04__案外かんたんなこと

資料でぐちゃくちゃの部屋で机に突っ伏したまま今日も目が覚めた。バキバキと小気味の良い音を立てて体を伸ばし、もう転ばないように体の痺れが取れるまで辛抱強く待ってから立ち上がる。時計の針はいつもオレが起きる時間を指していて、今日もオレと同じく優秀な体内時計を褒めてやると褒美を寄越せと腹が鳴った。

我ながら今日も能天気なほどに元気な体に苦笑しつつ、そのおかしさにまた笑みが漏れる。さあ今日も出かけよう、と螺旋階段を駆け降りて扉を開く。本来なら朝日が眩しいくらいの時間帯だろうけど、多少強弱の波こそあっても雲一つない空からは彩りのない太陽の光しか注がれることはない。

日除けのフードを被り直しつつ、塔から出て少し歩く。すると、すぐ何かが焼ける香ばしくて良い匂いが漂ってくると同時に、少し前と比べると多くなった人影が動いているのが見えた。
「おはよう、みんな!」
「兄ちゃん! おはようさん、今日も朝飯食ってくだろ?」
「ありがとう、ウィル。散歩から帰ったら食う!」

ディアミドとの別れを経たウィルたちはあの日、塔で一夜を明かしてからテントで出来た彼らの小さな村を塔の足元に移動させた。オレもそれでみんなが安心を多少でも得られるのなら、と塔の中には居住スペースを作らないことだけを約束してもらって受け容れた。いつオレがこの塔の制御を失うか分からない上、クリスタルタワー──シルクスの塔に未知の危険が隠れている可能性があることを思うと、迂闊なことは避けたかったからだ。

そして、いくつかの明るい夜が過ぎた今、テントの数は増え続けている。レイクランドだけでなく、どうやら近隣からも塔を目指して人が流れてきているらしい。今のところ悪いものは紛れ込んでいないようだが、それも時間の問題だろうか。

折角立ち上がったみんなの出端をくじくようなことは何とか避けたいし、それが巡りめぐってあいつを救う道に繋がるんじゃないかと予感がしている。そろそろみんなと話した方がいい頃合いなのかもしれない。
「塔の君、すまないが散歩ついでに果物を採ってきてくれないか?」
「おー、良いぜ。じゃあ、行ってくる」

背中を追ってくるイヴの溌剌とした声に手を挙げて応え、オレは湖の方角へと歩き出した。

こっちに来てから日課になったクリスタルタワー周辺の散歩は、いつも新しい道を探し歩くことにしている。大半が見たことのない植物や動物だったが、何処か懐かしい面影を持つものもたまに見かけて、それがオレはどうしようもなく嬉しく感じられた。たとえ次元の隔たりがあろうとも、オレたちは同じ世界を生きているのだと思えるから。

途中、イヴから依頼された朝飯になりそうな果物や良い感じの枝を採りつつ、どんどん塔から離れて西へと向かう。すると、少し遠くから人の声と足音が聞こえた。それもいくつか重そうな金属の音も混じっているような気がする。もしかしてまた塔を目指して歩いてきた難民か、とその音の方へ進路を変えて歩き出すとすぐにその尻尾が見えてきた。

その一団の先頭で見覚えのある栗色の髪が揺れている。金属の擦れる音が聞こえた時に期待していたことを認め、精一杯の声を張り上げながら駆け出す。
「おーい! ルネー!」

もう人と出会う方が難しい荒野でまさか自分を呼びかける声があるなんて思いもしなかったのだろう、肩が大きく揺れると同時に流れるような動作で手が愛剣の柄に伸びるが、すぐにオレの姿を見つけると鋭い眼差しがどんどん驚きに、そして喜びに塗り変わっていく。
「青年ではないか!」
「みんな、無事だったんだな! うおあっ」
「おお、おお、君こそ! また会えて嬉しいぞ、青年!」

