あの人なりの慰め方

※2022.01.29頭割り番外編展示作品

星々が空を彩り、やがて帰り路に就く人々によって部屋の明かりが一つずつ灯っていく。人々は一日の疲れを癒やすため、地下に在って空を持つエルピスの静かな夜に身を任せて各々思いおもいの余暇を過ごしていた。だからこそ、アナグノリシス天測園の一角から響く音がよく目立っている。気付いた人は首を傾げ、そしてすぐに騒々しさの理由を察することになるだろう。

音の出処にして天測園で最も立派な屋敷の主はここ、エルピスの所長であるヘルメスだ。否、日が落ちて定められた業務時間を終えた今、世界を善き方向へ導く十四人委員会が一角、ファダニエルと呼ぶべきか。彼は明日、新たなファダニエルとして座を継ぐために首都アーモロートへ発つことになっていた。日々の業務の合間に仕事の片付けや身支度を進めていたものの、ひとときの別れを惜しむ職員や縁のある者たちによる入れ替わり立ち替わりの訪問が手を遅々として進めさせず、結局直前まで準備が終わらなかったのだ。

ひとまず住まいの二階の部屋に隠すようにして大量に置いたままになっているイデアのクリスタルを整頓しよう、とヘルメスはクリスタルが無造作につっこまれた箱を前にして誰も見ていないのを良いことに床に座り込んだ。これが一番効率的に出来る姿勢なのだから、と誰に対してでもなく胸中で言い訳をしてヘルメスは一つ目のイデアに手を伸ばす。

クリスタルが擦れる細い音と夜行性創造生物たちの鳴き声が遠くから聞こえるだけの静かな時間に、ヘルメスはエルピスで経験したことを一つ一つ思い出していた。楽しかったことも嬉しかったことも、悔しかったことも。なにもかもが今は懐かしい。ただ、一つだけヘルメスの手を止める記憶があった。もう会うことが叶わない彼の流星との思い出。いつも彼の後ろを小鳥のようについて歩き、歓びは笑顔で、悲しみは困り顔で返してくれた青い鳥を想い、彼はひととき視界を手で覆った。まぶたの裏では青い尾がゆるりゆるり、跳ねる歩調に合わせてやわらかく舞っている。

その時、扉が開く音がした。恐らく自分を訪ねてきた者だろう、とヘルメスは緩慢な動きで立ち上がり扉の方へと歩いていく。部屋を出て階下を見下ろせば案の定、エントランスには仮面を外して素顔を晒している──つまり、エルピスの外から来た者が立っていた。だが、首にかけられた仮面の色は彼のものとは異なる色をしており、来訪者がただの見学者ではないことを示している。声をかけようと欄干に手をかけた衣擦れの音でヘルメスに気付いたその人は興味深そうに眺めていた鳥籠から視線を上げて、随分と人懐っこそうな笑みを見せる。
「良かった、まだいてくれた! こんばんは。あなたが新しいファダニエル、ヘルメスだね?」
「あ、ああ……確かに、自分がヘルメスだ。君は十四人委員会の……?」
「アゼムだ、はじめまして。ずっと会いたいと思っていたんだ、天を識る者よ」
「アゼム……! これは光栄だな、当代のアゼム直々に来てくれるなんて」

その座の名を聞いて、階段を降りる途中だったヘルメスは目を丸くする。アゼムといえば星中を飛び回って人々が抱えるさまざまな問題を見て聞いて、解決する者だ。当代のアゼムの活躍は先代アゼムであるヴェーネスの再来との呼び声が高いことは、エルピスにこもって研究をしていたヘルメスも識るところだった。
「あなたが座に就く、と旅先で聞いたものだから居ても立っても居られなくて。まずは祝福を……新しい仲間が来てくれて嬉しい」

ニコニコと本当に嬉しそうな笑みを浮かべるアゼムは近付いてきたヘルメスの手を取って、ぶんぶんと振り回す。まるで小さな子どものような無邪気な行動にヘルメスはむずがゆいような、懐かしさに胸が痛むような心地がして曖昧な表情で応えることしか出来なかった。
「ありがとう、アゼム……その、嬉しいよ。自分のために」

