう、誰かと思ったら! さては枕が変わると寝れねぇクチか?」
「そんなところ。改めて、久し振り。元気そうで良かった」

軽口を叩きながら人の間を擦り抜けてきた兄弟子と握手を交わす。ひっそり立っていたつもりなのに、流石狩人の目は誤魔化せない。ギドゥロを追う人々の視線にも捕まって、あちらこちらから私の存在に気付いた声が聞こえる。
「まーな! サンソンなんかはりきり過ぎて困るくらいだぜ」

にまにまと悪戯っぽい笑みを向けられたサンソンは私への挨拶代わりに手を振りながら、目を三角にしている。そんな彼らの様子を見るだけで、離れていた時間も実り多い日々だったのだろうと知れる。
「よぉ、相棒。お前も来ていたのか」

遠巻きにこちらを眺める人たちを突っ切って親しんだ銀色たちが近づいてきた。その姿が当たり前の風景のように馴染んでいて、ふと何かが胸に広がる心地がした。それにしても、時と場さえ合えば良家の二人とその護衛にも見えそうで面白い。
「エスティニアン、アリゼーとアルフィノも。寝ないと駄目だろう?」
「そっくりそのままあなたに返すわ」
「少し寝付けなくて夜の散歩にね。そうしたら素敵な演奏会が開かれていたから立ち寄らせてもらったんだ」
「お、嬉しいねぇ。ありがとな、暁の兄さん方」

そこからそれぞれかんたんな挨拶と夜想曲の感想を述べ、和やかな雰囲気が流れる。きっと今夜の思い出は、たとえ厳しい旅路を辿ったとしても、焚き火や灯台の明かりのように輝いて道を照らしてくれるだろう。そんな予感がした。
「……で、まさかこのまま帰るなんて無粋な真似しねぇよな?」

いつの間にかめいめい夜の自由時間を過ごしていた周囲の人影も疎らになった頃、そろそろベッドに戻ろう、と言いかけた出端をギドゥロの声がすっと遮る。今か今かと待ち侘びていたその色を私が見逃すはずがない。

彼と歌うのは楽しい。普段ならすぐに自分の楽器を取り出していただろう。だが、今はアルフィノとアリゼーを早く布団に入れたい気持ちの方が勝っていた。きっと戦闘は避けられない。頑張り屋の二人には休める内にしっかり体を休めてほしいと思うのは過保護だろうか。
「……生憎手ぶらなんだ」
「安心してください、予備がありますよ」
「サンソン……」

弾んだ声と一緒に背後から飛び出てきた竪琴に文字通り頭を抱える。流石、森の民は気配を紛れさせるのが上手い。まさに状況は前門のギドゥロ、後門のサンソン。おまけにキラキラと期待に満ちた眼差しを向ける双子たち。ここで逃げるような粋じゃない真似は出来そうにない。
「……最近はずっと弓を引いてないんだ、下手でも許してくれよ」
「ヘッ、謙遜も過ぎると傲慢だぜ?」

サンソンから予備の竪琴──という割にはしっかりとした作りで手によく馴染む──を引き取り、ひと撫でして音を軽く出す。吸いつくようでやわらかい、余程腕の良い職人の仕事なのだろう。
「あんたに合わせるぜ。好きに演りな」
「分かった、いくよ」

ふ、と深呼吸を一つ。

奏でる音色は静かに小舟を運び流れる水路、遠い先には一筋の光が佇む風景を思い描く。揺れるゆれる。水面に揺らぐ灯火の主は小舟が近付くほどにその正体を明らかにしていく。

一つに見えた光は、いくつかのそれが寄り集まっているものだった。手招きするようにゆらぐ。手を伸ばせば、やわらかい力で肩を抱いてくれる。

やさしい光。

肩にふれた掌の温度が薄らいだ頃合いに指先を弦から離せと、さざなみのように拍手が贈られた。夢中になって音を追いかけている内に散じていた人が戻ってきていたようだ。
「……なあ、お前さぁ……」

頭上から降ってきた声に振り仰げば、気持ち良く演奏させてくれたギドゥロが今まで見たことのない表情を見せていた。むずがるようで、少し照れているようで、それでいて悲しそうな何とも言えない感情が見え隠れしている。
「ギドゥロ?」
「……いや、これ以上は粋じゃねぇな……」
「……そんなに酷かった?」
「んな訳があるかよ。見てみな、お客たちの顔。みんな、もっと聴きたいってよ」
「そ、うなのか……? 喜んでもらえたなら良かったけれど、そろそろみんなも休まないと」
「だな。ま、後はこっちで上手くやっておくから、さっさとねんねしな」
「うん……? 分かった、君もあまり遅くならないで」

お小言に慣れきった彼には大した効果もなく、ひらひらと手を振って興奮気味のお客たちの元へ歩き去っていく。今の内にベッドへ戻れということだ。

彼の粋な計らいに乗せてもらい、まだ聴いていたい、戦歌の旅の話を聞きたい、とごねる双子たちの背を押し、相棒を連れて広間を後にする。
「なあ!」

背中を追ってきた美声に振り向けば、彼はいつも通りにやりと皮肉っぽい笑みを見せてくれていた。怒号代わりに歌が響く戦場で、あるいは酔っ払いで揉みくちゃになったイシュガルドの酒場で背中を押してくれた彼の鼓舞だ。
「声の続く限り、声の届く限り、俺たちの戦歌がお前も護るぜ」

その言葉通り、歌が響く。不慣れだろう雪の行軍でもお構いなしに高く低く、堂々とした声が。それは確かに私たちを護り、生きる道へと導くものだった。