駆け寄りつつバッと勢いよく広げた腕の中にオレを引き入れたルネは、ぎゅうぎゅうと抱き締めて離してくれなかった。厚い胸板に顔を押し付けられているせいで表情は見えなくても、腕にこめられた力の強さが彼の感情を直接教えてくれる。最初は驚きのあまりぶわぶわに広がっていた尻尾と耳が落ち着いた頃に、ルネは彼の側近にたしなめられてようやく腕の中から逃がしてくれた。

ルネの後ろに控えている一行を見回すと、この間よりも心なしか装備にも汚れや傷が目立ち、なにより一緒に食事を摂った数人の顔が見えないようだった。いくつもの問いが過ぎっては声になる前に腹の奥底に沈んでいく。
「……砦を出てきたんだな」
「ああ。実はあの後、白いあいつらの集団が近くに出てな。もう、あそこを捨てるしかなかった」
「そっか……」

ようやく音になった言葉にどれほどの気持ちを乗せてしまったのだろう。ルネの大きな手がしおれた耳ごと髪をかき混ぜて、この話は終わりだと言外に告げられる。
「行き先は決まってんのか?」
「ひとまずあの塔へ向かうつもりだった。君もいるだろうし、何より他に行く宛もないものでな」
「そうだったのか! じゃあ、案内役はオレがやる。他にも塔を見つけて集まってきた奴らがいるんだ。丁度朝飯もあるからみんなで食べようぜ」
「それは助かる。みんな、もう少しの辛抱だ」

疲れきった様子の一行から明るい声がちらほらと湧き上がって、近くで座り込んでいた同士で互いに助け起こしつつ、みんなが一様に塔の方へと顔を向ける。強すぎる光の向こうでもなお輝く碧い光に向かってオレたちは出発した。

砦を出てからずっと歩き詰めだっただろうに、一行はくたびれた様子だったが非戦闘員の大人や子どもたちも足取りはしっかりしているようだ。幸い、塔までの道中は罪喰いに遭遇することもなく、想定していたよりも早くウィルやイヴたちが広げているキャンプへ戻ることが出来た。立ち並ぶテントと焚き火の煙が見えた時のみんなの歓声はきっと忘れられないだろう。
「おかえり、塔の君。おや、新しい顔を連れてくるとは珍しい。ようこそ、お客人。我らの仮住まいへ」

一人で出かけたはずのオレが大勢を連れて戻ってきてもイヴは動揺するどころか、光耀教の手仕草を切って嬉しそうな笑顔を見せてくれた。一行の中から進み出てきてくれたルネに若い司祭を引き合わせる。
「ああ、オレが前に世話になったんだ。ルネ、この人はイヴ。ここを取り纏めてくれてるんだ」
「言い過ぎだよ、塔の君。私は光耀教の司祭、イヴ。その装束と紋章、レイクランド連邦の騎士殿とお見受けする……故国のことは残念だった」
「司祭殿のお言葉、痛み入る。レイクランド連邦の騎士、ルネだ。しばし世話になる」

光耀教の祈りの仕草を互いにしてみせた二人の顔役の良い雰囲気にオレの頬は自然とゆるむ。友人同士が仲良くしているといつだって嬉しくなるものだ。
「イヴ、悪いんだけどみんなに食事を用意してくれないか? オレ、その間にみんなのテント準備してくるぜ。あ、これ頼まれてた果物!」
「承知した。さあ、みなさん。こちらへ」
「青年、何から何まですまない」
「いいんだ、前に良くしてもらった礼だと思ってくれよ。後でゆっくり話そうぜ!」

確かまだ塔の中に物資が残っていたはずだ。連邦のみんながここに留まるにしても、別の場所へ行くとしても、しばらく体を休める場所は必要だろう。久し振りに会えた面々に少し舞い上がっている自分を自覚しながら、オレは塔へと走っていった。

「しかし、かなり人が多いな」

オレは食事と休息を摂ったルネと一緒にテントが立ち並ぶ塔の足元を歩いていた。ウィルたちを迎えてから徐々にテントの数を増やしている塔の足元は、最早小さな村くらいの規模にまで発展を遂げていた。ここにいる誰もがもう取り戻せない何かを抱えていると思うと、胸の奥がギュッと痛くなる。

