冷める前においで

※冒険者はアウラ・ゼラの男性です。

ぐつぐつと煮える鍋からヤクの乳が香り立つ。ひと掬いを小皿に注いで味見をすると、しっかりガーリックの風味が利いたホワイトソースに仕上がっていた。こんなに良い匂いなのに、あの食いしん坊が寄ってこないということはまた地下の本に夢中なのだろう。鍋にかけていた火を消し止めて、俺はエプロンを外しながらグ・ラハのいる地下への階段に向かった。

途中、皿とグラスだけは用意しようと食器棚を開く。大小さまざまな皿にグラス、カトラリーも軽く八人分はある。たまに時間が空くと二人で過ごすシロガネの家にも随分と物が増えたものだ。最初は自分とリテイナーさんたちの分をギリギリ賄えるほどしかなかったのに、グ・ラハがここに出入りするようになってからついつい旅先で食器を見てしまうからだ。夢中になるとないがしろにされがちな彼の食事が少しでも楽しみになるように、と思ったのがきっかけだが、今や食器集めは半分趣味のようになっている。

つくづく彼には甘いな、とゆるむ口元を自覚しながらシチューにぴったりな少し深めの平皿とそれと同じ色合いのグラスを取ってキッチンに置いた。あとは食べてくれる人を連れてくるだけだ。
「グ・ラハ、そろそろお昼にしよう」

声をかけながら地下室に顔を覗かせると、やはり彼は本棚の間で背中を丸めて熱心に知識の海を満喫していた。彼を置いて食事の支度を始めてからそう時間は経っていないのに、もう俺の声も届かないほど深みに潜っていってしまっているようだ。
「グ・ラハ」
「……んー」

すぐ隣りに膝をついて声をかけても生返事。目線はしっかり本に吸いついて、チラリとも離れてくれない。こうなったグ・ラハはなかなか強敵だと、短くない時間を一緒に過ごしたから知っている。さて。どうしてやろうか。
「君の好きなシチューだぞ」

まずは耳元で囁いてみるが耳をピピッと動かして返事されるだけに終わった。普段なら耳は止めろと怒るくせに。
「……冷めちゃうぞ」
「……うん……」

次は黒い鱗に覆われた俺の尻尾で彼のふわふわの尻尾を突きながらだ。だが、これも結局は生返事を引き出すに留まってしまった。無念。いつも俺を見ているらしい視線は未だに文字を追い続けている。

自分も読書を愛する身。本当に集中している時に邪魔をされることの腹立たしさは重々理解しているつもりだ。だが、俺はご飯の支度を始める前に、つまり彼の隣りを離れる前にご飯が出来たらすぐに食べると約束をしたのだ。つまり、これからすることは正当な手段。

そう自分の中で長々と言い訳をしつつ、がら空きの背中側からグ・ラハの腕の下に手を差し入れて思いきり小柄な体を持ち上げてやった。ぶらん、と揺れる首巻きと両足が少し間抜けで面白い。
「うおっ!?」

驚きで逆立った尻尾が鼻に当たってふわふわする。それにしても、どんなに驚いたとしても手から本を取り落とすことはないあたり、彼は本当に好きなのだなと嬉しくなってしまった。
「根詰めすぎ。ご飯はちゃんとしてくれ」

何が起こったのか、自分がぶら下げられていることを理解したグ・ラハはばつの悪そうな顔で肩越しに俺を振り返った。
「このページを読んだら行くつもりだったんだ」
「この間、それで夜中まで待った」
「ん……」

ピン、と立ったままだった耳と尻尾がしおれて大人しくなっていく。少し意地悪を言い過ぎたかもしれないが、前回は彼の言う「もう終わる」「今行く」を信じ続けた結果、ご飯は冷めるわ予定は崩れるわで散々な休日になったのだ。同じ轍は踏まない、それが冒険者の基本だ。

軽い体をぶらぶら揺らしているのにも飽きてしまった。そろそろ空腹も限界だ、と彼をさらに持ち上げて小脇に抱えて階段を上がり始めた。

単純に楽だというのもあるが、後ろに大きく伸びる角に当たると危ないので肩には担げないという事情もあり、自分より小柄な人を運ぶ時は大体この体勢を取らせてもらっている。大概盛大な文句を言われることになるが怪我をさせるよりは良いだろう。そういえばアルフィノとアリゼーを両手に抱えて走ったこともあったっけ、と思い出に耽っているとやはりジタバタと暴れながら聞かん坊が文句を言い始めた。
「ちょ、おい! 自分で歩くってば!」
「そういうのは本を置いてから言ってくれ。ほら、暴れると階段から落ちるぞ」

うー、とか何とか言いつつもグ・ラハは暴れることは止めてくれた。素直な人には食後のデザートに秘蔵のピーチタルトを振る舞ってやることにしよう。きっと彼と縁深いクリスタルに似た澄んだガラスの皿が似合う。