真っ直ぐに見つめるアゼムの視線に耐えかねて、ヘルメスは視線を足元へ彷徨わせる。よく見ればアゼムのコートの裾はくたびれ、泥で汚れていた。本人の言うように任務で飛び回っている最中にそのまま飛んできたのだろうことが伺い知れて、そしてかつて彼の流星も外を駆け回っては汚して帰ってきたことを思い出してヘルメスは少しだけ、それこそ常の人ならば気付かれない程度に瞳を陰らせる。だが、今回は相手が悪かった。
「……やっぱり元気がない。断片的だけど聞いているよ」

アゼムは予想が当たってしまったことに気付き、目線の合わないヘルメスの肩にそうっと手を置く。今、ヘルメスに必要なことは何かを探るように。
「そんなに気落ちしているんだ、余程大切に思っていたんだろう? 別れは辛いよな」

胸中にいくつか思い当たる記憶を浮かべながら言葉を紡ぐアゼムをようやくヘルメスの視線が再び捉える。ヘルメスの揺れる瞳を見てもなお、アゼムは微笑み続けていた。
「ねえ、もしよかったらその大切な子のこと、教えてよ」
「……ああ、勿論だ」

立ったままでは何だから、とヘルメスは奥の席をアゼムに勧める。促されるまま素直に座ったアゼムの瞳は期待感で爛々と輝いていた。ヘルメスは飛行生物の創造魔法の第一人者だ。その人自ら隠していた最高傑作の話を聞けるとなれば、好奇心を動力に生きていると言っても過言ではない当代のアゼムがその喜色を隠せるはずがない。

ヘルメスの言葉はやわらかく、ただ研究のことを語るというよりは大切な人との思い出を紡いでいるようにただ一人の聴衆であるアゼムは感じていた。殊に青い鳥を模した使い魔との思い出はヘルメスにとってかけがえのない日々だったのだとよく伝わってくる。それほど語る言葉と眼射しには熱と同じくらいの影がさしていた。
「本当にあなたは飛行生物たち、とりわけその使い魔が大好きなんだね。見てみたいなぁ、あなたの創り出す空を駆ける者たち」
「なら、今度エルピスを案内しようか? イデアならあちらにいくつかあるけれど」

まだ片付けている途中のイデアでいっぱいの部屋を指してヘルメスは奥を勧めるが、アゼムはそれにはすぐ応えず考え込むように口元に手を当て、やがて何かを閃いたようにパチリと指を鳴らしてみせた。
「……いいや、ヘルメス。もっとかんたんな方法がある」
「かんたんな方法?」
「そう、まずは外へ」

すっとしなやかに椅子から立ち上がり、自分が入ってきた扉へ向かうアゼムの後をヘルメスは追う。意図は分からないが、短い時間でも言葉を交わした時間がアゼムという人が多くを考えていることをヘルメスに確信させていた。だからこそ、首を捻りながらもその背中を追う足取りに不安はない。

やがてその人が立ち止まったのはヘルメスの仕事部屋から程近い、ノトスの感嘆東にある少しひらけた広場だった。昼間なら創造生物たちがめいめい羽を伸ばしているが、今は巣に帰っているからか姿は見えない。
「この辺で良いかな……よし」

辺りを見回して誰の目もなければ、創造生物たちの気配もないことを確認したアゼムは、続いて口の中で一つ詠唱を唱える。すると、その手に細い剣が鋭い光と共に現れた。そして、その細剣は距離を取ったヘルメスへと向けられる。
「アゼム? その、どうして武器を構えているのだろう……?」
「手合わせをしよう。そうすれば、体も動かせて一石二鳥だ」
「は? え? いや、一体何を?」

ニコニコと先程までの微笑みはそのまま、しかし手にしたものはあまりに物騒極まりない剣という不自然な光景にヘルメスも流石に目眩を感じる。アゼムという人の良く言えば破天荒さは彼も噂に聞くところだったが、笑い話程度にしか認識していなかった。更に言えばつい最近、彼の友人であるというエメトセルクとヒュトロダエウスからその行動の突飛さについては聞いていたが、まさかエメトセルクの眉間の皺が深くなる理由を身を以て経験することになるとは夢にも思っていなかった。しかも、アーモロートへ発つ前日に。
「ほら、早く構えて。十数えたらいくよ」
「いや、ちょっと待ってくれ……待ってくれ、本当に!」

