願いは夜を越えて
たとえば、小さな子どもがテーブルクロスを引っ張って食器を片っ端から落とした時。あるいは、立てかけていた剣や槍の類を一気に倒してしまった時。ともかく、とんでもない大音量がバルデシオン分館を無遠慮に駆け巡っていった。
クルルもオジカも帰ってしまった今、ナップルームで跳ねる心臓を抑えているオレしか対応出来る人間はいない。読みかけの本に栞を挟み、手に馴染んで久しい杖を念のために背負ってエントランスへの戸を押し開けた。
「……まずい」
「……二人揃って、何してるんだ……」
魔導兵器が生じさせる炸裂音も裸足で逃げ出すほどの轟音の出処は、倒れ伏した我らが英雄だった。ほうぼうの体で槍に体を預けているエスティニアンが床に落としたのだろう。なんとなくそんな予感はしていたが、いざ目のあたりにすると目眩がしてくる。
それもそのはず。数日前、元気いっぱい手を振って狩り兼顔見せ兼お使いにテイルフェザーへエスティニアンと出かけていったこの人は、普段から手入れの行き届いている装備も見た目も何もかもがボロボロになり果てていた。
地脈に溶ける背中にかけた「気を付けて」という言葉は、この人にとっては数多の内の一つに過ぎなかったのか。
オレだって一緒に行きたい。だけど今は互いの役目をそれぞれの場所で果たすべき時だ。何もかもを押し退けて出ていきそうになる気持ちを抑えていたのはオレの勝手な都合だったのだけれど。それでも、ぽつりと滴るものの正体には気付きたくない。
「ちゃんと説明してもらうぞ」
「……チョコボの密猟団との乱闘騒ぎに巻き込まれてな」
クリスタリウムで悪さをした若者に事情を訊き出す場面を思い出しながらエスティニアンを見ると、渋々といった風に竜騎士は重たい口を開いた。実際疲れていたのだろうが、テイルフェザーを中心に高地ドラヴァニア全体を舞台とした密猟団との攻防戦を語る淡々とした口調からは、ただただ早く休みたいという気持ちがよく伝わってくる。
そして、今は床にべったりくっついて離れないこの人の大活躍により、密猟団の首領が捕まったところで今回の物語は終わりを迎えた。このくたびれ様から見て取れるように、随分と大活躍だったらしい。
「事情は分かった。この人はオレがベッドに寝かせてくるから、あなたも休んでくれ。シャワーと部屋の勝手は分かるよな?」
「ああ、ありがたく使わせてもらう」
オレが床に散らばった英雄殿の荷物を手に取りだしたことを見て、大きく溜め息をついてエスティニアンは愛槍の穂先を以前出入りしていた頃に使っていた部屋へ向ける。だが、何かを思わしげにすぐこちらを振り向いた。
「おい、あまり怒ってやるなよ」
「……善処しよう」
鋭い人だからきっと気取られてしまったのだろう。隠し立てても無駄だと割り切って、するつもりのない口約束を上滑らせた。互いに分かっているからこそ、エスティニアンは肩をすくめてそそくさと奥に引っ込んでいった。
「さて、と」
気持ち良さそうに床とよろしくやっている我らが英雄殿を寝所へ案内する役目を買って出たからには、やり遂げなければなるまい。まだ装備を身に着けているせいで重い体と、いつだって未知が詰まっている荷物を少しばかり魔法で浮かせて情緒もへったくれもないエスコートが始まった。
肩に腕を回しているせいで、深い呼吸が繰り返されていることを顔の近くで感じる。生きている気配。長くもない廊下がずっと続けばなんて、そんな有りもしないことばかりが頭を巡る。
当たり前のように、ものの数秒でいつもこの人が使っていたナップルームに到着した。ここはオレが資料を広げてしまっていたが、他の部屋も同じようなものだから気にしないことにする。紙を踏んで滑らないように注意深く歩いて、部屋の奥に備えつけられたベッドまで一直線に向かうと、ようやくそこで英雄が自発的に身じろぎした。
「……ら、ハ……?」
「ああ、オレだよ。ここはナップルームだ、分かるだろうか?」
「……うん……」
「よかった。ほら、ベッドで寝てくれ」
レビテトを解いてベッドに寝かせる間も抵抗しない上、とろとろになった口調は眠気の強さをオレに教えてくれている。そんなになるまで頑張っていたことも。
「でも、久しぶりに……あえたのに……」
「明日起きてからにしようぜ。明日も会えるから」
ゆるくオレの腕にふれた指先があたたかい。眠気に抗えない、と訴える温度を後押しするようにふかふかの枕に散った髪を梳いてやると、およそ普段は見られないほど口元をゆるませて英雄は夢路に旅立っていった。
「……明日も、会える……」
ぽつん。聞かせる気のない独り言が所在なさげにしている尻尾に寄り添ってくれる。だから大丈夫だ。
戸の閉まる音がかすかに耳を掠めるまで、ゆっくりと呼吸するあどけない寝顔を眺めていた。
結局、なんとなく落ち着かなくてあの人が眠るベッド脇の椅子で寝てしまったせいなのか、朝日と同じくらいに目が覚めた。はた、と見遣ればあの人は変わらず深い呼吸を繰り返していて安心する、と同時に鳴り響く自分の腹の音にがっくり力が抜けてしまった。
