こんなに寒い夜には
今夜は月が妙に明るい。
街の営みが煌々と辺りを照らす中でも自分を見ろとばかりに輝く女神をどうして一人に出来るだろう。俺は拡げかけていた商売道具と竪琴を担ぎなおし、喧噪を離れた。
小高い丘が良いだろう。キャンプを設営して夜っぴて空を眺めていられるような場所。旅に生きてきた今までの記憶を探れば、近くに丁度良い穴場があったことを思い出した。鉱物や薬草、食べられる植物が獲れるわけでもなく、チョコボがいないと辿り着きにくいせいで魔物や冒険者たちもなかなか来ない。早速、相棒のチョコボを駆れば程なくして到着した丘の上は案の定、人の気配もなければラット一匹いなかった。
見上げれば街中で見るよりも更に明るく、大きな月が冴えざえと輝いている。ムーンキーパーたちの心も今なら少しは分かるほど、今夜の女神の衣は美しかった。
片時も目を離していたくない惜しさはあるが、早々に野営の準備だけでもしてしまわなければ。チョコボを休ませたいし、万が一獣たちが寄ってこないように小さな焚き火を起こす。座るのに丁度良い塩梅の石を据えれば、今夜の謁見室の準備は終わりだ。作業の最中も時折空を見上げては溜め息をついていたせいで想定の倍以上の時間がかかってしまったが、まあ良しとしよう。
やっと腰を落ち着けて月明りを顔全体で受け取る。旅を長く続けてきたものだが、こんなに美しい夜は初めてかもしれない。今日が終わってしまったら、また彼女にまみえることが出来るだろうか。天体の知識がない俺には次に逢える日を知りえない。もしかしたら一生に一度の出逢いの可能性だってある。ならば、この逢瀬をめいっぱい愉しまなければ一瞬を宝とする旅人とは言えないだろう。
不意に視界に湯気が掠めて、そういえばコーヒーを用意しようと思ってヤカンを火にかけていたことを思い出した。この一杯は彼女に捧げよう。安物だが気持ちを込めれば不味くはないはずだ。細挽きにした粉をドリップすれば香ばしい薫りが湯気と共に浮かび上がった。
「あの……」
ガリ、と足音と一緒に背中から声が投げかけられた。手を矢筒に伸ばしながら振り返ると、俺と同じようにチョコボを連れた冒険者風の人がこちらに向かって丘を登ってきていた。害意はないと示すように諸手を上げているその人は訝しげな俺を見て、更に言葉を重ねる。
「悪いけれど、今夜ここにいても良いかな?」
「そ、れは……良いけれど、どうしてまたこんなに何もない所に?」
チョコボを連れた人はス、とまるで高貴な人を指し示す時のような、冒険者という身分にしては妙に板についた丁寧な身振りで空を示した。
「こんなに月がきれいだから、見晴らしの良い場所で眺めていたくて」
まさか自分と同じような人に、それもこんな辺鄙な場所で巡り合うなんて思ってもいなくて耐え切れずに噴き出してしまった。笑いが止まらない私に冒険者も人懐っこい笑みを見せて焚き火の側に近付いてきた。
荷を下ろしたその人に聞けば、やはり見た目通りの冒険者らしく旅に生きる身の上だという。曰く、若いころからグランドカンパニーやギルドの依頼をこなしながら各地を旅して巡り、エオルゼア三国は勿論、開国前後のイシュガルド、東方や北州にも足を運んだこともあったらしい。
「若い頃の話だけどね」
穏やかに笑って話す冒険者はとてもではないが熟練の冒険者には見えず、流石に話を大きくしているのかと疑いながら聞いていたが、その語り口はどうにも本当にその場にいたような鮮やかさを感じる。その足跡はまるで十数年前、星中にその名を轟かせた英雄のようだった。まさか英雄本人がこんなど辺境にいるとも思えないし、よくてかの人の追っかけか何かだろう。
薄い身の上話がひと段落した時を見計らって、お近付きの証にコーヒーを注いだマグカップを手渡すと、更ににこやかに笑みを深くした冒険者は一口飲んでまた空を見上げた。
「それにしても、今夜はメネフィナは随分と機嫌が良いらしい」
「そうだな」
俺も改めて空を見遣る。さわさわと肌を撫でる夜風が焚き火であたたまった頬を冷やしてくれて心地良い。穏やかすぎるほどの夜を行きずりの冒険者と過ごしている今の状況があんまりに面白くて、気を抜けば笑いがこぼれていきそうだ。折角の長い夜なのだ、不思議な縁を結んだこの冒険者にも楽しんでほしいと思うのはきっと歌と生きる自分の性だろう。
「なぁ、俺ァこれでも吟遊詩人でね。旅先でいろんな物語を収集しているから、一晩では足りないほどの言葉と連れ添って生きているんだ」
急に話し出した俺を冒険者の目が見つめる。何の前触れもなく身の上を話されればそうなるだろう。
「女神様から賜った不思議な縁を祝して、あんたに一つ贈らせてくれないか?」
「……良いのか? 本職の人がそんなかんたんに」
「普段ならやらないね。でも、気分が良いんだ」
どうかな?と、首をかしげて問うてみれば、冒険者はかなり悩んでいる様子だった。なるほど、あちこち歩き回っている分、技術への応え方にちゃんとした考えがあるようだ。ただの英雄の追っかけかと思っていたが存外、全うな人らしい。側に置いた竪琴を抱えて待っていると、考えがまとまったその人は遠慮がちに微笑んだ。
「流石に何のお代もなしに語らせるわけにはいかない。これでも短い一生のほとんどを旅に生かされてきたんだ。分不相応かもしれないけれど、あなたの物語一つにこちらも物語を一つあげよう」
「それは助かる! 俺ァあんたみたいな人から聞く冒険譚が一等好きなんだ。さあさ、まずは景気づけに定番から聞いてもらおうか」
愛用の竪琴を構え、今夜のたった一人の観客へ向けて弦を爪弾く。遠慮がちな瞳が途端に爛々と輝くのを認めて、思ったより素直で善い人なのだと知った。
「俺たちの手の届くほどの昔のことだ」