勿論、そんなことは顔に出さず、新しい暮らしを送る人たちの合間を挨拶しつつ歩き抜けて行く中、現状の確認やオレが塔に戻った後に互いに起こったこと、そして罪喰いについてルネとオレは山ほどある情報を共有しあった。
「ああ、段々人数が増えてるみたいなんだ。みんな、この塔しか行く宛がないって」
「なるほど。確かに、この塔は君の言うように希望なのだな」

そう言って、ルネは眩しげに目を細めて塔を見上げていた。

希望。あの日、塔へ駆け戻って行く前にルネと交わした言葉だ。オレは希望を届けるためにここまで来た。この世界ごと救ってやると、そう誓ったんだ。

深い一呼吸を経て、立ち止まる。少しだけ前を行く形になったルネを真っ直ぐ見据えて、オレはここでみんなと過ごすうちに浮かんでいたことを言葉にする。
「……なあ。オレ、考えてることがあるんだけど、聞いてくれるか?」
「勿論だ」
「あんたのそのさっぱりしたところ、結構好きだぜ……じゃなくて、本題だな。オレ、ここに本当の街を創ろうと思ってるんだ。誰もが安心して眠れる、みんなの家」
「……街、か……」

ふむ、とルネは考え込むように顎を手で撫でつつ目を伏せて黙ってしまった。正直、余所者が何を言っているんだと怒られても仕方がない。本来、レイクランド連邦は文字通りレイクランド全域に影響力がある国家だったらしい。光の氾濫に押し流され、最早その形を亡くしてしまっていたとしても、きっと新参者が大きい顔をすること自体に良い気はしないはずだ。
「良い、とても良い! この塔を中心として末代まで希望を届ける、良い計画じゃないか!」
「本当に!?」

カッと目を見開いたルネの言葉はオレの予想を斜め上に、でも嬉しい意味で裏切るものだった。興奮気味に良い、良いと繰り返す彼にオレは思わず叫ばずにはいられなかった。
「そうだ、私にも提案がある。このルネをその計画に加えてみないか? 騎士としての……いや、私の全てをその希望に賭けても良いぞ」
「えっ!?」
「なんだ、不満か?」
「い、いや……嬉しすぎて、驚いてるんだ……でも、本当か? だって、オレたちまだ会って間もないんだぞ?」
「あっはっは! そんなことを言い出せば、何事にも踏み出せないぞ、青年! それにな、ここに集う者たちの顔を見れば分かることもある!」

バンバンと痛いくらいに背中を叩くルネは、オレの肩に手を置いてオレではなく自身に何かを言い聞かせるように言葉を繋ぐ。
「レイクランド……いや、この世界は一度終わりを迎え、今この時よりまた始まるのだ。出会ってからの時間よりも、これから共に時を過ごすことに目を向ける方が建設的ではないか? おっと、街を創るから建設的という訳ではないぞ?」

パチリと茶目っ気たっぷりにウインクをするルネに、何故かあいつを思い出す。あいつも絶望的な状況でこういう余裕をかませる奴だった。ルネもあいつも同じ、周りを奮い立たせる達人みたいだ。
「ありがとう、ルネ」
「それは私の台詞だ。これから共に歩んでいこう、青年」

今度はニッと笑い合って、初めて一緒に戦った時みたいに大きさの違う拳をぶつけ合う。立ち並ぶテントの中心、広場のように開けているところへ歩幅の違う二人分の足跡をつけてオレたちは歩き出した。

「イヴ、みんなも。ちょっとだけ、オレに時間をくれないか」

広場に着いてから早速、子どもたちの面倒を見ていたイヴに声をかけて、塔の下で暮らしている人を大人も子どもも漏れなく全員集めてもらった。集まったみんなは思いおもいくつろいでいて、かなり大きくとったはずの広場も全員が集まると流石に手狭になっているようだ。ああ、この塔は確かにここでも人々の希望の象徴となっていたのだ、と実感する。ここからはオレがその希望を未来へ繋ぐために、ひと頑張りする番だ。
「みんな、忙しいのに悪い。オレからみんなに提案があるんだ」