ヘルメスの静止も聞かず、アゼムのカウントダウンは止まらない。ヘルメスの位置からだと今から走っても数え終わるまでに間に合わないくらいの距離があり、残り少ない時間を悩み抜いたヘルメスは遂に魔杖を手に執った。

本来なら創造魔法の行使に杖は不要だ。だが、突発的にエーテルを急回転させて練り上げるなら指向性を持たせられる杖を補助的に使うことで創造物の完成度をより高めることが出来る。ここ一番での決断力、そしてこの場における本気を見たアゼムは思わず自分の口角がゆるく持ち上がるのを自覚した。
「三、二、一、零!」

合図と共にヘルメスの頭上で紅い花が優美さよりも力強さを感じる鈴の音と共に炸裂する。巻き上がる土煙で辺り一面が白く染まり、アゼムはヘルメスの『姿』を完全に見失った。しかし、それは煙に巻かれたヘルメスも同じ。どう出るか、と徐々に速まる鼓動を感じながらアゼムは剣を握り直した。

数瞬の後、旋風──否、最早小さな竜巻ほどの逆巻く風の流れが土煙を吹き上げ消し去る。雄々しいいななきを挙げて空高くに現れたのは翼を持つ白馬、そして彼に跨るヘルメスだ。ニコニコと変わらぬ笑みを浮かべるアゼムとは対象的に、ヘルメスの表情は困惑に塗り潰されていた。
「なるほど、速度も精度も段違いだ。生物創造魔法ならエメトセルクにも迫るんじゃないか?」
「アゼム! こんなことはすぐに止めよう! 今ならまだ誰にも気付かれていないから!」
「大丈夫、気付かれないうちに終わらせるから」

風に負けないように声を張り上げてヘルメスは必死に呼びかけるが、アゼムは旅で培った経験が齎す余裕に裏打ちされた笑みを絶やさず、唐突な手合わせを止めるつもりもない様子だった。アゼムが生み出した小規模な雷を避けながら、ヘルメスは地上で悠々としているアゼムに接近を試みる。飛行生物を駆る手綱捌きは、天を識る者と称されるだけの手並みで危なげもない。
「結構結構。でも、そこ危ないぞ」
「!?」

なおも微笑むアゼムの瞳はやわらかい光を帯びている。ヘルメスはそこに魔力の色を見た。エルピスにもたらされる陽射しのようなそれは一瞬にして鮮烈な雷光に転じ、ヘルメス目掛けて迸る。
「くそっ」

飛行生物の背から飛び降りながら、キッと吊り上がったヘルメスの翡翠色の瞳にも魔力の光が宿る。まるで大きな幕をまとうように、自らの周りを風で覆って土煙で一帯を煙らせたヘルメスは、同時に淡く光った杖を振るう。すると広場の東西、丁度アゼムを挟み込んで行く手を阻むように逆巻く風属性のエーテルを湛えた門が次々と現れた。

詠唱破棄、更にはトリプル。魔法の扱いに長ける者でもどちらか一方を使えれば上出来だと言える。ヘルメスは同時に、しかも連続で使ってみせた上に発動した術もかなり強力なものだ。それこそ十四人委員会に迎えられるほどの実力を備えていなければ出来ない芸当に、アゼムは自分の口角がみるみる上がっていくのを自覚した。

アゼムという人は未知にふれることを一等好む。詠唱破棄もトリプルも自身が使える術ではあるが、『ヘルメス』あるいは『ファダニエル』となる者が繰り出すそれは今まで見たことのあるそれらよりもひどく繊細に見えた。術を行使するヒトによって違った表情を魅せる魔法の光、それを見るためにアゼムは遥か遠い旅先から理想郷の果てへやって来たのだ。
「目眩ましからの多重詠唱、良いね」
「これで終わってくれ……!」

ヘルメスのまばたきを合図に門から、そして地面へ強かに打ちつけた杖からも風の塊がアゼムめがけて真っ直ぐ突進していく。凄まじい速度と質量の突風をもろに受ければ、軽傷では済まないだろう。

絶体絶命の危機といえる状況でも、アゼムは笑みを崩さない。その人がこれまで歩んできた旅の経験がそうさせるのか、迫る風切り音すら心地良さそうにしていた。
「でもさ、見慣れてるんだ」

