朽ちぬ老木
※冒険者はヴィエラの男性(見た目は若いけれど結構なおじいちゃん)です。
私が追いかけているあの人は、戦場では冴えわたる剣技と緻密な魔術で以て道を切り拓き、剣を納めている時は興味の向くまま各地を飛び回りひと所に落ち着くことがない。強さも知も求めて留まるところを知らない、まるで好奇心を絵に描いたような冒険者。
だから、たまに忘れそうになる。あの人──暁の英雄は私たちの誰よりもずっとずっと長い時間を生きてきたおじいちゃんなのだということを。
「どうした、アリゼー?」
「何でもない、気にしないで」
「ふぅん?」
背中だからと見過ぎていたことに気付かれていたのかしら、と顔を逸らす。逆に私を見詰め返してきたあの人の視線が痛くて仕方がないからというのもあるけれど、何より笑顔が見ていられなくて。
「それにしては、穴が空くほど見つめてくれていたと思ったけど」
ツカツカとお気に入りのブーツの踵を鳴らし、自慢の長い耳を揺らして私がいる机まで寄ってきた。
「ねぇ、俺に隠し事しないで?」
彼だけに吹く風が羽織物の裾が揺らしていて目を奪われている隙に自然な流れであの人は対面に座っていた。頬杖までついて、じっと見つめながら徐々に瞳に映る私がハッキリ見える距離まで近付いていて。気を抜いて呼吸なんてしようものなら、吐息にふれてしまうほどの近さで見詰められたら。
「おい、そのくらいにしておけ」
声と一緒に星空のように深い紺色の瞳が離れていく。同時に私の鼻先との間に滑り込んできた大きな手のひらの近さにあの人が詰めてきた距離を改めて突きつけてきて、途端に顔に体中の熱という熱が収束してきた。彼の視界が塞がれていて良かった。
「エスティニアン……!?」
今回ばかりは助けられてしまった。あの人自慢の長い耳をまとめ掴んでいるエスティニアンは呆れを隠さずに私を見ている。分かっているのに、それでもあの人の顔を見たら避けられないということも知っているから私にもそんな顔を見せるのだろう。分かっているのに、分かっているのに動けなくなるのだから仕方ないでしょう。
「おかえり、相棒」
頭上から降ってきた深い溜め息を物ともせず、あの人はあっけらかんとエスティニアンに挨拶をしている。目を塞ぐ手をペチペチ叩いて離すように催促するが、エスティニアンは無視をしたまま動こうとしない。きっと私が平静を取り戻すまで待ってくれているのだ。初対面こそ私とアルフィノを間違える最低な奴だと思っていたけれど、アルフィノの話すように案外周りを見ているらしいこと、行動で示すらしいことは一緒に過ごすようになってよく分かった。
「お前な、年頃の娘を困らせるな」
「ふふ、どうしても可愛くてね」
「全く、このじいさんは凝りていないな……」
あの人は反省しろとばかりにぐいぐいと耳を引っ張られても「痛いよ」なんて笑っている。切れ長な目元がようやくエスティニアンの手から解放されて、人懐っこそうな笑みがますます振りまかれた。さっきまでまとっていた強い引力なんて露ほども感じさせなくて、それがどうしてか嬉しい自分もいることには気付いている。
「アリゼー、アルフィノが呼んでいたぞ。行ってやれ」
「え、ええ……」
視線で外を示したエスティニアンに促されるまま、私は側に置いていた剣と荷物を掴んでアルフィノが待っているらしいセブンスヘブンへと向かう。
この後、何か予定でもあったっけと考えながら遠くなっていく二人の会話を背中で聞いた。どうしても出かける前にもう一度振り返りたくなって、扉に手をかけたところで後ろを見れば、あの人は変わらず耳をつかまれたまま、ますます笑みを深めてこちらに手を振っていた。
ぐ、と扉を押す手に思わず力がこもる。形の良い唇が弧を描く度、あの人が欲しい言葉をくれる度、背中に庇われる度。幾度となく繰り返してきたように、のたうち回る自分を押さえつけた。大丈夫、隠しきれているはず。ちゃんと手を振って外に出るまで、むずつく口角を我慢するだけ。
「いってらっしゃい、気を付けて」
背中に感じるあの人の視線が途切れる直前、扉が閉まる隙間をするりと擦り抜けてきた声を合図に私は遂に駆け出してしまった。ずるい。あの人は私たちの誰よりもおじいちゃんの癖にずるい。