街を創ろう。

最初こそ不安や疑念、馬鹿馬鹿しいと冷えた笑いを浮かべていた人ばかりだったが、さっきルネと話していた未来のことを一つずつ言葉を選んで話していく内、徐々に高揚感や期待、そういったエネルギーに満ちた表情がちらほらと浮かんでくる。
「……以上だ。勿論、強制なんてしない。みんなの意見を聞かせてくれないか」
「お、俺! 良いと思う! 街を創るなんて、考えたこともなかった!」

シンと静まり返った広場で真っ先に口火を切ったのはウィルだった。勢いよく立ち上がって、上気させた頬を隠さない彼の姿にあちこちから肯定の声が上がり始める。ルネに話す前から抱いていた不安はまだあったけれど、雰囲気は悪くないみたいだ。ここから軌道に乗るまでが大変だろうけれど、ルネやウィルみたいに協力的な奴がいればきっと大丈夫だ。
「……塔の君、質問をしても?」
「ああ、何でも訊いてくれていいぜ」

す、と手を挙げたのはみんなの輪の一番外側に立っていたイヴだった。全員の顔を見回して、それから彼女はオレを見据える。
「街を創るなんて途方もない話だが、何もない私たちにとっては大きな……とても大きな希望だと思えた。だからこそ、どうして。余所から来たあなたがそんなにも必死になってくれる?」

みんなの意識がオレに向くのが分かる。握った手にじんわりと汗が滲むのを感じた。恐らくこの答え如何でみんなのモチベーションが変わってくるような、そんな気がする。

包み隠さず全てを明かすことは到底出来ない。それでも、みんなには事実の中から選んだ本当のことを話さなきゃならない。ぐっと手を握ってイヴを、それから集まってくれた人々を見回す。
「オレは、やり遂げなきゃいけないことがあるんだ。いくつもの願い、そのためにオレはここにいる」

あいつを救うためにオレはここにいる。胸の内で呟く。
「……つまり、街創りはあくまでその通過点でしかない、と」
「……みんなにとって帰れる場所を作りたいっていうのは嘘じゃねぇけど、本当の目的はそこにはない……悪い、これ以上は言えねぇんだ」
「……そう、か」

腕組みをして黙し、考える素振りを見せるイヴをみんなが見守る中、オレの胸中は不安でいっぱいだった。

みんなを利用して街を創ると宣言して、しかもその最終目的は明かせないときた。非道い奴だ、もうここからは出ていくと言われるかもしれない。オレがみんなの立場なら怒ってるかもしれないな、と思いつつイヴの次の言葉を待つ。
「常々感じていたが、そんな腹を抱えていたとはな……全く、非道い男だ」

彼女が組んだ腕は緩やかに解かれ、そして広場にいる人々の間、真ん中を突っ切ってオレの元へと歩み寄ってくる。
「だが、そういう人だからこそ。私は信用しても良いと思える。世界のために、などと言い出せばそれこそ出ていってやろうと思っていた」

そして、小さな手が差し出される。彼女の手もまた、戦う者の手だ。
「それに、光の神の加護が失われた今こそ……新たなる道を探し始めるべきなのだろう」
「イヴ……!」

差し出された手を固く握ると、同じように彼女も力を込めて握り返してくれる。オレの中のどこにももう不安はなかった。

塔に集った人々に寄り添い続けてきた司祭の言葉に、不安げな表情を見せていた人々もようやく決心がついたように上を向いてくれた。すぐに変わることが難しくても少しずつでも良い。歩き出そうとしてくれるならきっとこの世界はまた前に進める。みんなの意志がこの世界を救う希望になるんだ。
「……滅びの歌が響く世界でも、明日が光に塗り潰されて見えなくなっちまっても。オレたちだけは立ち続ける、隣りに居る仲間と共に」

ぐるりと広場に集まってくれているみんなを見回すとルネ、ウィル、イヴと順々に視線が合う。そして、ここにはいない青い制服をまとった陰が見えたような気がした。
「時には強い逆風の中、立つことも出来ねぇ時もあると思う。だが、オレたちは誰もが一人じゃない、一人になんてさせない。共に手を取り合って再び立ち上がれる、そんな仲間たちがいることを忘れないでくれ」