分館に置いてある食料はオレ一人の朝食くらいならなんとかなるが、今朝は客人が二人もいる。折角、腰を落ち着けて食べられるのなら旨いものを食べてほしい。そう思うが早いか、起こしてしまわないようにそっと枕元から身を滑らせてナップルームを出たら、一路ラストスタンドへ駆けていた。
きっとあの深い眠りから覚めるまでまだ時間はあるだろうけれど、だからこそ待ち構えて真っ先に言いたいことがある。そんな青い悪戯心と期待が気持ちを、足を逸らせていた。
「おはよう、グ・ラハ。今朝は早いな」
「おはよう! 客人がいるから、朝食に旨いものを食べてもらおうと思って」
「もしかして英雄殿か? なら、これも持っていきな」
朝からたくさん食べる人たちだから、サンドイッチとコーヒーに加えてサラダと軽い肉料理を数点見繕っていたところに、顔馴染みの店員からおまけを持たせてもらった。お陰で紙袋はいつの間にか両手いっぱいに抱えるほどになってしまっていて、少しだけ気恥ずかしい。だが、どうして客人があの人だと分かったのだろう。
「またコーヒーを飲みに来てくれよ。あんたらならいつだって大歓迎だ」
北洋の朝の空気と同じくらいキリリとさわやかな笑顔で店員に見送られて、オレは背中を押してもらっているような心地で坂を登る。それにしても今朝は天気も良くて風も強すぎない、眠るにも冒険するにも最高に気持ち良い日和だ。坂の途中で海を振り返ると、元気な陽の光が水面を照らして朝の挨拶をしてくれているようだった。
ふと頭上から不自然な影が落ちてくる。もう幾分か親しんだ竜の気配は雑にオレの赤毛を混ぜて、言葉を交わす暇もくれずにまた空へ戻っていった。ちゃっかり彼の分の朝食に、と調達したサンドイッチを硬貨と交換で持っていっているあたり抜け目がない。過不足ない重みは彼の旅の成果を見せてくれているようで、それもまた嬉しい。くつくつ、と喉奥に笑みを含ませて、きっとこちらを見ているだろう彼がいる港の方向へ手を振った。
首元にゆるく巻いたストールをなびかせて帰り着いたバルデシオン分館は、やはりまだ誰の気配もしていない。足音を忍ばせて滑り込んだナップルームでも、動くものの気配はあの人が連れている小さなアマロだけだった。恐らくは北洋一旨い朝食がテーブルを彩った頃、あの人は腹の虫にせっつかれて目を覚ますだろう。
くる、と喉を鳴らして擦り寄ってきた幼い隣人を肩の特等席に招待して、あの人の好物ばかりになってしまった朝食を一つ一つ紙袋から取り出していく。興味深そうに覗き込んでいるお利口さんにはパンの端をちぎり分けてあげたら、嬉しそうに啄んでくれた。じわりと胸の奥に感じる、このあたたかさが幸せなのかもしれない。
最後にコーヒーを零さないように並べた頃、芳ばしい香りに誘われるように、もぞりと布団が身じろぎした。
「……あれ……?ナップルームだ……」
まだ微睡みに片足を取られたままの声に誘われて枕元まで行くと、オレを捉えた寝起きの瞳が心底驚いたというように丸く見開かれた。
「おはよう。あんた、昨日の晩のこと覚えているか?」
「お、おはようグ・ラハ……? えっと、確か密猟団と戦って……?」
「そう、エスティニアンがここまで運んでくれたんだ」
オレの肩から主人の腹の上にぽすりと飛び降りたアマロを撫でながら、英雄殿は普段から自信がないと言って憚らない記憶を辿っている様子だ。余程疲れていたのか、曖昧で断片的にしか思い出せない昨日のせいで徐々に深くなっていく眉間の皺を見ているのは、なかなか面白くて思わず声を出して笑ってしまった。
「笑わなくてもいいのに……」
「ごめんって。な、腹減ってるだろ? 朝食にしようぜ」
「うわ、すごい……! ラストスタンドのサンドイッチだ!」
朝食、と聞いて体を起こした後の身のこなしは流石の速さだった。しなやかな足運びは武を修める者のそれで、寝ぼけまなこを擦っていても、やっぱりオレの英雄はすごいのだと誰にでもなく自慢げな気持ちが沸き上がる。
勿論、そんなものは表に出さずに素知らぬ顔で英雄に椅子を勧めて、カトラリーを並べる。余程お腹が空いていたのか、湯気を立てるコーヒーや彩り豊かなサンドイッチ、他にもおまけで付けてもらった甘味を前にした英雄は嬉しそうに笑みを深くしていた。
「ありがとう、グ・ラハ! 美味しそう……これ、もらっていい?」
「ああ、遠慮なく食べてくれよ」
どれから食べようか迷っていたが、やはり最初はサンドイッチからにしたらしい。豪快にかぶりついて、口いっぱいに頬張る姿はただの若者にしか見えない。見とれていたことに気付いた英雄の視線に促されて、オレもまた肉の挟まったサンドイッチを一つ手に取る。
嬉しい。幸せ。ただ隣りにいるだけでそう思える。いつくもの明るい夜と暗い朝を越えた今、ここにいてくれる現実が胸を満たしていた。
それでも、なお思ってしまう。
「さて、英雄殿」
「なに?」
一通り飲み食いして、満足げな表情でコーヒーカップで手をあたためていた英雄が居住まいを正したオレを見つめる。
いつだって願いを口にするのは勇気がいる。オレの欲深さはこの人の負担になっていないだろうか。不安が舌にまとわりついてくるし、やっぱり何でもないと言いそうになる。
ああ、それでも。
「冒険の話、聞かせてくれよ」
新しい物語を紡ぎ続けるこの人の言葉で満たされたい、と願わずにいられない。