風がどこを通るか見えているのか、前に飛び込み後ろに飛び退り、まるで軽業師のような身のこなしでアゼムは風の通り道を難なく躱してみせた。あと一瞬でも遅れていれば危険だったというのに、心底楽しそうに踊るような足取りのアゼムの姿にその人がその座に就いている所以を見たように感じて、ヘルメスはどこか空恐ろしささえ覚える。

反撃に転じられる前に、とエーテルを再び練り上げようと体の中で循環を始めた次の瞬間には、すでに二人の距離はアゼムによって一方的に詰められてしまっていた。腰に手を回し、杖を持つ腕を掬い上げ、今にも社交場のただ中に踊り出るような姿勢をアゼムに取らされたヘルメスの気が抜けたのだろう。巡りだした魔力は霧散していき、切り裂く力を失った風は二人の前髪を揺らす微風として顕れる。
「勝負あり、だな。ありがとう、楽しかった!」
「アゼム、君って人は……」

風に乗ってその場でターンを決めた二人からはもう新しい魔法の気配は失せている。代わりに本気で遊んだ満足感、それにあのひとときを惜しむ気持ちを滲ませてアゼムはヘルメスを放して向き直った。
「ヘルメス、私はね。辛いことがあっても、座に就いて役目を果たすことを選んだあなたを知りたくて来たんだ」

その人の言葉は、ただまっすぐだ。飾りも何もない、届けたいという想いだけがある。かんたんなことのようで、何でも出来るはずのヒトには些か難しいことをやってのける。
「どんな経験を経てきたのか、何を考えているのか……あなたの好きなことや得意なことも知りたい」

だから、この人はアゼムなのだろう。ヘルメスは一方的に話に聞いて知っていたとはいえ、知り合って間もない未だ無邪気に微笑んでいる目の前の人に仄かな親しみを感じていた。
「アゼム……君は、やさしいんだな」
「どうかな。私はやりたいことをやっているだけなんだ。あなたに会いに来たのも、自分がやりたかったから。それ以上のことはないよ」

まっすぐな人にあてられたからか、ヘルメスが口にした言葉も素直な胸の内を明かすものだった。ひとときのふれあい──実際は言葉通りのやさしいものではなかったが──でも自分を変えたアゼムへ、彼もまた誰かと似たような笑みを向ける。
「まあ……こんな風に思いつきで動いているから、いっつもエメトセルクから小言をもらうんだけどね」

向けられた本人も感じ取ったのだろう、肩をすくめてその人は戯けてみながら手にしていた細剣を霧散させる。そんなたった一つ、二つの動作からも滲む色の違いにヘルメスも気付いて、もしもこの感情の嵐のような人にあの子が出会っていたなら、と叶えることが出来ない未来を惜しんだ。暴走なんてせずに済んだかもしれない。何かが変わっていたかもしれない。そんな想いばかりが浮かんでは消える。
「ふふ……君たちは本当に仲が良いんだね」

それには応えず、アゼムはふと口元をゆるませるだけに留めた。そして、既にその人の眼差しは空へと向けられている。
「さあ、そろそろ私は行くよ。西にいる知り合いが新しい創造魔法を作ったから見てくれってうるさいんだ」
「そうか、忙しいのにありがとう。また今度、アーモロートで会った時にその魔法を見せておくれ」
「勿論! じゃあ、また会おう。新たな同朋、ファダニエル」

ピイッと高く指笛を鳴らせばすぐに東から一等大きな鳥が空を駆けてくる。片翼ずつが比較的長身なヘルメスの身長ほどあるその鳥は風を大きく巻き上げ、次の瞬間にはアゼムを西の空へと連れ去っていた。月に向かって飛んでいく影はやがて遠く、小さくなっていく。

姿が見えなくなって、やっとヘルメスは自分の肩に力が入っていたことを自覚した。ゆっくりと息を吐いて脱力しつつ、突然の来訪者が齎した自らの変化にも気付いた。

もう一度会いたい。ただ、その時は剣を執らずに語れることを願って、ヘルメスはもう一度だけその人が飛び去った西の空を見上げた。
「……しかし、後片付けが増えてしまったな……」

空から目を落として辺りを見れば、穴だらけの土に風圧で少しヒビの入った窓ガラス、よく聞けば遠くから誰かが駆けつけてくる足音も聞こえてくる。まだ身支度も済んでいないのに、とヘルメスは肩を落とす。だが、その頬は夜の始めよりはやわらかくほどけていた。