おもむろにアウラ族の子どもが立ち上がる。静かに、でも真っ直ぐ塔を見つめているその姿にガーロンド社のあいつらと同じ強さを感じた。抑えきれない気持ちに突き動かされる感覚に、座っていた人々が立ち上がり始める。
「だから、いずれ叛旗の時が来たならば立ち上がれ。オレたちは、滅びの運命に反逆し続ける者で在ろう」

胸の内、全てを言い切った。本当の気持ちを込めた言葉はきっとみんなにも届いたはずだ。時間をかけても、新しい芽になって世界を作り出す力になればいい。

振り仰げば、無尽蔵に降り注ぐ光の中、クリスタルタワーがオレたちを見下ろしていた。誰もが瞳に碧い塔を映し、静かな決意の光を灯している。オレたちはここから始める。何もなくなってしまった世界で、生き残るための戦いを。

新しい門出を祝う宴は真夜中の時間帯になってもなお続いている。物資が限られている今、みんなの中心にあるのはそれぞれの郷里で親しまれていた歌と物語だ。レイクランド連邦の建国に関わった騎士たちの英雄譚、砂漠の国アム・アレーンの商人たちの寓話、フッブート王国の魔道士たちの冒険譚など、煌びやかな物語の数々は決して尽きることのない泉のように人々の言葉を借りて姿を顕している。

異郷の英雄たちの物語を浴びるように聞ける機会は惜しかったが、どうしても考えが止まらなくなっていたオレはそっとみんなの輪からそっと抜け出し、静かな場所を探しに散歩に出かけた。一応、イヴには声をかけたから何かあっても大丈夫だろう。

明日から始まるオレたちの街創り。

ひとまず必要な要素は、安心して眠れる場所で在ることだろう。守りやすく、攻めにくい要塞。それこそアジス・ラーのような。だけど、あれでは心からくつろげる場所にはならないだろう。オレもここのみんなも地面から足を離したまま生きることは出来ないし、何より技術も資材もない。なら、山が多いレイクランドの地形を利用するのが一番手っ取り早いし、ある程度時間の節約も出来るだろう。

かと言ってオレにその手の知識があるはずがない。あるのはアラグ帝国に関する歴史、いくつもの英雄譚。きっと協力してくれる人々の中にそういう知識を持つ者や実際に建てる技術を持っている者がいるだろうし、もしそういった人材がいなかったとしてもノルヴラントの何処かにはいるはずだ。

将来的に必要なのは居住スペースと医療、食料もいずれ自給自足出来るように環境を整えていかなきゃならない。それと罪喰い対策としての防衛力。あいつらの生態にまだ分からないことが多い今、攻勢に打って出ることはなくても身を守れる力は絶対に必要だ。

少し考えただけてもやることが山ほどあると気付いて、今更血の気が引いてくる。だが幸い、想定よりかなりずれて第一世界に渡ってきたらしいオレにはまだ時間が残されている。それこそ、一人の人間が生きるには長すぎるほどに。街を創るにも、罪喰いを打ち払う方法を探すためにも試行錯誤する時間があるということだ。

とはいえ、オレが途中で死んでしまったら元も子もない。罪喰いとの戦闘以外にも危険はたくさん転がっている。未知の病や毒、それとあまり考えたくないけれど人同士の争いだってあるだろう。そのどれにもオレは倒れる訳にはいかない。
「ずっとこのままでいられたらなぁ……」

あいつに見送られてからガーロンド社のみんなに起こされるまでの間は大体二百年が経っていたが、塔と一緒にオレ自身の時間を止めていたお陰で寝入り始めた当時の体で目覚めることが出来た。起きてしばらくは鈍りきった体を元に戻すための訓練に苦労したが、きっとその時間がなかったらオレはあいつを失った悲しみに押し潰されていただろう。

とにかく、今の課題は計画の完遂までオレの寿命を伸ばすことだ。この間まで出来ていたことを、今度は眠ることなく実現させれば良いだけだ。例えばオレの中の時間の流れを遅くするとか、そもそも歳を取るのを止めるとか。

