絶対仕返ししてやる
重い。体が鉛のように重い。
冒険者、あるいは英雄と呼ばれるその人の頭の中を支配しているのは休息への渇望だった。
一処に留まることが出来ないその人は日頃から行く先々で何かしらの揉めごとやいざこざ、楽しそうな催し物に巻き込まれることが多々あったが、今日という日は格別に振り回される一日だった。一日中走り回った疲れは体力自慢の冒険者でさえ心地良さすら飛び越えて、もう今すぐにでもふかふかベッドに潜り込みたい、そんな一心を抱かせるほど。テセレーション鉄橋からそのままペンダント居住館へ向かってしまったため、街の主にも恐らく一緒にいるだろう暁の面々にも帰還を報せることなく、夜半であってもまだ活気の気配が耳をくすぐるクリスタリウムをその人は足早に駆け抜けていた。
やっと辿り着いた居住館のエントランスは珍しく管理人の姿が見えない。いつもなら軽い世話話をして部屋に戻る冒険者も、疲れきった今日ばかりは誰とも言葉を交わす必要がないことがありがたく感じつつ、割り当てられた部屋へと最後の力を振り絞って階段を登っていった。
シルクスの塔の螺旋階段に思えるほど疲れている。武具の手入れも何もかも明日に回そう、と強い意志を込めて扉に手をかけると、無人のはずの室内に人の気配を感じて一瞬動作を止めた。暁の誰かならまだしも、どこからともなく見ているらしいアシエンだろうか。もし不届き者でもある程度の人なら何とかなるか、と冒険者は常より重い扉を押し開けた。
「おかえり、英雄殿」
ゆったりとしたやさしい声音で出迎えてくれたのは、街の管理者にして、冒険者を『最強の英雄』として喚び出した水晶公その人だった。窓辺のベンチに腰掛けて外を眺めている格好から、公は戸口に突っ立ったままの冒険者の元へ歩み寄っていく。歩調に合わせて魔道士のローブがゆるやかに揺蕩って、眺めている冒険者の欠伸を誘った。
「ただいま。あの、どうして部屋に?」
「あなたを訪ねたら鍵が開いていたので、悪いと思ったが上がらせてもらっていたのだ。クリスタリウムの皆を信頼してくれるのは有り難いが不用心は良くない」
「うわ、ごめん。ありがとうございます」
まだ出会ってからそう時間は経っていないものの、冒険者は持ち前の観察眼で水晶公という人が存外口元とまとう雰囲気に気持ちを乗せてしまうことを気付いていた。
「さあ、こちらへ」
実際、今も公は本当に嬉しそうに口元を緩ませて、家主をダイニングテーブルへと誘っている。疲れを理由に断るには真面目で、水晶公のことを無下にするには彼を好ましく思っていて、その人は誘われるままテーブルについた。すぐに水晶公手づから給仕されてきたのは、湯気が立ち昇る大きめのマグカップだ。部屋に備えられているものよりも年季物で、ルガディン族の手に収まって丁度良いくらいの大きさのそれには甘い匂いをこれでもかとばかりに振りまくホットチョコレートが波打っていた。
「ホットチョコレートだ」
「今日は遅くまで駆け回って疲れただろう? 甘いものを用意してみたから、よかったら飲んでくれ」
「嬉しい……! ありがとう、水晶公」
大きなマグカップを注意深く両手で持って、水晶公自身も手にしている小ぶりなそれと乾杯をする。二人揃って口をつけたカップの縁から、一口飲み込んだ喉から上質なチョコレートの香りが抜けていって、冒険者の胸にじんわりと水晶公の心遣いが染みていった。
疲れを解きほぐすようなあたたかさできっと今夜の夢は深いだろう、と冒険者はなかなかなくならないマグカップを傾けていると不意に水晶公と目線が合う。
「それで、何か用事があったんでしょう? 今からで良ければ聞くよ」
「いいや、もう用事は済んだ」
「えっ?」
彼のことだから自分の分は少なく入れたのだろう、すぐにマグカップを空にしてしまった水晶公はさっさと流しでカップを濯いでローブに仕舞い込んでしまった。そそくさとどこかばつが悪そうに見えるのは勘繰りすぎる旅人の性だろうか。
「そのマグカップは使ってくれて構わない。ゆっくり休んで、英気を養っておくれ。では、おやすみ」
「お、やすみなさい……?」
本当に言いたいことだけ、やりたいことだけやって扉を擦り抜けて帰っていった彼のローブの端。逃げ出すような仕草に冬の古い記憶が合致した。
「あっ」
今から追うのではもう遅いだろう。老人だというのに存外すばしっこいことを冒険者は何度かの旅路と、街の中の冒険で身にしみて知っていた。何よりもう足が動かない、と冒険者は彼の注ぐ厚意に甘えさせてもらうことにした。
「……お返し、何がいいかな」
一ヶ月後に訪れる機会をきっと水晶公は忘れてしまっているだろう。ならば、めいっぱい驚かせて喜ばせたい。冒険者はまだ半分ほど残っているホットチョコレートを楽しみながら、水晶公の口元がゆるむ時を想い描いていた。