なかなか良いアイディアが思い浮かばず、手近にあったクリスタルタワーの表面に頭をゴリゴリと擦り付ける。回転し続けて熱くなってきた頭に、ひんやりとしたクリスタルが心地よかった。

額を冷やしてくれる冷たさは、雪に閉ざされたクルザスの新雪を思い出させてくれる。同時に、真っ白い雪原を大はしゃぎで駆け回るあいつが脳裏によぎった。そんな姿、見たこともないのに都合の良い想像ばかりする頭が見せた幻は、それでもオレに力をくれた。

必ず、もう一度あいつが果てない旅路に出られるように。

あいつが周りをあたためるような笑顔で振り向いた時、厚い雲間から一筋の光が射すように一つの方法が目の前に現れた。額を押し付けていたクリスタルタワーに手をふれる。

こんなにも近くに標はあったんだ。

成功するかは分からない。でも、この体を流れる旧い約束を帯びた血がきっとオレを導いてくれると信じて、今は出来ることをするしかない。たとえ、その果てにいるオレがヒトでなくなったとしても。

とうの昔に括った腹を抱えて、オレは塔の中へと進み入る。多分、こういう時は塔に直接さわれるような場所で、且つ力の循環の中心が適しているんだと思う。どこかにそういう場所はあったかと記憶を探っていると、意外とすぐに答えは見つかった。

オレが自室同然に散らかしている、世界の理が描かれたあの小部屋がいいだろう。

毎日通っているのにまだ慣れない豪華絢爛な螺旋階段を抜けて、その部屋へ続く扉を押し開くと真正面に置かれた大きな鏡がいつものように出迎えてくれた。きっと、あの大鏡が媒介になってくれる。そんな気がする。

ゆっくりと大鏡の前に歩み寄って、その鏡面に右手でふれてみる。誰かがいたら聞こえてしまうんじゃないかと錯覚するくらい、静かな部屋ではオレの鼓動だけが緊張で大きく脈打っている。

しばらくじっとしていたが何も起こる気配がなく、鼓動も徐々に落ち着き始めていた。
「おっかしいな……なんか、こう、上手くいきそうなんだけどな……」

正直、詳しい方法は分からないけれど、何故か識っているような気がして、きっとこれも血に遺った記憶の一つなのだろうかと首を捻る。

不意に思い立って、指先から練ったエーテルを鏡に流し込んでみる。すると、それまで風のない日の湖のように静かだった鏡面に、波紋が起こった。小さな光の波は徐々に大きなうねりになって隅々へと広がっていき、鏡の縁を越えて壁を伝い音もなく塔へと伝播していく。何が起こっているのかは分からない、だけど決して手は離さなかった。

そして、光の波は唐突に止む。もしかして失敗、むしろそもそも方法が間違っていたのか、と鏡を見つめていると背後から強い光が溢れ、凄まじい速度で鏡へと押し寄せてくる。さっきとは逆向きの光の波は鏡を通してオレの指先に伝わり、そして中へと入ってきた。
「っう、ああああっ!?」

逆流するエーテル。最早自分が流し込んだものと同質とは考えられないほど強大で、深く、鋭く、懐かしかった。

抗えない力に捩じ伏せられている、心臓を鷲掴みされているような感覚。

痛み、痛みのような何かが体の中で暴れ回っている。

思考が散って何も考えられない。オレは一体何のためにここにいるんだったっけ。

それでも、この右手だけは絶対に鏡から離してはいけない。それだけに今は集中すれば良い。

痛みに視界がぼやける中、意外と順応してきた体は体の内側から何かが凍りつくようなバキバキという音が響いていることに気付く。そうだ、凍りついているのではなく、結晶化しているのだ。この体が、今まさにヒトを捨てている音。

一際大きなバキンッという音が胸の奥に響き、ようやく痛みも音も何もかもが収まった。張り詰めていた意識も体もとうに限界を迎えていたらしく、ひとまずの終わりを認識した瞬間にふっと全てが暗転する。